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人間と記号。物語と文脈。『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』を観た感想

新作のガンダムを観た。

感想を書かないわけにはいかない。

なぜなら、ガンダムとは自分にとって、血であり、肉であり、そして、宗教であるからだ。
それら以上でも、それら以下でもない。
然るに、語らざるを得ない。

しかし、自分の中でこの感想文はかなりの難産であった。
あの作品をどう咀嚼したら良いのか、今、これを書いている時にも考え続けているからである。

私とガンダム、そしてシャア・アズナブル

とはいえ、感想を語る前に、まずは自分の話をさせて欲しい。
自分とガンダムとの出会いは小学生の頃のことである。

どこで観たのか、ガンダムZZの再放送こそが自分にとっての原体験。
奇しくも、自分はアムロとシャアの物語から少しズレた場所から、宇宙世紀に飛び込むこととなった。

自分のガンダムはZZから始まったので、好きなモビルスーツといえば専らZZガンダムやキュベレイ、クィン・マンサなわけであるが、好きな作品はどれかと聞かれると、必ず『逆襲のシャア』であると答えている。

見る度に感想が変わり、好きなシーンも変容する。ただ、自分の中ではいつまでも大切な作品として刻み込まれる。とても不思議な作品だ。
(初めて見た時は、サザビーが発信するケーブルのシーンに心惹かれたわけだが、直近で見返した際には、シャアが地下鉄で民衆に歓迎されるシーンに涙してしまった…。)

シャア・アズナブルというキャラクターは、大変奇妙な男である。

アムロ・レイの好敵手として、颯爽と現れたかと思えば、何もかも上手くいかない。親友を殺して左遷され、パイロットの腕もアムロに抜かれ、挙句、妹を殺しかけ、最愛の女すらも失ってしまう。
(結果、Zガンダムで登場した彼は、非常に”無気力”で、”いじけた”男であった)

だからと言ってシャアが嫌いかといえば、決してそのようなことはない。
むしろ、「疵こそ、人をその人たらしめるもの」。

自分はガンダムのキャラクターの中でも、指折りシャアが好きだ。

それは、彼が”人間”であるからだろう。
人間であるから、彼の人生は失敗続きで、とんとん拍子には行かない。そして彼はどの作品においても、周りの人物から影響を受け、頼り、頼られている。(最終的には、友人に対して、情けない言動を漏らしてさえいる)

弱さとコンプレックス、不器用さと失敗
「赤い彗星」をして、人々を惹きつけたらしめる要素

ファーストから逆襲のシャアまで、通底する主人公はシャア・アズナブルで間違いないであろう。ガンダムとは、空想戦記物である一方で、シャア・アズナブルの伝記という側面も有していたと言えるのだ。

したがって、自分にとって、”シャア・アズナブルを描く”とは
・苦悩と葛藤
・ロリコンとマザコン
・彼の自意識を象徴するかのように悪目立ちする赤いモビルスーツ
・有線サイコミュまでしか操ることのできないニュータイプとしての才能
・当たらないメガバスーカ
・くだらないプライドが生み出したνガンダム
・やけを起こしたとしか思えない一連の隕石落とし
に他ならないのだ。

そこには確かに、生身の人間が存在し、あまつさえ(モデルとされる)監督の富野由悠季自身の苦労が見え隠れしていたと言えよう。

ガンダムを作るということ

次に、ガンダムを作るということについて考えてみたい。

先ほどから、チラチラと話を出しているが、ガンダムには二つの世界観がある。正確に言えば、一つの世界観とその他が存在しているといったところか。

いわゆるファーストガンダムから連なる世界は一つの暦を中心に時系列づけられる。「宇宙世紀」というやつである。
ごくごく端的に表現すれば、要するに「富野ヴァース」に該当する部分であり、基本的には富野由悠季の書いたものを聖典とする世界である。

そして、その外側にも無数の作品が存在する。
これらは宇宙世紀という暦とは異なる世界の物語であり、仮に「アナザーヴァース」と呼んでみる。『機動武闘伝Gガンダム』や『鉄血のオルフェンズ』、『ガンダムOO』、『ガンダムseed』などがこれにあたる。
(富野が書いたアナザーヴァースも存在するわけだが、ここでは一旦、置いておきたい)

ちなみに、この「ガンダム」というコンテンツをメタの視点から引いて見る文化も存在する。SDガンダムやビルドファイターズシリーズなどがこれに当たるだろう。

冗長になりすぎても良くないので、ほどほどにするが、要するに、ガンダムを作るにあたっては、いずれかの世界の選択を余儀なくされるのである。

ただし、その中でも、富野ヴァースの問題点は明確だ。
結局のところ、作り手たちが最も関心を寄せる部分がファーストガンダム(一年戦争)に集中することで、ガンダム作品の年表はUC0079周辺にひしめき合うこととなってしまったのだ。

後付けのストーリー、後付けの設定、富野由悠季が”描かなかった”余白の場所取り合戦。皆が皆、地球圏、とりわけアムロとシャアに魂を惹かれていた。

比較的挑戦的に富野ヴァースに挑んだ福井晴敏の一連の作品が、やっとその年表を逆襲のシャアよりも先へと進めたことは記憶に新しい(『機動戦士ガンダムUC』、『機動戦士ガンダムNT』)。

だが、そこに颯爽と現れた安彦良和がまさに時計の針を巻き戻すことで、ガンダム作品は再びアムロとシャアの話へと回帰している(機動戦士ガンダム the Origin)。

このthe Origin問題は、恐らくは、今回のジークアクスに繋がるものではないかと考えられる。
とにかく、前に進まない。
古参に向けた作品を作らざるを得ない。
富野ヴァースは、とにかく、苦しいメビウスの輪の中を彷徨っていた。
(安彦の世界観を富野ヴァースと呼べるのかは議論がある部分だが、明確にファーストガンダムの遺産、遺体を掘り起こした作品である点は間違いない)

近年注目を浴びた二つの作品がある。

富野ヴァースに属する『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』
アナザーヴァースに属する『機動戦士ガンダム 水星の魔女』

両者の問題意識は似ているように思われる。
要するに、「前に進めたい」「外に開きたい」のである。

例えば、閃光のハサウェイは、福井晴敏が進めた時計の針を引き継いで、宇宙世紀100年以降の世界を描いている。懐古趣味に嫌気が差していたファンたちに気概を見せることとなった。

また、水星の魔女では、女性を主人公に据えながら、毒親・同性愛といった現代的な問題に切り込むことで、ガンダムという作品そのものの裾野の拡張を試みている。流行りのアーティストを主題歌に持ってくることで、さらに、多くの人々をガンダム世界に導くことになったのは記憶に新しい。

閉じた世界、古参ファンのみを狙った作品群が陥る未来は目に見えている。
衰退だ。

ガンダムが世代を超えて、幾重にも愛されていくためには、開いていかなくてはならない。

前に進まなくてはならない。

ブッダにもイエスにも、ムハンマドにも、彼らの話を伝える弟子や信者が存在した。

そしてそうした二次的で伝聞的な教義は時代に合わせて変容し、新たな問題系を組み込みながら、肥大化していった。
開かれていたからこそ、現代まで残存したのである。

では、その中で、ジークアクスとは何だったのか。
次はこの点について考えてみたい。

機動戦士Gundam GQuuuuuuX

さて、私がジークアクスを観て、何を思うのかといえば。

富野由悠季や、それに続こうと宇宙世紀に挑んだ作家たちは多少なりとも”人間”と"物語”を描こうとしていたのではないか、ということである。

つまり、先ほどシャア・アズナブルについて述べたように、葛藤や欠点、凡そ合理的とは思えない行動・原理こそ、そのキャラクターを人間たらしめるのだ。

だからこそ、私たち視聴者はそこに「可愛さ」を見出し、「共感」し、感情移入していくのではないだろうか。

一方、ジークアクスで描かれたシャア・アズナブルは徹頭徹尾「完全無欠」。そこに葛藤や欠点、非合理性を見出すことはできない。
要するに、キャラクターの枠を超越するものではなく、より踏み込んで表現すれば、シャアという人形であって、”記号”のように感ぜられた。

(そもそも、仮面に意味がないことが苦しい。富野はしっかりとシャアの仮面やサングラスを「建前と本音」のメタファーとして活用していた。今作では、仮面をつけながら本音を話す姿や、仮面を外しつつ嘘を吐く姿が見られた。こんなことをさせるならば、シャアというキャラを用いる必要はないのではないかと感じてしまう)

どうも上手く咀嚼しきれない。

百歩譲って、シャアはあくまでもサブキャラクターであり、ゲストキャラクターである、とする。

では、本作の主人公であり、オリジナルキャラクターたるマチュとニャアンはどうかと言えば、彼女たちもまた、人間味からかけ離れた存在であった。

何らかのバックボーンは匂わされているものの、それが作中で描かれるわけではないので、彼女たちがどのような人生を送り、どのような葛藤を抱えているのかを感じきることができない。

恵まれた環境に育ち、不安定さと刺激に憧れる
苦しい環境に育ち、安心と人の温もりに憧れる

一見、彼女たちのパーソナリティを際立たせるであろう情報も、”美しすぎる”ほど対比的になっていることで、むしろ記号みを加速させている
(最終話、何かを悟ったように海を見つめるマチュには、多少の精神的成長を感じたが、この先が描かれないのであれば、やはり彼女に”人間”を感じることはできないのであろうと思う)

では、その他のキャラクターはどうかと言えば、(あれだけ元ネタを逸脱した)シャリア・ブル含めて、過去作に登場したキャラクターは、そのキャラクター自身に付随する記号性ゆえに、人間になることができていない。

強いて言えば、エグザベ少尉には多少なりとも人間性が見られた気がするものの、そこが深ぼられることはなかった。

ここまで書いて、やはり思い返してみて、好きになったキャラクターがいないという、大変珍しいガンダム作品であった。
台詞すらも過去からの引用以外に印象に残るものがなかった気がする。

また、最終話に近づくに連れて、ストーリー性が消滅し、単なる「お祭り」となったことも、これまでのガンダム作品との違いであろう。

ジークアクスには、”物語”がなかった。

では、そこにあったのは何だったのだろうか。我々は何を楽しんだのであろうか。これについて私は、”文脈”ではないかと考える。

例えば、そもそもの世界観として、「正規の宇宙世紀」という文脈を踏まえた上でのものであるし、登場するMSやキャラクターも文脈を把握した上で、「おお、こんな使い方をしてくるのか!こいつが出てくるのか」などと楽しむこととなった。

最終回付近は特に顕著であろう。
エルメスとララァが登場し、ワープホールからガンダムが出てきてBeyond the Time、挙げ句の果てには綾波ばりの巨大化をするガンダム。

どこかで見た、懐かしい、これがこんな使われ方をするなんて!

何かによく似ているなと感じたが、歴史系の作品であろう。
要するに、信長が美少女になったり、孔明が現代にタイムスリップするようなものである。
(信長や孔明という文脈を踏まえているからこそ、我々はそれをより楽しむことができるわけだ)

したがって、『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』とは”記号”と”文脈”の作品であると結論づけることができる。

「ラーメンではなく情報を食べている」と似たようなものであろうか。

私たちはジークアクスという作品そのものを楽しんでいたわけではなく、その背後に広がる莫大な「ガンダム」というIPの設定、情報、歴史を楽しんでいたことになる。

「よくわからないけど、わかった」のは、私たちがガンダムをしっかりと履修していたからかもしれない。

ジークアクスの功罪

最後に、ジークアクスがもたらしたもの、本当にこれでよかったのか、について論じてみたい。

そもそも「前に進めたい」「外に開きたい」という近年のガンダム作品の傾向から言えば、後者の点において、ジークアクスは大成功を収めたと言えよう。

文脈が命の作品において、過去作の履修は不可欠である。

ポップな絵柄、ネタバレを巧みに活用したマーケティング、勢いのある作劇、様々な手段を駆使した結果、多くの「普段ガンダムを見ない層」を映画館に向かわせ、あまつさえガンダムを履修させた。
これは紛れもないジークアクスの功績であると言えよう

現に私の周りでも、ジークアクスを機にガンダムを履修した者たちが複数人見られた。これは肩身の狭いガノタとして生きてきた自分には、青天の霹靂であった。

一方で、「前に進めたい」というUC、ハサウェイ路線から見れば、反則技の応酬に加えて、懐古主義も甚だしいものであって、時計の針は軽く4周は逆回転してしまったと言えよう。
(真面目に映画を作っているハサウェイスタッフたちは頭を抱えたに違いない)

そして、作品を見る我々にとって、ジークアクスは果たして幸福な体験であったのか、ここに依然として疑問を抱いている。

例えば、好きなキャラクターやMSの活躍を純粋に楽しむ、かっこいい、可愛い、好き、を受容するのは、ガンダムに限らずにあらゆる作品に必要な要素であると考える(娯楽作品なのだから)。

しかしながら、その娯楽としての楽しみ以外を教えてくれるのもまた、ガンダム作品なのではないだろうか。

そもそも、富野は常々、「戦争は愚かだ」という思想をガンダム内に散りばめている。ガンダムに倒された兵士たちが「子供が乗っているのか!?」と驚く場面が多いのは、「子供が戦争に駆り出される世界はおかしい」という主張をストレートに示していると言える。

一方で、ジークアクスにそのような思想は一切登場しない。
むしろ、戦争とは「美しく」「かっこよく」て、「ワクワクする」ものだとでも言わんばかりの描きっぷりだ。

子供がガンダムに乗ることに驚くどころか、むしろ積極的に乗せている。「ガンダムなのだから」ということだろうか。

そのくせ、中途半端に昨今の情勢を反映したいのか、難民や売春宿のような存在をさりげなく織り込んでいる。ご立派な姿勢かもしれないが、本来、ガンダム作品あれば、そのようなテーマに真っ向から取り組むべきではないのだろうか。社会派の側面もあります、というような態度でつまみ食いをする姿勢に全面的に同意することはできない。
(富野由悠季の近年の作品が良いか悪いかは置いても、彼が恒常的に環境問題・エネルギー資源問題に取り組んでいるのは明らかだ。水星の魔女では毒親の問題、戦争殺人の責任論、ハサウェイならばテロリズムの是非、しっかりと現代社会を射程に入れたテーマ設定をしている)

ジークアクスの世界は、全くもって社会に開かれていない。
これがスタンダードになってしまわないか、しっかりと一回限りの”祭り”として受容できるのかは注視すべきであろうと思う。

また、”記号”のようなキャラクターと”文脈”に依存したストーリーの生産にどれほどの意義があるのか、大変疑問に思っている。

素晴らしい過去の栄光があること自体は忘れてはならないが、それに頼りきるような創作や消費がまかり通るようでは、ガンダムは滅びるのではないかと思う。

『逆襲のシャア』を節目節目で見返してしまうのは、監督のメッセージや登場人物たちの悲喜交々に心を打たれるからである。そして、見返す度に異なる感想を抱く。年齢に応じて捉え方が変わる、作品の持つ懐の深さがあるからであろう。

自分はジークアクスを見返そうという気持ちが湧かない。

「美しい」「かっこいい」「ワクワクする」作品であることに間違いはない。ただ、見終わって何かが残る作品ではないのだ。刹那的に消費することしかできない。まるでポルノ作品のようだ。

もちろん、作品の捉え方は人それぞれであり、クリエイターが血と汗を注いで作り上げたものに相違はない。それをコケにするつもりは毛頭ない。

しかしながら、それでも、私がガンダムを好きなのは、見終わって何かを残してくれる作品だと思うからだ。


ジークアクスは確かに楽しかった。気持ちの良い体験だった。
ただ、これを当たり前のものとしてはならない。
本当にガンダムが100年続くIPになるために、私たちはガンダムを消費するようではならないと思うのだ。

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