松崎町と虫秘茶
松崎町 ― 虫と葉が語る地の風土
伊豆半島の西南端に位置する静岡県松崎町。
北を険しい山々に、南を駿河湾に抱かれたこの町は、温暖で雨量の多い気候と豊かな水系に恵まれ、古くから人々の暮らしを支えてきました。黒潮の影響で一年を通して温暖な気候が保たれ、冬でも霜が少ないため、農業に適した土地として知られています。
江戸時代、この地は海運の要衝として栄え、駿河湾を経て江戸へと物資を送る中継地でもありました。塩や木材、柑橘などの交易が盛んに行われ、商家の町並みは今も「伊豆の小京都」と呼ばれる美しい景観を残しています。
明治期に入ると、絹産業の波がこの町にも押し寄せ、養蚕と製糸が主要産業として根付きました。山間部では桑畑が広がり、農家の土蔵には繭を貯蔵するための工夫が施されました。松崎町の「なまこ壁」や白漆喰の蔵造りは、まさにこの時代の経済的繁栄の象徴でもあります。
養蚕が栄えた背景には、この地の温暖な気候と水資源の豊かさに加え、「虫と共に生きる」地域文化がありました。農と虫、海と山が近接する松崎では、人々は自然の循環の中に生業を築き、時に虫を畏れ、時に共に働く存在として敬ってきたのです。
そして20世紀後半、養蚕が衰退した後に受け継がれたのが、もうひとつの植物文化――オオシマザクラの栽培でした。
伊豆諸島や伊豆半島に自生するこの野生の桜は、明治以降、葉の香りが桜餅の原料として重宝され、松崎町はやがて日本一の桜葉産地となりました。
現在も町内には約10万本を超えるオオシマザクラが栽培されており、その柔らかく香り高い葉は、全国の和菓子屋へと出荷されています。
松崎の桜葉は、黒潮の湿潤な空気と強い日差しを受け、豊かな芳香成分を蓄えます。
その香りは単なる地域の特産物ではなく、この地の風土そのものの表現――海風、日光、土壌、そして人の手が織りなす「生きたテロワール」なのです。
虫秘茶 ― 松崎の自然と文化が紡ぐ香り
松崎町の風土は、かつて桑を食む蚕を育み、 今は桜葉を食む蛾の幼虫を受け入れています。 虫秘茶は、この土地に根づく「虫と植物の共働」を新たなかたちで継ぐもの。 オオシマザクラの葉を食べた幼虫の体内では、 成分がわずかに変化し、華やかな香りとまろやかな旨味を帯びたフンとなって排出されます。 それは、虫の体の中で起こる微細な生体発酵の結晶。 かつて絹がこの地の誇りだったように、 いま、虫と植物が紡ぐ香りが松崎の新たな文化を形づくろうとしています。



