深夜の「あぶら~亭」は眠らない。
超新星ジータ × きすけ
仕事が終わったのは、夜の九時過ぎだった。
でも、そのまま真っ直ぐ帰る気分にはなれなかった。
うまく言えないけれど、もう少しだけ今日の続きをしていたかった。
そんな気分のまま、きすけは反射的に電車を降りた。
降りたのは、桜上水。
心地よい夜風にあたりながら、身体に残っていた日中の熱が、少しずつ抜けていくのを感じた。
理由は、うまく説明できない。
ただ、もう少しだけ、今日の余韻の中にいたかった。
深夜で閉まっている店を横目に、きすけは小さな商店街を歩いた。
商店街を抜け、甲州街道に出ると、行列ができていた。
「あぶら〜亭」
店先の看板を見ると、ラーメンやチャーハンの店らしい。
雰囲気からすると、名物は「あぶら〜麺」のようだった。
深夜だから、なのかもしれない。
疲れた人間は、深夜にうまいものを求める。
たぶん、それは本能みたいなものだ。
きすけは、反射的に列の最後尾に並んだ。
前にいるのは、スーツ姿の男性と、仕事帰りらしい女性、そして若い二人組。
みんな、スマホを見ているか、ぼんやりしているか、そのどちらかだった。
誰もしゃべらなかった。
でも、殺伐とはしていなかった。
同じものを待っている人間たちの、深夜の静かな連帯がそこにあった。
二十分ほど待って、ようやく中に入れた。
通されたのはカウンター席だった。
「何にしますか」
きすけは、チャーシューあぶら〜麺と、瓶ビールを頼んだ。
先に運ばれてきたのは瓶ビール。
きすけは、生ビールより瓶ビール派だ。
それも、いつからか自然とそうなっていた。
どこにでもある、小さな瓶ビール用のコップに注ぐ。
このサイズが、ちょうどいい。
ぐびっ、ぐびっ、ぐびっと三口。
それだけで、今日が少し遠くなった。
店内は賑やかだった。
深夜とは思えないほど、活気があった。
厨房からはチャーハンを中華鍋で炒める音が聞こえる。
店員さんはハツラツとしていて、どこかで笑い声もしている。
換気扇は絶えず回り続けていた。
東京の深夜に、こんなふうに人が集まっている場所がある。
それが少し、きすけをほっとさせた。
やがて、餃子が来た。
「頼んでいませんよ」と伝えようとすると、店員さんが元気よく言った。
「お待たせして申し訳ございませんでした! サービスの餃子になります!」
そういうシステムらしかった。
ひと口食べる。
皮がもちもちしていて、うまかった。
ビールと餃子。
疲れた夜に対する、かなり正確な答えだと思った。
粋なサービスに、きすけは小さな感動と幸せをもらった気がした。
続いて、チャーシューあぶら〜麺がやってきた。
どんぶりの中には、太麺、厚めのチャーシュー、フライドオニオン、メンマ、昔ながらのなると。
そして、食欲をそそるように油がつやつやと光っていた。
混ぜる。
よく混ぜる。
麺に、すべてがしっかり絡んだ。
これで、食べる準備はできた。
ひと口すすった。
麺のもちもち具合が、最高にうまかった。
むちっとした中太ストレート麺は、箸を止めさせる気がないみたいだった。
ラードの旨みが、麺全体に広がっている。
それなのに、まったくしつこくない。
ラードをまとったもちっとした中太麺が、見事な相乗効果を生んでいた。
ごろごろと入った大きめのチャーシューも、ほどよい脂身でバランスがいい。
しつこさはなく、食べ応えがあり、それでいて必要な分だけの油の旨みがある。
「あぶら〜麺」という名前に反して、油っぽさで押し切る感じではない。
むしろ、全体のバランスがきちんと計算されている。
きすけは、そんなふうに感じた。
卓上には、酢やラー油などの調味料が並んでいた。
でも、きすけは手を伸ばさなかった。
本当にうまい油そばには、味変はいらない。
最初のひと口から最後まで、同じ味で食べ切りたい。
そう思わせてくれる一杯だった。
黙々と食べた。
今日のことは考えなかった。
ただ、麺を食べることだけを考えていた。
こんなに集中して何かをしたのは、久しぶりかもしれなかった。
チャーシューを食べる。
やわらかい。
ごろごろしたチャーシューは、食べても食べてもまだあるような満足感があった。
ビールを飲む。
麺をまた食べる。
もちっとした麺は、何度口に運んでも飽きなかった。
餃子も食べる。
大きめで、餡もしっかり入っていて、サービスとは思えない。
全部を、同時進行で食べた。
行儀はよくなかったかもしれない。
でも、深夜のカウンター席に、行儀を求める人はいなかった。
食べ終わった。
どんぶりの底が見えた。
スープがないぶん、終わりははっきりしていた。
ちゃんと終わった、という感じがした。
会計をして外に出る。
最後まで、店員さんは元気だった。
夜風が、少し冷たい。
でも、お腹の中が温かかったから、寒くはなかった。
桜上水の夜が、静かにそこにあった。
さっきまで並んでいた場所には、また新しい行列ができていた。
終電後でも、人は腹が減る。
疲れていても、うまいものを求める。
それが少し、いいなと思った。
今日も、いろいろあった。
うまくいかないことがあって、言えないことがあって、疲れた。
でも今夜は、行列に並んで、瓶ビールを飲んで、チャーシューあぶら〜麺を食べた。
運よく、餃子まで食べられた。
まあ、今日くらいはいいか。
桜上水の夜に、きすけは少しだけ回復した。
行列は、疲れた人間の数じゃない。
回復したい人間の数なのかもしれない。
桜上水の夜は、
まだ少しだけ賑やかだった。
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