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村上春樹『女のいない男たち』(文春文庫)〈映画『ドライブ・マイ・カー』を見て(2)〉

 数年前、濱口竜介の映画『ドライヴ・マイ・カー』を見た時、私の記憶にある原作の小説と全然違う!と思ったのだが、一体何を思い出してそんなことを思ったのか。早くも著者村上本人の「まえがき」を読んだ段階で自分の勘違いに気づいた。
 私は村上春樹の「ドライブ・マイ・カー」を読んでいない。
 私が村上春樹を追っかけて読んでいたのは1980~90年代。主に短編とエッセイが好きだった。初期の長編(『風の歌を聴け』など)は好きだったが、『ノルウェイの森』が話としても好きじゃなく(元になった短編は好きだった)、装幀をウリにする売り方も嫌いだった。『ダンス・ダンス・ダンス』で最初の方と最後の方で登場人物の雰囲気というか性格が変わったり、話の辻褄が合わない箇所があるような感じがして、違和感が強くなり、『ねじまき鳥クロニクル』で村上春樹はもういいかなと思った。その頃、村上自身は長編を主に書いており、もう短編は書かないと言ったことがあるような。取り合えず私の記憶にはその発言があって、そこまでの短編は全部読んでいたので、村上の短編は全部読んだと思い込んでいた。
 しかしこの短編集『女のいない男たち』は全て2013~2014年に書かれている。そりゃ読んでないよ!いつのまにか、また短編書いてるじゃん、村上さん!

 ということで久しぶりに、村上春樹の小説を読みました。(前置き長い。)
 「ドライブ・マイ・カー」は確かに映画の原作だった。設定もそのまま、人物像もそのままだった。しかも短編だけあって、映画に比べてかなりあっさりしている。かなり好感度は高かった。
 チェホフの「ワーニャ伯父さん」(この小説中では「ヴァーニャ伯父」)もちゃんと出て来た。いずれも劇中劇扱い。村上はさくっと触れてるだけだが、濱口は後半の一つのポイントにしている。ワーニャとソーニャの生き方が濱口に響いたということだろう。
 で、他の短編なのだが、「イエスタディ」は私のよく知ってる村上春樹。「ドライブ・マイ・カー」同様、タイトルに使っていてもビートルズの曲とはほとんど関わりはない。(村上はビートルズが相当好きそうだが、世代的には当然かもしれない。)
 「女のいない男たち」はヘミングウェイのタイトルに同じだが、作者に言わせると微妙に違うらしい。これも私の知ってる村上春樹。
 あとの三作のうち、「独立器官」は雰囲気だけを、「シェエラザード」と「木野」は登場人物に起る出来事をかなり映画に取り入れている。

 つまり、濱口竜介の映画は、この文庫の中の「ドライブ・マイ・カー」「シェエラザード」「木野」を組み合わせて作った、濱口なりのスト―リーなのだ。だから原作を「ドライブ・マイ・カー」だけと捉えているとかなり違う感がある。原作はあっさり、映画はねっとり。映画のねっとり感は「シェエラザード」「木野」(雰囲気だけ「独立器官」)から醸し出されている。
 特に「木野」は怖い。昔、それこそ村上を追っかけて読んでた頃「納屋を焼く」という短編があって、意味がよく分からなかったが、それに近い印象だ。後年、加藤典洋の「納屋を焼く」についての評論を読んで「そういうことだったのか」と思った。読んだ頃は年齢的にも性的オブセッションについてよく分かってなかったのかもしれない。 

 しかし、こうも言える。村上春樹はある一つの出来事なりそれに基づく想念を、いくつかの短編小説に、登場人物や設定を変えて、分けて描いた。濱口竜介はそれを一つの出来事なり想念にまとめ直したのだ、と。

 これでやっと数年前に『ドライブ・マイ・カー』を見て感じた、もやもやした気持ちが解消された。なぜ今これを解消しようと思ったかというと、濱口竜介監督の『急に具合が悪くなる』が先日カンヌ映画祭で女優賞をダブル受賞して、これは見たい、原作も読みたいと思っている。しかしその前に数年前に濱口映画に感じたもやもやを先に解消したいと思ったのだ。我ながら面倒くさい性格。やれやれ。(←ハルキ調)
 せっかくなので、気に入った箇所をメモしておく。

 (煙草を吸うみさきに)「命取りになるぞ」と家福は言った。
 「そんなことを言えば、生きていること自体が命取りです」とみさきは言った。(P63)「ドライブ・マイ・カー」
 返事としても矛盾しているし、発言自体も矛盾。でも納得感あり。

 「うまく説明できないんだけど、あるとき急にいろんなことがどうでもよくなってしまったんだ。憑(つ)きものがすとんと落ちたみたいに」と家福は言った。「もう怒りも感じなくなっていた。あるいはそれは本当は怒りではなく、何か別のものだったのかもしれない」(P67)「ドライブ~」
 うらやましいね。相手を罰してやりたい、懲らしめてやりたいという感情がストンとなくなる。理屈では無いんだ。

「そういうのって、病のようなものなんです、家福さん。考えてどうなるものでもありません。(…)みんな病がやったことです。頭で考えても仕方ありません。こちらでやりくりして、呑み込んで、ただやっていくしかないんです」
「そして僕らはみんな演技をする」と家福は言った。
「そういうことだと思います。多かれ少なかれ」(P69)「ドライブ~」
 吉田秋生『海街ダイアリー』を読んだ時も思ったことだけど、人は(特に日本人は)腹を割った打ち明け話はめったにしないし、それをこんな風に喩で結論づけることもない。会話が論理的に噛み合って流れて行くこと自体がまずほとんどないのだ。だから漫画や小説のこういう会話は結局書き言葉だからこそ、と思う。それを読んで人は自分の思考を形付けるし、感情の整理をするのだと思う。

「(…)何を探しているのか自分でもよくわからない場合には、探し物はとてもむずかしい作業になるから」(P105)「イエスタディ」
 「イエスタディ」「女のいない男たち」は私の知ってる村上春樹、と書いたが、それもやはり80~90年代から考えると変質している。当たり前かもしれないが。『風の歌を聴け』を読んで、ああこれはカート・ヴォネガットの『チャンピオンたちの朝食』と思った日からどれほど経っていることか。やはり日本の80~90年代はある種のギルデッド・エイジだったんだろう。

文春文庫  2016.10. 定価(本体680円+税)(2026.6.8.読了)