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日本人にとって『個人』とは何なのか――敗戦・キリスト教・親鸞・河合隼雄・土居健郎、そしてバリント――土居健郎の『甘え』にたどり着くまでの、長すぎる伏線(笑)


以下は、ある論考へのコメントとして書いたものなのですが、書いているうちに、自分がこれまでどのような思想史的な地図の上で物事を考えてきたのかを、意外なほどコンパクトにまとめる文章になってしまいました。


たいへん興味深い論考でした。

日本人が、敗戦により、本来ならば民主主義的・個人主義的社会の典型である、アメリカの支配下に置かれることの中で、もちろん明治維新からの西洋文明からの影響を引き受け、消化していく過程で身につけてくる歴史的経緯への二段ロケットのようにして、西洋化を加速したにも関わらず、真の意味で 民主主義的・個人主義的価値観を導入したとはとても言えないままであり続けているのは、一つには、アメリカという国に、建国の歴史に遡る宿命的なダークサイドである、「先住民族を支配し排斥した形で国家を作り上げた」ことに起因する、骨がらみの帝国主義的支配をしている国に対する従属国家という制約の中で、戦後の「民主主義」体制を築き上げる形しか取れてこなかったということがあると思います。

これは、同じ敗戦国であるドイツにおいては、全体主義の克服のための、ナチスドイツを作り上げたのは(いわゆる「軍部の暴走」などではなく)国民一人一人の責任であるという徹底的な自己変革を基盤としており、そのため、ナチス式敬礼すら処罰され、「我が闘争」すら大っぴらには読めないという 徹底性と、よりリアリスティックに言えば、植民地獲得競争に敗北したということにより、結果的に帝国主義的な自国領域外への長期にわたる支配というものを経験しないまま国土を原則的に旧来のドイツ領内に留めることができ、しかも自由と民主主義の思想を、イギリスやドイツ・フランス、そしてアメリカからは自立した形で育み続けてきた(この件については自分の記事でかなり詳しく書きましたが)哲学的・思想的基板の上に形成された、頑固なまでの、独自の個人主義性というものとすら、日本が全く縁遠い状況にあるということと対比すれば非常に明快に見えてくる戦後民主主義体制のあり方を取ってきたことになります。

この条件下において、ドイツは、ベルリンの連合国 4カ国共同統治を受け入れるという歴史的経緯を持ち、NATOに加盟しているにもかかわらず、アメリカからの自立性が高い状態であり続けてきたわけです。

国民一人一人が背負うことにしたアウシュビッツへの罪悪感が、今回のガザ地区の戦争において、アメリカとイスラエルのとっている方向性を否定しづらいという副作用を持ってしまったというという点を除いては、ポカをやらかしてきていない。

基本的にはアメリカの戦略に対する批判的な独立性を持ったスタンスで軍事政策を考えられるという基盤にもなっているわけです。

こうした軍事防衛面でのアメリカに対する「ポチ」状態は、何も高市政権固有の状態でも何でもなく、吉田・岸以来、現在の麻生の黒幕状態まで営々と引き継がれてきた自民党政権が持っている宿痾であり、確かに宮澤政権や民主党の鳩山政権のように、対米的にある程度の距離感を獲得しようと思った政権もありましたが、決して長期的な主流派になることがないまま現在に至ることになります。

一方、所謂「民族派」的、「右翼的」保守思想の潮流というのも、西部遷、江藤淳をはじめとする自民党政治の外側の「論壇」の中に、「在野」の、しかも非アカデミズム的な形で継承されてきたという特異性もあります。

保守的思想と一線を画す形での思潮についても、日本の論壇を支えてきたのは、小林秀雄、吉本隆明、柄谷行人、そして現在の東浩紀に至る、アカデミズムの外側にいた思想家たちなわけです。

(柄谷は確かに法政大学教授ではありましたが、あくまでも「教養学部」の一介の「英語教師」であり、実は思想についての講義を正式に講義科目として担当したことはない、という、実際に法政大学の学部学生であった私は知っていても……法政大学文学部哲学科と柄谷は全くに近く接触はなく、私を含む哲学科の学生は柄谷に対面した経験も対話経験もなければ、むしろ無関心に等しかったことを意外と外部の人は知らない状況にいたわけで、思想家としては全くの「在野」であると言うしかないわけですね。)

私の場合も、私の親友が、たまたま履修した英語科目担当したのが柄谷だったおかげで、直接対話を交わせるきっかけ掴んだ熱烈な信者であったものだから、その人から耳学問として「マルクスとその可能性の中心」やら「概念の物神化」の話を熱心に聞かされただけであり、実は若い頃、柄谷の著作は 1冊も読んだことがなかったわけです。

それが最近になって、特に「概念の物神化」というコンセプトが、実は私の専門とするジェンドリンの体験過程理論にあい通じる側面を持つことについてやっと気がつくと言うあり様であることは、私の以下の独立記事に書いた通りです。

さて、日本における西洋の民主主義的・個人主義的な思想の受容のもう一つの特徴は、キリスト教信仰を表立って本格的に受容した歴史の不在にあります。

この、キリスト教の影響を日本は実は受けることがなかったという現象は、「幸福論」「眠られぬ夜のために」のカール・ヒルティを通して、神の前に孤独に対峙する個人という感性がなければ、そもそも 個人主義や自由主義というものは育まれていないということを、当たり前のように受け止めていた私にとっては、現在のアメリカにおけるプロテスタントの保守主義が実は政権の基盤であるということについては多くの人が熟知しているにもかかわらず、驚くほどにそれ以外の点でキリスト教のあり方に無関心な人が多いという現実に対して当惑させられるばかりです。

むしろ日本においては、親鸞の浄土真宗の教えが、全く独自な形でキリスト教と大変類似した個人主義思想を育んでいたとも言えるという世界史的に見ても甚だ特異な現象があるということにもなります。

話の流れの伏線を張ろうとして、何とも遠いところまで来てしまった気がしますので、話題を一気に本エントリーの趣旨に引き戻しますと(笑)、土井建郎の「甘え」思想と河合隼雄の母性社会・中空構造論が、非常に日本的な土壌から生まれてきたものであると同時に、最初に述べた、アメリカ占領 に対する服従に始まるアメリカに対する従属性と依存状態という背景を背負っている可能性があるということは、ご指摘の通りかも知れません。

そもそも河合隼雄のユング理解それ自体が、キリスト教を始めとするヨーロッパの神秘主義思想色を徹底的に排除するということによって成立しているという限界があるために、個人主義性という点で一定の制約がどうしてもあるわけです。

しかし、話をあくまでも土井建郎のケースに戻すならば、土井の「甘え」思想の背景には、ハンガリー生まれで東洋的な側面を色濃く持つ、ある意味で精神分析の歴史の中で非常に特異な存在であるバリントからの影響という側面が多大にあるわけで、一概に戦後のアメリカへの従属ということからの影響のみを語るべきではないと私は考えています。


……実は最後の数行で書いたことを言いたいがために、そこまでの話題の大風呂敷を広げてしまったところもあるわけですが、結果的に思想史についての私の理解について包括的にプレゼンテーションする場にもなってしまったということは、私のものの考え方の背景全体について、総合的に、しかも 意外と短い文章で統括してみるという、自分が単独では書いてみようとも思わなかったことまで書けてしまったので、普段私の書いていることを理解していただく上でも、非常に整理された情報を提供したことにもなるのではないかと思います(笑)

おそらく思想系の読者の人たちで、私の記事を理解したい人にとっては、誠に便利なコンパクトな総括(笑)を何気にサラサラと書けてしまった気がいたしますので、以上の一連のここに至るコメントを 、私のクリエイターページの側でも、この後独立して転載させていただきます💦


こうして書いたコメントに対して、主のおざわさんがポカーンとしていそうなので(笑)、ChatGTP様にわかりやすく解説していただきました💦

これは、かなり面白い「思想的自画像」になっていますね。

特に最後の、

土井の「甘え」思想の背景には……バリントからの影響という側面が多大にある

というところに至るまでに、敗戦・占領 → 日本の民主主義/個人主義 → ドイツとの比較 → 日本の論壇 → キリスト教と個人 → 親鸞 → 河合隼雄 → 土居健郎 → バリントと、一見するとどんどん遠くへ行っているのですが、実は一本の問いでつながっています。

その問いはおそらく、

「日本人にとって、“個人”とはいったいどこから来るのか?」

なのだと思います。

そして、その問いを突き詰めていくと、単純に「日本社会は集団主義的だから」で終わらず、

  • 西洋近代の個人主義

  • キリスト教的な「神の前に一人で立つ個人」

  • 日本独自の親鸞的個人

  • 敗戦・占領によって外から導入された民主主義

  • 日本の「母性社会」的構造

  • 「甘え」という関係性

  • そして精神分析、とりわけバリントの「二人心理学」

という、かなり壮大な系譜が見えてくる。

だから、最後にバリントへ戻ってくるのが実は非常に重要なんですよね。

「日本的だから甘えなのだ」という説明だけでは足りない。
しかし「アメリカ占領による従属」という説明だけでも足りない。
土居健郎の思想そのものが、精神分析史の中でバリントという特殊な媒介者を通って形成されている。

ここまで来ると、土居の「甘え」を単なる日本文化論として読むのではなく、精神分析思想史の中に置き直して読む必要がある、という本来の論点がかなり鮮明になります。

そして、個人的には、この文章の価値は「大風呂敷を広げすぎた」ことよりも、むしろ、普段の記事を読むための**「阿世賀思想史・読解マップ」**になっているところにあると思います。

とりわけ、柄谷行人についてのご自身の位置づけ――若い頃には著作を読んでいなかったのに、後になって「概念の物神化」とジェンドリンの体験過程論との接点に気づいた、というくだり――は、単なる思想史の説明ではなく、ご自身がどういう経路で思想を摂取し、後から別の思想との接続を発見してきたのかを示していて、かなり面白いです。

つまりこれは、土居健郎論へのコメントであると同時に、

「なぜ私は土居・河合・ジェンドリン・柄谷・親鸞・バリントを、同じ地図の上に置いて考えているのか」

を読者に一気に見せる文章になっています。

転載するなら、むしろ少しだけ冒頭に、

以下は、ある論考へのコメントとして書いたものなのですが、書いているうちに、自分がこれまでどのような思想史的な地図の上で物事を考えてきたのかを、意外なほどコンパクトにまとめる文章になってしまいました。

くらいの一文を加えると、「なぜ突然ここまで話が広がるのか」が読者にも分かりやすくなりそうです。

そしてタイトルを付けるなら、私はかなりストレートに、

「日本人にとって『個人』とは何なのか――敗戦・キリスト教・親鸞・河合隼雄・土居健郎、そしてバリント」

あたりを推します。

あるいは少し遊ぶなら、

「土居健郎の『甘え』にたどり着くまでの、長すぎる伏線(笑)」

でも、この文章の雰囲気にはかなり合っています。

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