浅草・「捕鯨船」の幸福論の先。
隣の人が頼んだもの

浅草に来ると、なんとなく背筋が伸びる。
観光地だからじゃない。どちらかといえば逆で、ここには「ちゃんとしなくていい」という空気が流れている気がする。昼間の仲見世の喧騒が夜になると静まって、代わりにホッピー通りあたりから、なんとも言えない匂いが漂いはじめる。
煮込みと、焼き物と、昭和と、人間の匂い。
きすけは、その匂いに引き寄せられるように、捕鯨船の暖簾をくぐった。
店に入ると、すぐに「ここだ」という気持ちになった。
店内はお客で賑わっている。壁にはメニューとびっしりとサインが並んでいる。(壁に直接のサインもある。)達筆なのか崩れているのかよくわからない字で書かれていた。常連らしきおじさんが端の席でひとりビールを飲んでいた。観光客らしき二人組が、少し緊張した顔でメニューを眺めている。その空気の混ざり具合が、ちょうどよかった。
カウンター席に座る。
丸い頭と小さな丸耳を持つきすけは、こういうカウンターが、昔から好きだった。横並びというのが、なんとなく楽だ。向かい合わせじゃないから、黙っていても不自然じゃない。それぞれが、それぞれの方向を向いたまま、なんとなく同じ空間にいる。
これくらいがちょうどいい。
まず、元祖チューハイを頼んだ。
ここのチューハイは、いわゆる「昔のチューハイ」だ。甘くない。果物の味もしない。焼酎と炭酸と、それだけ。最初の一口が、思ったよりきつくて、思ったより好きだった。
牛にこみも頼む。
しばらくして運ばれてきたそれは、深い色をしていた。こっくりとした色で、湯気が立っていた。長い時間煮込まれた、ということが、その色でわかった。
口に入れると、ゆっくりと広がるものがあった。
旨みというのかな。しみじみとした感じ。体の芯のあたりに届くような感じ。
こういうのを、ごちそうというのかもしれない。
きすけは緑のビーズネックレスを少し揺らしながら、二口目を食べた。
チューハイが半分になったころ、ほろほろとほぐれてきた。
体が、ではなく、どこか別のところが。
うまく言えないのだけど、日中ずっと張っていた何かが、少しだけ緩んだ。肩というより、もっと内側の何か。きすけにはそれが何なのかよくわからないけれど、浅草の居酒屋で煮込みを食べていると、時々そういうことが起きる。
チューハイをもう一杯頼んだ。
壁のテレビでは、誰かのバラエティ番組が流れていた。音量は低くて、内容はよく聞こえなかったけれど、客席のどこかで、くすっと笑う声がした。
悪くない夜だった。
隣の隣のお客さんが、何かを頼んだ。
店員さんが「はーい」と言いながら、オーダーを書いた。
聞こえてしまった。
焼きそば。
なるほど、焼きそばというものがあるのか、とメニューを見た。あった。ちゃんとあった。でも、チューハイと煮込みで、そこそこお腹は膨れていた。べつに頼まなくてもよかった。
そうこうしていると、隣の人の小さな話し声が聞こえた。
「焼きそば、美味しそうじゃない?」
そうして、すぐに隣に座っているお客も焼きそばを頼んだ。
きすけの隣のお客に焼きそばが運ばれてきた。
それを見て、きすけは、
「あ、焼きそばください」
という感じで、さらっと頼んだ。
きすけは、自分の中で何かが決まっていくのを感じた。
論理的な話ではない。空気というか、流れというか、引力というか。居酒屋という場所には時々そういう力が働く。隣の人が頼んで、その隣の人も頼んで、気づいたら自分も手を挙げていた。
「すみません、焼きそばひとつ」
なんでやねん、と自分でも思った。

焼きそばが来たのは、チューハイの三杯目をちびちびやっているときだった。
ソースの香りが立った。 麺の焦げた感じと、ソースと、なんか、なんか、いい匂いがした。
箸を入れると、鯨肉が出てきた。
あ。
そうか、ここは捕鯨船だった。当たり前か、と思いながら、鯨肉を口に入れた。独特の食感がある。やわらかくて、でも魚とも肉とも違って、鯨としかいいようのない味がした。子供のころに食べた給食の鯨の竜田揚げとは全然違う。もっと丁寧な味がした。
麺と一緒に食べる。ソースが絡んでいる。
なんだこれ、うまいじゃないか。
チューハイで口を流すと、また食べたくなった。
おなかも膨れ、頼まなければよかった、と思っていたのが、気づいたら夢中で食べていた。皿の上の焼きそばが、どんどん減っていった。
食べ終わって、残りのチューハイを飲みながら、ぼんやり考えた。
人生の幸福は、だいたい身近な人が与えてくれたりする。
大げさかもしれないけれど、そういう気がした。
自分では頼まなかったものを、気づいたら食べていて、それが思いがけずおいしくて。そういうことが、どうも人生の中には、時々ある。進路も、仕事も、友達も、好きなものも。考え抜いて選んだものよりも、なんとなく流されて選んだものの方が、後から振り返るとよかったりする。
きすけは、それが怖かった時期もあった。
流されることが、意志の弱さに見えた時期が。
でも今夜くらいは、流されてよかったと思えた。焼きそばを食べながら、そういうことを思うのが、少しおかしくて、少しよかった。
会計を済ませて、外に出た。
ホッピー通りはまだにぎやかだった。提灯の赤い光が、石畳に溶けていた。遠くから三味線の音がするような気がした。気のせいかもしれない。
きすけは少しだけ立ち止まって、夜の浅草を眺めた。
古い街だ。何度も壊れて、何度も建て直した街だ。それでもまだここにいて、今夜も誰かが暖簾をくぐっている。
また来よう、と思った。
次は最初から焼きそばを頼もう、とも思った。
いや、でも、やっぱり隣の人が頼んでから頼む方がいいか。
緑のビーズネックレスを揺らしながら、きすけは夜の浅草を歩いた。
どこかのお店から、またソースの焦げる匂いがした。
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