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誰でも書ける時代だからこそ、誰も書けない言葉を見つける

4時に起きる。日本対チュニジアは4対0の快勝。日本は強い。さて今日は書評。読んだ本から誰かに紹介したい本を選別し、読書感想文を積み上げています。読んだきっかけは、本を出したいから。

いつか本を出したいと思いながら、毎日1000字以上をnoteに書き続けている。書くことへの動機は、自己理解のため。インプットを整理し、言葉にして、少しずつ自分の輪郭を確かめていく作業として、書くことを使ってきた。

だから佐藤友美さんの『書く仕事がしたい』と『本を出したい』を手に取ったとき、自分の実務に応用したり、進化させるつもりで読んだ。

誰のために書くか

毎日書いていると、「書きたいこと」と「伝わること」のずれに、だんだん敏感になってくる。書きたいことを書いても、誰かに届いているのかどうか、自分ではわからない。その感覚をずっと言葉にできずにいたのだが、佐藤さんの一文に出会ってすっと腑に落ちた。

書籍は、読者の課題を解決しなければならない

書き手のためではなく、読者のためにある。それだけのことだが、簡単ではない。自分が書きたいから書く、という動機が悪いわけではない。ただ、誰かに届けようとするなら、まず「誰の、どんな課題か」を決めてから書き始める必要があるのだ。

課題のサイズは大小さまざまで、今日の夕飯メニューの悩みも、人生をどう生きるかという悩みも、同じ「課題」として並んでいる。どのサイズに向けて語るのかを決めずに書き始めると、結局誰にも刺さらない、輪郭のぼやけた文章になる。課題を決める、書く前の段階で、もう半分は誰に届くか決まっている。

オリジナルの言葉

書き続けていると、ふと「自分の言葉はどこにあるのか」と不安になることがある。似たようなフレーズを使い回していないか。どこかで読んだ言葉をそのまま借りていないか。そういう不安を抱えていたときに、本書に登場するある編集者の言葉として紹介している文章が刺さった。

著者になる資格があるかどうかは、オリジナルの言葉を持っているかどうか

伝えたいことを「格言にする気持ちで書く」といい、100の格言があれば、それがそのまま見出しになるという。確かにアンダーラインを引きたくなる言葉の数が、原稿の価値を測る指標なのかもしれない。私もいいなと思った本は、本の端を折るか、ポストイットを貼る。

毎日書いているのに、自分の言葉として手元に残っているものが、どれだけあるだろうかと考えた。量を積み重ねても、それがオリジナルの言葉になるかどうかは、また別の話だ。削って削って、最後に残った一文こそが、自分の言葉なのだろうと思う。

自分にしか書けない話

著者になるには、自分の経験のサイズに合わせて、課題を小さく削っていく発想が必要なのだという。「大企業で育休を4回とった生き方」のように、固有の体験ほど強い、というくだりで、少し考えた。普遍的な話より、自分にしか書けない具体の方が届く。そのことは頭でわかっているのに、いざ書こうとすると、つい抽象的な「気づき」や「学び」しか思いつかない自分がいる。一般論は書きやすい。けれど一般論は、誰が書いても同じになる。

プロフィールも同じで、経歴を時系列に並べるだけでは弱い。「なぜ自分がこれを書く資格があるのか」をひとつの文章として組み立てることが、企画採用の決め手になるという。経歴の長さではなく、経歴の編集の仕方が問われている。それを読んで、少し気が引き締まった。自分のこれまでの経験を、どう切り取れば「この人にしか書けない」になるのか。まだ答えは出ていない。

言葉を動かす

構成の話が面白かった。見出しになりそうな言葉をシールに書き、A4の紙に振り分けて、似たものを寄せ集めながら章を作っていく。手順として読めば簡単に見えるのに、実際にやってみると、これがいちばん時間のかかる作業だと感じた。考えがまとまっていない段階で、無理に章立てを決めようとして、何度も詰まった経験があるからだ。

シールという物理的な単位に落とすことで、頭の中の考えが、初めて動かせるものになる。並べ替えながら考えるという順番自体が、すでに発見だった。書く前に整理するのではなく、並べることそのものが整理なのだ。「なんとなく書きたいことはあるのに、まとまらない」という状態は、整理ができていないのではなく、まだ並べ始めていないだけなのかもしれない。

文脈という下地

人は、作品とつくり手の人生を重ねて見ているものだという話が、静かに刺さった。20代の作品だからこそ初々しい、作風が変わったのは大病をしたせいかもしれない。受け取るだけでも楽しめる作品に「文脈」を見出すと、味わいが変わる。

これは読者だけの話ではなく、書き手の話でもある。自分の人生をどう生きてきたかが、そのまま書く言葉の文脈になる。だから、いい文章を書きたいなら、まず自分の人生をちゃんと生きるしかない。少し遠回りな結論だけれど、妙に納得してしまった。テクニックを磨くことと、人生を深めることは、結局つながっている。毎日書き続けることの意味も、どこかそこにあるのではないかと思っている。

感想戦

北海道のバドミントン部の話が、ふいに胸に刺さった。雪で外練習ができない環境なのに、全国優勝に導いた指導法だという。

試合に使わない技術は練習しない

データをとり、出やすいコースだけを優先して練習する。試合のあとは「感想戦」で、ミスを「仕方ないもの」と「改善できるもの」に仕分けして、次に繋げる。この話を読みながら、自分は「感想戦」をしたことがあるだろうかと思った。反応が少なかった記事を、なぜ届かなかったのか分析したことがあるだろうか。書いて、流して、また書く。そのループを続けていても、改善できるミスを見過ごしたまま同じ失敗を繰り返しているだけかもしれない。足りないものを数えるより、今ある条件のなかで何が一番効くかを探る。書くことも、スポーツも、前に進む方法は思ったより似ているのだと思った。

誠実な伝手

人脈づくりというと、つい身構えてしまう。新しい人に会いに行かなければという焦りや、もっと広い場所に出ていかなければという気持ちが、じわじわと積み重なってきていた。そんなときに読んだ一文が、すっと肩の力を抜いてくれた。

いま、すでに知っている人たちと、誠実に関わっていけば、自然と伝手は生まれる

今いる場所で、今すでに知っている人たちに、ただ誠実であること。大きく動こうとしなくていい。そう思えると、書くことへの構え方まで、少し変わる気がした。

二冊を読み終えて、書くことの技術書のつもりが、自分の生き方を問われていた。読書とは自己理解のための行為だと、以前からずっと思っている。この二冊も、結局そうだった。書くこと、届けること、誰かと関わること。どれも、技術の前に、どう生きるかという問いに戻ってくる。

人に伝えたい「格言」を積み上げていこう。

私にとって「誰も書けないこと」は、ひとり社長の暮らしの一次情報でした。


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