皆川博子おすすめ作品ガイド|四十代デビューの軌跡と各作の読みどころを深掘り
読み終えたあと、しばらく本を閉じたまま動けなくなる。そんな経験はないでしょうか。面白かった、とも、感動した、とも少し違う。物語の外側へ戻ってくるのに時間がかかる、あの奇妙な感覚です。
そういう本は、そう多くはありません。筋を追う楽しさだけでなく、文章そのものが読み手を別の場所へ連れていってしまう。しかも連れていかれた先が、美しくて、少し恐ろしい。日本の書き手のなかで、この感覚を半世紀にわたって与え続けてきた人がいます。
皆川博子。ミステリ、幻想小説、時代小説、歴史小説と、ジャンルの境界を軽々と越えながら書き続けてきた作家です。ここでは、その厳選代表作六作を読みどころまで踏み込んで紹介し、さらに気分や読者層に合わせた八作を加えて、どこから入ればいいのかを整理していきます。
皆川博子とはどんな作家か——四十代デビューという異例の出発点
作品そのものに入る前に、まずこの作家の来歴に触れておきたいと思います。なぜなら皆川博子の場合、経歴の特異さがそのまま作風の説明になっているからです。
一九三〇年前後、朝鮮の京城(現在のソウル)に生まれ、父が東京で医院を開業したのを機に、生後まもなく東京へ移っています。東京女子大学の英文学専攻に進みますが、病気のため二年で中退。その後は結婚し、長く主婦として暮らしました。この時期、ミステリを浴びるように読んでいたと伝えられています。
転機は、高校生だった娘が交換留学で一年間オーストラリアへ渡ることになったときでした。そこで突然、書きたいという衝動が湧いたのだといいます。一九七二年に『海と十字架』で児童文学作家としてデビュー。逆算すればこのとき四十代です。二十代で新人賞を獲って世に出る作家像とは、まったく違う入口でした。
出発の経緯も一風変わっています。江戸川乱歩賞に応募して最終選考まで残ったものの落選。ところが選考委員のひとりだった南條範夫が「普通の小説が書けそうだ」と『小説現代』の編集長に推薦し、そこから小説現代新人賞への応募を勧められます。最初の応募は最終候補どまり。翌年、一九七三年に「アルカディアの夏」で同賞を受賞しました。落ちた賞の選考委員が別の扉を開けた、という珍しい経路です。
その後の歩みは、ジャンル横断そのものでした。『壁 旅芝居殺人事件』で第三十八回日本推理作家協会賞、『恋紅』で第九十五回直木賞、幻想短篇集『薔薇忌』で第三回柴田錬三郎賞、『死の泉』で第三十二回吉川英治文学賞。二〇一二年には『開かせていただき光栄です』で第十二回本格ミステリ大賞、第十六回日本ミステリー文学大賞。二〇一五年に文化功労者に選出され、その後も『インタヴュー・ウィズ・ザ・プリズナー』で第六十三回毎日芸術賞、『風配図 WIND ROSE』で第三十四回紫式部文学賞を受けています。八十代、九十代でなお最前線にいる書き手です。
では、これほど舞台も時代もばらばらな作品群を貫くものは何でしょうか。競合記事の多くは「耽美」「幻想」といった形容でまとめて済ませますが、それだけでは説明が足りません。
ひとつの答えは、「枠」への偏愛です。皆川博子の代表作には、物語がそのまま裸で提示されることがほとんどありません。『死の泉』は「野上晶という人物が訳した本」という体裁をとり、『倒立する塔の殺人』は少女たちが回し書きしたノートを軸に進み、『インタヴュー・ウィズ・ザ・プリズナー』では死んだ青年の手記を囚人が読み解いていく。手記、翻訳、作中作、書き継がれるノート——語りの外側にもう一枚の枠が必ず嵌まっているのです。
この構造は、単なる技巧ではありません。虚構を演じる者への関心と地続きになっています。『恋紅』の旅役者、『薔薇忌』の劇団員たち、『花闇』の女形。皆川作品には、舞台に立つ人間、他人になりきる人間が繰り返し現れます。物語の外側に枠を嵌める作家と、人生の外側に役を着る登場人物。この二つは、同じ関心の表と裏なのでしょう。
文章もまた独特です。説明を削り、情景と会話だけを置いていく。感情を語らず、行為だけを示す。だから読者は、行間を自分の想像で埋めながら進むことになります。読みにくいと言われる所以であり、同時に、抜け出せなくなる理由でもあります。
皆川博子のおすすめ代表作——厳選六作の読みどころと余韻
ここからが本題です。三百作を超える著作から、知名度・評価・作風の幅を代表する六作を選びました。シリーズもの一つと、単発の長編・短篇集を五つ。順に見ていきます。
エドワード・ターナー三部作——皆川博子入門に最適なシリーズ
まず、初めて皆川作品に触れる人へ最も薦めやすいのがこのシリーズです。
シリーズ全体について
十八世紀のイギリスとアメリカを舞台にした歴史本格ミステリで、『開かせていただき光栄です―DILATED TO MEET YOU―』『アルモニカ・ディアボリカ』『インタヴュー・ウィズ・ザ・プリズナー』の三作から成ります。第一作から最終作までおよそ十年をかけて完結しました。
世界観の中心にあるのは、解剖学がまだ最先端の危険な学問だった時代の空気です。警察制度は未成熟で、屍体は闇市場で取引され、医学は宗教と迷信のあいだで揺れている。そこに稀覯本、暗号、密室、秘密結社といった道具立てが重なります。ゴシックな素材が揃っているのに、読み味は意外なほど軽快です。若い弟子たちの会話が現代の若者のようにテンポよく、ユーモラスだからです。この落差こそが、このシリーズ最大の発明でしょう。
向いているのは、翻訳ミステリを読み慣れた人、キャラクターの関係性を楽しみたい人、そして「皆川博子は難しそう」と敬遠してきた人です。逆に、巻を追うごとに世界は重くなっていくので、一作目の軽やかさだけを期待していると三作目で驚くことになります。
第一作『開かせていただき光栄です』
一七七〇年前後のロンドン。外科医ダニエル・バートンの解剖教室に、突如として二つの屍体が現れます。あってはならない場所に、あってはならないものが増えている。捜査に乗り出した盲目の治安判事は、バートンと五人の弟子たちに協力を要請しますが、彼らの証言にはどうも嘘が混じっている——という導入です。
読みどころは、まず構成です。事件の前と後が交互に語られ、核心に近づいたところで場面が切り替わる。焦れったいのですが、その焦れったさ自体が仕掛けの一部になっています。伏線は序盤から張られており、二転三転する真相にたどり着いたとき、読者は自分が何度も気持ちよく騙されていたことに気づきます。
文章の魅力は、翻訳小説のような硬質さと、弟子たちの軽口との対比にあります。天才的な細密画家と、美貌の青年エドワード・ターナー。彼らの友情とも呼びきれない距離感が、物語に独特の熱を与えています。
読後感は、切なさと余韻です。本格ミステリとして一級の満足を与えながら、最後にひとすじの寂しさを残していく。第十二回本格ミステリ大賞を受けたのも当然でしょう。
どんな気分で読むと刺さるか。まとまった時間があって、しばらく十八世紀のロンドンに住み着いてもいい、というときです。読み終えた頃には、続きの二冊を手に取らずにいられなくなっているはずです。
『死の泉』——皆川博子の最高傑作と呼ばれる歴史ミステリ
三部作が入口だとすれば、こちらは頂上です。皆川作品でどれか一作を、と問われたときに最も多く名の挙がる長編です。
第二次世界大戦末期のドイツ。ナチスが「レーベンスボルン」という施設を運営していた時代から物語は始まります。純血の子どもを育てるという名目のもとに置かれた産院。そこで手記を綴る女性マルガレーテ。彼女は自分の産んだ子を守るため、ある医師と形ばかりの夫婦になります。その医師は、変声しない美声への執着に取り憑かれていました。
そして十五年後。視点は複数の人物へ拡散し、この十五年に何が行われたのか、誰が加害者で誰が被害者だったのかが、少しずつ輪郭を現していきます。
読みどころは三つあります。ひとつは題材の異様さ。カストラート、双子への人体実験、古城に眠る名画、岩塩鉱山の地底湖。こうしたモチーフが次々に投げ込まれ、それが単なる悪趣味ではなく、美と悪と愛の主題へ収斂していく手つきが圧巻です。
二つめは速度です。永遠に続くかと思われる緊張の時間から、終盤に一気に雪崩れ込む。この緩急の設計が卓抜で、読んでいて鼓動が速くなる、と語る読者が少なくありません。
三つめが、この記事で触れておきたい点です。本書は「野上晶という人物が訳した本」という体裁をとっています。つまり作中作としての『死の泉』が存在する。そして巻末の「あとがきにかえて」で、それまで読んできたものの土台がひっくり返る。ここに矛盾がある、と気づいた読者は、最初のページへ戻らずにいられなくなります。前述した「枠への偏愛」が最も苛烈なかたちで結実した作品です。
文章は決して読みにくくありません。むしろ精緻で色濃く、ドイツの風物描写だけでも読ませます。ただし読後感は明るくない。退廃と陶酔が全編に漂い、結末には解釈の余地が残されます。すっきり解決してほしい人には向きませんが、「日本にこの作家がいてよかった」と感じ入る読者を、これまで何人も生んできた一冊です。
七百ページ近い大作なので、長い休みの前に手をつけるのが賢明でしょう。
『恋紅』——直木賞受賞作にして時代小説の入口
ドイツの古城から、幕末の吉原へ。この振れ幅こそが皆川博子です。第九十五回直木賞を受けた本作は、海外物が苦手な人にとっての入口になります。
主人公は、吉原の遊女屋に生まれた娘・ゆう。花魁たちと男衆に囲まれ、廓の表と裏を見ながら育ちました。ある日、芝居見物に出かけた彼女は、升席にいる男を見て衝撃を受けます。五年前、雑踏で途方に暮れていた自分を救い、優しさで包んでくれた旅役者だったのです。
一緒になれるなら滅びてもいい。幼い日にそう刻んだ記憶を頼りに、ゆうは無名の役者にすがりついていきます。
読みどころは、まずゆうという人物の造形です。遊女たちの犠牲の上に成り立つ自分の暮らしに罪悪感を抱きながら、しかし彼女自身は大切に育てられたお嬢様でもある。その中途半端さを作者は容赦なく描きます。読者によっては共感しきれないほどです。けれども、共感させないことを選んでいる、と言うべきでしょう。ゆうの優しさに悪意で報いる遊女のほうが理解しやすい、という感想が出てくるのは、造形が甘くない証拠です。
もうひとつの読みどころが、芸能史としての厚みです。実在の名女形・三代目澤村田之助が登場し、幕末から明治にかけての演劇界の激変が、遊郭の盛衰と重ね合わせて描かれます。教科書には載らない層の歴史が、生活の手ざわりとともに立ち上がってくる。
文章は、難しい言い回しが多い代わりに、時代の空気を濃密に運んできます。読後感は、あでやかで、そして苦い。恋の物語でありながら、成就のために誰かを踏みつけずにいられない人間の業が刻まれています。
一途さの美しさと身勝手さを同時に見つめたい気分のとき、この作品は深く刺さります。なお続編にあたる『散りしきる花 恋紅第二部』もあり、物語はさらに先へ進みます。
『薔薇忌』——皆川博子の短篇の凄みが分かる一冊
長編を読む体力が今はない、という人へ。柴田錬三郎賞を受けたこの短篇集は、作家の独創性を世に知らしめた一冊であり、短い分量で皆川ワールドの核心に触れられます。
七つの短篇は、いずれも舞台芸能に生きる男女を描いています。降りしきる薔薇の花びらに埋もれて死ぬことを夢見た劇団員。歌舞伎の小道具職人の娘と、父のもとで働いていた女性との不穏なやりとり。かつての人気歌手を俳優として蘇らせようとする芸能プロデューサーと、楽屋を訪れた見知らぬ老人。老女優のとりとめのない語りに翻弄された果てに突きつけられる真実。
読みどころは、生者と死者の交わり方です。芝居の世界では、生きた俳優が死者を演じ、同じ空間に生と死が並んで立つ。作者はそこに目をつけ、本物の死者を何食わぬ顔で舞台に紛れ込ませます。読者は「舞台でならそういうこともあろう」と、いつのまにか納得させられている。この誘導が実に巧みです。
そして各篇の結末には、鮮烈な仕掛けが置かれています。幻想小説でありながら、リアリズム一辺倒のミステリでは不可能などんでん返しを試みている——そう評されるとおり、幻想とミステリが分かちがたく溶け合っています。
文章は短いぶん密度が高く、言葉遣いの美しさが際立ちます。読後感は、濃密な夢から覚めたときの気だるさに近い。陶酔から日常へ戻るのが億劫になる、という感覚です。
通勤や寝る前に一篇ずつ、というより、静かな夜に一気に読むほうが合っています。長編に挑む前の試金石としても最適です。
『倒立する塔の殺人』——戦時下の少女たちが書き継ぐ、最も入りやすい幻想ミステリ
「難解そうで手が出ない」という声に対して、最初の一冊として挙げられることが多いのが本作です。当初はヤングアダルト向けの叢書から刊行され、のちに文庫化されました。
戦時中のミッションスクール。少女たちのあいだでは、小説の回し書きが流行しています。図書館の書架に本と紛れてひっそり置かれていた、模造皮と孔雀模様のマーブル紙で飾られた美しいノート。蔓薔薇模様の囲みの中には、『倒立する塔の殺人』というタイトルだけが記されていました。ノートを手にした者は、続きを書き継がなければならない。手から手へ物語がめぐり、思いもめぐる。やがてひとりの少女の不可思議な死をきっかけに、物語に秘められた企みが明らかになっていきます。
読みどころは、三つの層の重ね方です。女学生たちの日常、ノートに書かれた手記、そして創作としての「倒立する塔の殺人」。この三層が進むにつれて混ざり合い、どこまでが現実でどこからが虚構なのか分からなくなっていきます。しかも三層のバランスが崩れないので、迷子にならずに読み進められる。
背景の描き方も見事です。モンペ姿で軍需工場に駆り出され、空襲で家族を失う。自分たちが作る部品が誰かの死につながっている。その現実の上に、敬語で語り合う少女たちの閉ざされた花園が浮かんでいます。美しさと残酷さが同じ場所に同居している。
作者自身が戦争を経験した世代であることが、細部のリアリティを支えています。ここは競合記事があまり踏み込まない点ですが、少女たちの生活描写が一切ぶれないのは、想像ではなく記憶が土台にあるからでしょう。
文章は流麗で、絵画や音楽や海外文学への言及が豊富です。巻末には作中に登場する絵画の紹介まで付いており、読み終えたあと別の本や絵へ手が伸びる。読後感は、ダークでありながら、最後に未来へ続く光が差します。
美しいものの奥にある毒を味わいたい気分のときに。文庫版には三浦しをんによる解説も添えられています。
『双頭のバビロン』——魔都をめぐる、圧倒的な物語の奔流
代表作の締めくくりに、皆川博子の「絢爛」という側面を最もよく示す長編を挙げておきます。
十九世紀末から二十世紀初頭。舞台はウィーン、映画がまだ音を持たなかった頃のハリウッド、そして上海。幼児期に分離手術を受け、別々に生きることを定められた結合双生児、ゲオルクとユリアン。二人の人生が、それぞれの場所で、幾重にも重なるように語られていきます。
読みどころは、まず舞台設定の贅沢さです。三つの魔都を惜しみなく使い、映画産業の華やかさと世知辛さ、庶民の生活の荒廃を対比させていく。その皮肉が効いています。
そして構成です。読み進めるうちに何度も「あれはそういうことだったのか」と前のページへ戻りたくなる。最後の最後まで、薄い豪奢なヴェールに包まれた秘密が剥がされ続けます。分離されたはずの二人の人生が重なりかける瞬間の激動は、美しく、そして悲しい。
もうひとつ、この作品を語るときに外せないのが、主役と思わせておいて実は物語の中心にいる人物の存在です。誰が語り、誰が動かしているのか——その配置の妙が、読み終えたあとにじわじわ効いてきます。
文章は緻密で、叙情も豊か。読後感は、長い酔いから覚めたあとの余韻に似ています。
分厚さに怯む人もいるでしょうが、読み応えを求めているなら、これ以上の選択肢はそう多くありません。
その他の皆川博子おすすめ作品——気分と読者層で選ぶ八冊
ここまでの六作で作家の中心はつかめますが、皆川博子の魅力は「中心」だけでは語りきれません。むしろ周縁にこそ、その人にとっての一冊が隠れています。ここからは、気分と読者層別に八作を軽やかに紹介します。
海外の戦争と歴史に沈みたい人へ
『総統の子ら』
ナチスのエリート養成機関に入学した十三歳のカールと、彼が得たかけがえのない親友。ヒトラー・ユーゲントの時代を生きた少年たちが、やがて戦場へ送られていくまでを追う長編です。推しポイントは、彼らを断罪もせず美化もせず、ただその心の軌跡を辿りきったこと。「もし自分がその時代のドイツに生まれていたら」と考えずにいられなくなる一冊です。歴史の勝者の側から書かれた物語に飽きた人へ。
『少年十字軍』
十三世紀のフランス。天啓を受けたという羊飼いの少年のもとへ、数え切れない少年少女が集っていきます。信仰と熱狂に押し流されていく子どもたちの行進を描いた作品。推しポイントは、無垢がそのまま悲劇の燃料になっていく容赦のなさです。史実の余白に想像を注ぐタイプの物語が好きな人に。
『海賊女王』
十六世紀末のアイルランド。族長の娘として生まれたグローニャは、海を制してクランの誇りを守るべく男たちを率いて戦います。読みどころは、同い年の二人の女王——支配されるアイルランドの海賊と、支配するイングランドのエリザベス——の対比。ミステリ要素はほとんどありませんが、大河ドラマのような疾走感があります。とにかく面白い長編が読みたい気分のときに。
『風配図 WIND ROSE』
十二世紀、ハンザ黎明期のバルト海。交易の要衝ゴットランド島で、難破船の積荷をめぐる決闘裁判が開かれます。怪我を負ったドイツ商人の代闘に立ったのは、十五歳の少女ヘルガ。紫式部文学賞を受けた比較的近年の長編で、九十代でこれを書いたという事実そのものが驚異です。最新の皆川博子に触れたい人へ。
和物の妖しさに浸りたい人へ
『ゆめこ縮緬』
大正から昭和初期を舞台にした幻想短篇集。愛する男を慕って女の黒髪が蠢き出す一篇、挿絵画家と若い人妻の戯れを濃密に映す一篇、蛇屋に里子に出された少女の記憶を描く表題作など八篇。推しポイントは、生者と死者、夢と現、人と人ならざるものの境目が最初から溶けていること。長編は重い、けれど濃度は落としたくない、という贅沢な要求に応えてくれます。
『花闇』
実在の名女形、三代目澤村田之助の生涯を描いた長編。絶世の美貌と才気で人気を博しながら、病に侵されて四肢を失い、それでも舞台に立ち続けた男の凄絶な生涯を、幼少期から傍らで見つめた弟子の視点で語ります。推しポイントは、語り手が抱えてしまう屈折——妬みと憎悪と、それでも抗えない愛しさ。芸に取り憑かれた人間の話が好きな人へ。『恋紅』を読んだあとに続けて手に取ると、幕末の芸能世界がさらに立体的になります。
『少女外道』
戦前の日本。裕福な家に育った久緒は、出入りの植木職人が苦悶する姿を見て、自分が苦しみや傷に惹かれる「外道」であることを知ります。この感覚は決して悟られてはならない——そう誓って戦前から戦後をひとり生きた女性を描く表題作ほか、七篇を収録。推しポイントは、幽霊も怪異も出てこないのに、全篇が幻想的に見えることです。人に言えない歪みを抱えたことのある人へ。
一気に恐怖と混乱に呑まれたい人へ
『聖女の島』
砲弾に砕かれて坐礁し、そのまま化石になった軍艦のように見える孤島。そこに修道会の作った矯正施設があり、非行を重ねた少女たちが集められています。事故で死者が出て人数が減ったはずなのに、なぜか人数が合わない——。推しポイントは、語り手が見ているものが現実なのか妄想なのか、読者に判別する術が与えられないこと。夢と現実の区別が崩れていく感覚を存分に味わえます。後年、綾辻行人と恩田陸がそれぞれ解説を寄せているという事実が、この作品の立ち位置を物語っています。
皆川博子はこんな人におすすめ/合わないかもしれない人
ここまで十四作を紹介してきましたが、正直に書いておくべきことがあります。皆川博子は、万人に薦められる作家ではありません。
おすすめできるのは、まず文章そのものを味わいたい人です。筋を追う速度より、言葉の選び方や語の手ざわりに快感を覚えるタイプ。皆川作品は説明を削ぎ落とすので、読者が想像で埋める余地が広い。その作業を面倒ではなく愉悦だと感じられるなら、間違いなく相性がいいはずです。
次に、美しいものの奥にある毒を怖がらない人。怖いから美しい、ではなく、恐ろしいものほど美しい。その転倒を受け入れられるかどうかが、大きな分かれ目になります。
そして、翻訳小説を読み慣れた人。海外を舞台にした長編は、日本人が書いたとは思えないほど翻訳ものの手ざわりに近く、その質感を楽しめる人には天国です。
逆に、合わないかもしれないのは、まずすべてが説明されないと落ち着かない人。『死の泉』にしても『聖女の島』にしても、結末には解釈の余地が残されます。答えを渡されないことがストレスなら、読後感は苦いものになるでしょう。
謎解きの論理性を最優先する人も注意が必要です。本格ミステリの賞を受けてはいますが、トリックの精度で勝負する作家ではありません。三部作の最終作などは、推理小説を期待して読むと戸惑うはずです。
登場人物に感情移入して読みたい人にも、ややハードルがあります。作者は登場人物を好きにさせようとしません。共感を拒む造形を、平気で選びます。
読書シーンとしては、細切れの時間には向きません。通勤電車で数ページずつ、という読み方をすると、あの独特の速度感が壊れてしまいます。静かな夜、まとまった時間、余計な予定のない休日。溺れるように読み、容赦なく沈められる——その状況を用意できたとき、この作家は本領を発揮します。
皆川博子に似ている作家・次に読みたい人へ
最後に、皆川作品を気に入った人が次にどこへ向かえばいいか、あるいは逆に、どこから来た人がこの作家にたどり着きやすいかを整理しておきます。
まず外せないのが、中井英夫と赤江瀑です。皆川博子自身が敬愛を公言してきた書き手であり、その幻想文学への傾倒がなければ、今の作風はありませんでした。似ている理由は明快です。現実の輪郭をあえて曖昧にし、美と狂気を同じ器に盛る。系譜としてつながっています。
綾辻行人と恩田陸も、別のかたちで隣にいます。両者は『聖女の島』にそれぞれ解説を寄せており、新本格ミステリのムーヴメント以降に皆川作品の再評価が進んだ流れとも重なります。ミステリの側から幻想へ越境していく感覚が好きなら、行き来しやすいでしょう。
三浦しをんは『倒立する塔の殺人』の解説を手がけています。作風は大きく違いますが、閉ざされた共同体で育つ感情を描く手つきに通じるものがあり、皆川作品への入口としても機能します。
読む順番についても触れておきます。海外舞台に抵抗がないなら『開かせていただき光栄です』から入り、三部作を追いながら『死の泉』へ。和物から入りたいなら『倒立する塔の殺人』か『薔薇忌』を経て『恋紅』『花闇』へ。実は皆川読者は「洋物派」と「和物派」に緩やかに分かれており、どちらから入ったかで印象がかなり変わります。片方だけを読んで結論を出すのは、少しもったいない。
なお、当サイトでは他の作家についても同じように経歴から読みどころまで掘り下げた記事を用意しています。幻想と歴史が交わる小説がお好きなら、あわせて読んでみてください。
まとめ——どこから読み始めても、戻ってこられなくなる
ここまで、四十代でのデビューという異例の出発点から、代表作六作の読みどころ、気分別の八作、そして相性と次の一冊までを見てきました。
改めて振り返ると、皆川博子という作家の凄みは、ジャンルを渡り歩いたことそのものではありません。ナチス下のドイツも、幕末の吉原も、十八世紀のロンドンも、戦時下の女学校も、すべてが同じ一つの関心——虚構という枠の内側で、人はどこまで美しく、どこまで恐ろしくなれるのか——に貫かれていることです。だから舞台がどれだけ変わっても、読者は必ず同じ場所へ連れていかれます。
分厚い、難しそう、暗そう。そう思って手を伸ばせずにいたなら、まずは短篇集か『倒立する塔の殺人』を一冊。読み終えたとき、しばらく動けなくなる感覚を、ぜひ一度味わってみてください。
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