010 | 森の記憶とカフェの奥、静かな扉【夜ふかしアトリエ】
夜ふかしアトリエのカフェには、
もうひとつ扉がある。
カウンターの奥、紅茶の棚のさらに奥。
小さな鍵がかかっていて、
ふだんは開けられることはない。
けれど今日は、扉がふわりと開いていた。
こぐまのモカが、何気なく
棚の奥をのぞきこんで言った。
「ねえモリーノキ〜。これ、なぁに?
本? 葉っぱの束?」
モリーノキはカウンター越しに顔を上げ、
ふわりと微笑んだ。
「それはね、『森の記憶の書架』です。」
「きおく? だれの?」
「この森に流れた時間、出来事、言葉……
みなさんの小さな“灯りの瞬間”を、
書き留めたものですよ。」
モカは目をまるくする。
「全部、モリーノキが書いたの?」
「ええ。たとえば――
ココが初めて“ありがとう”って言えた日。
ずきんちゃんが大声で笑った、珍しい午後。
ちょこどりっが雨の中でひとり言をつぶやいた、
その言葉まで。」
「なんでそんなこと、覚えてるの?」
モリーノキは、小さな葉っぱの手帳を
指先でトントンと叩いた。
「この森はね、すぐには
すべてを覚えていられないんです。
でも、私たちが書いておけば――
それは“森の記憶”になるんですよ。」
そのとき、カフェにふらりと
ずきんちゃんが入ってきた。
「ここにいたんだ、モカ。……あれ、なに見てるの?」
「モリーノキの秘密の図書館だよ!
ずきんちゃんの笑った日も、あるって!」
ずきんちゃんはびっくりして振り返る。
「え、なに?……なんで……!」
モリーノキは微笑んだまま、
棚のひとつから小さな葉を取り出した。
そこにはこう書かれていた。
『春の雨の日、ずきんちゃんが初めて、
“雨も悪くないかも”と笑った午後。
そのときの風の匂いと、
ティーカップの中のラベンダー。』
ずきんちゃんは、少しだけ目を細めて言った。
「そんな小さなこと……
覚えてなくてもいいようなことなのに。」
モリーノキは首を振る。
「小さなことこそ、時を超えて
誰かを照らす灯りになるのです。
忘れたと思っていた感情も、
誰かが覚えていてくれると知るだけで、
心に温度が戻りますからね。」
その日、モカとずきんちゃんは、
モリーノキの許しを得て、
書架の中からひとつずつ“葉の記録”を
読み返していった。
笑ってしまうこと、泣きそうになること、
「あ、こんなことあったっけ?」と顔を見合わせる瞬間。ふたりの記憶も、少しずつ、森と重なっていった。
夜が更けて、モリーノキはそっと
扉を閉めながら、言った。
「森の記憶は、“誰かが生きていた証”のようなものです。だから私は、紅茶を淹れるときも、言葉を交わすときも、その一瞬を、心に刻むようにしているのですよ。」
それは、
森の中で静かに時を見守る者の、しずかな日常の記録だった。そして今日もまた、モリーノキは手帳のページをめくり、誰かの灯りのかけらを、そっと書き記していく。
©Chocodori / ©Yofukashi Atelier
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