何も感じられない夜は。
深夜二時、コンビニの自動ドアが開く音だけが、やけに大きく聞こえた。
きすけは棚の前に立って、しばらく動けずにいた。
正確には、動けなかったわけじゃない。ただ、何を選べばいいのか、わからなかっただけだ。
いつもなら目に留まる新商品のパッケージも、季節限定のポップも、今夜はただの色の集まりにしか見えない。
疲れているのだと思う。
でも、疲れているという感覚すら、今はうまく掴めなかった。
きすけは古い黄色いぬいぐるみで、夜だけ人間のように歩く。今日も一日、誰かの相談に乗ったり、誰かの愚痴に頷いたり、誰かの代わりに謝ったりしていた。そういう日は、決まって夜景が綺麗に見えない。
会計を済ませて、温かい缶コーヒーを一つだけ買った。
手のひらに伝わる熱が、今夜唯一の「ちゃんとした感覚」だった。
外に出ると、東京の夜はいつも通り輝いていた。ビルの窓明かり、信号機の赤、遠くを走るタクシーのテールランプ。全部そこにあるのに、心が「きれいだね」と言ってくれない。
まあ今日くらいいいか。
きすけはそう呟いて、近くの公園に足を向けた。
公園のベンチは冷えていて、座った瞬間、身体の輪郭がはっきりする気がした。缶コーヒーのプルタブを開ける音が、静かな公園に小さく響く。
一口飲む。甘さと苦さが順番にやってきて、それだけで少し、輪郭が戻ってくる。
隣を、一匹の猫が横切っていった。
急ぐでもなく、逃げるでもなく、ただ「そこにいる」というだけの歩き方で。きすけの前を通り過ぎるとき、一瞬だけこちらを見て、また何事もなかったように茂みの奥へ消えていった。
何かが変わったわけじゃない。
猫が慰めてくれたわけでも、夜景が急に美しく見え始めたわけでもない。
でも、その一瞬だけ、きすけの中で止まっていた時間が、ほんの少し動いた気がした。
缶コーヒーはまだ半分残っている。
きすけはベンチに背中を預けて、空を見上げた。星はほとんど見えない。東京の夜は明るすぎて、星の代わりにビルの光が瞬いている。それでもいいか、と思う。
今日一日を振り返ってみる。特別なことは何もなかった。誰かを笑わせたわけでも、誰かに感謝されたわけでもない。ただ、頼まれたことをこなして、頼まれてもいないことにも気を配って、気づけば夜になっていた。
そういう日は、心が何も感じなくなる。
正確には、感じなくなるのではなく、感じすぎないように、心が自分でスイッチを落としているのだと思う。
缶コーヒーを飲み干すと、手のひらの温かさが少しずつ冷えていく。それを名残惜しく感じている自分に、きすけは小さく笑った。
こんな些細なことに気づけるくらいには、まだ大丈夫なのかもしれない。
公園の時計は、深夜三時を少し過ぎていた。
きすけは立ち上がって、空き缶をゴミ箱に入れる。カラン、という音が公園に響いて、それが今夜の「終わりの合図」のように聞こえた。
何かを成し遂げたわけじゃない。
誰かに褒められるようなことも、記録に残るようなことも、何一つなかった。
それでも、きすけの中に小さな実感があった。
今日はちゃんと終われた。
それだけで十分だった。それ以上を望む元気は、今夜はまだ戻ってきていない。でも、それでいい。全部を取り戻さなくても、一日は終えていい。
帰り道、東京の夜景はやっぱり特別きれいには見えなかった。
でも、それでいいと思えるくらいには、心が少しだけ息を吐けた気がした。
何も感じられない日は、心が静かに充電している日なのかもしれない。
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