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「食」は誰が決めるのか 虫のフンが食になるまで

「食」は誰が決めるか?

普通に生活していると、食生活はスーパーや飲食店に並んでいるものによって構成される。そこにはたくさんの選択肢があって、好き嫌いや気分、栄養、価格、産地などで選んで購入する。その選択は他者から強要されることはなく、自分の意志で選択する。

だけどある日ふと気になってしまった。「食」ってこれだけだったか?と。

一歩引いてみると、生産、流通、制度、衛生、価格、慣習などによって、社会が初めに食を選ぶ。強烈なふるいにかけられ、残ったものが店頭に並ぶ。つまり、何を選ぶかは決められても、何を食の選択肢に含めるかまでは、自分で決めていない。世の中にある「食べられるもの」は、スーパーに並んでいるものよりはるかに多いはずである。

これはスーパーや社会制度が悪いという話ではなく、必要な合理性の裏にはもっと大きな世界が見えるのでは?という話である。合理的な暮らしと引き換えに見落としてしまうものが多くあるのでは?という話である。

出来るだけ手つかずの「食」そのものの可能性を感じてみたくて、その辺の虫や植物を食べたりもした。それらの中には毒がなく、栄養として吸収でき、味や香り(時には旨味)を感じられるものがそれなりにある。それでも、それらをそのまま「食」と呼べるかというと、どこかためらいがある。

つまり、食べられることと、食であることは同じではない。

こんな当たり前のことに、自身の経験をもって初めてたどり着いた。でも経験によって、「食の境界」を自身で決めている実感を得られた。食の境界をスーパーの陳列棚より外側に拡張したことに意味を感じた。多少無理やりではあるが、社会に食べるものを選ばされているのではなく、自分で選んでいるという感覚を得た。

何より、世の中には自分の知らない味や香りがまだ無数にあり、それを知ること自体が純粋に楽しかった。世界のあらゆる自然物に味と香りと食感がある事実に、純粋に驚いた。だから、未知を口に入れる時のうっすらした抵抗感を押し殺して、味わった。そうした探索の中で、虫秘茶が生まれた。

では虫秘茶は「食」か?

今や、ミシュラン三ツ星レストラン含め、食を語る上で申し分ない国内外の店舗で導入された。食の専門家から、提供に値する味覚的価値を認められてきたという強い材料になる。しかし、認知度はまだまだ浅い。社会一般に、安定した食のカテゴリーとして定着しているとは言えない。

では個人にとって、特定のものが「いつ」食だと成立するのか。どのような条件のもとで、食として受容されるのか。その時に、どのような文化的・制度的・経験的背景をもって何にカテゴライズされるのだろうか。

こういった文化人類学的視点で、虫秘茶は非常に面白い題材となる。

一般に食ではないが、特定の場所では食として使用される。そのカテゴリは個人や地域によって、茶・昆虫食・薬・排泄物などになりうる。その揺らぎを丁寧に観測することで、食の成立条件やカテゴリ条件、ひいては食文化の萌芽まで実証できるかもしれない。

これまで蓄積した経験からして、おおよその輪郭は見えた。

「虫のフンはどうような条件で食と認識されるか」

これを研究題材とする。

虫のフンと説明して、食だと思う人はほぼいない。これは当たり前であり、この事実が「虫のフン≠食」「非食→食」の構図のベースとなる。

説明によって、食に近づくのか

もう少し丁寧な説明や補足を加えたときはどうか?

「虫の消化によって、植物が香りや奥深さを獲得する」

「虫の消化酵素によって発酵に似た反応が起こる」

ここまで説明すると納得する人は増える。科学的な原理(限定的ではあるが)による納得感だろう。

「ジャコウネコのフンから出来るコーヒーと似たようなものです」

さらに納得する人は増える印象がある。このコーヒーも境界的な食ではあるが、しばしば高級品として認知されている。そういった既存の食との類似性を発見することによる、食としてのカテゴライズが有効だったのだろう。

「植物は昆虫に食べられることを前提として進化し~(フンが美味しくなる原理的な説明と、昆虫が介在することの必然性を丁寧に解説)」

これは科学的な原理説明というよりは、コンセプトの語りかもしれない。内容は別記事「虫秘茶の製法は実に合理的でした」を参照されたい。ここでも、虫のフンを「食」とすることへの納得感は増すが、感覚的納得から少々理屈っぽい思考になる。

第三者による権威付けはどうか

「nomaでも扱われました」

nomaとは世界のレストランbest50で5度も1位に輝くような、世界一と称されるレストランである。権威付けとしてはこれ以上がない。しかし、意外にもレストランの権威に見合うだけの効果を発揮する場面は少ないと感じる。「超高級レストランは突飛なことをする」という共通的バイアスによって、彼らの料理もまた「境界的な食」と認識されているからかもしれない。

お茶の間のご意見番である、例えば「マツコ」のようなタレントがお墨をつける方が、日常的な「食」の認識にとっては有効なのかもしれない。

体験のフェーズで考える

次に体験のフェーズで考える。

見るとき。虫のフンはコロコロとして乾燥しており、これらの要素は非常にポジティブな印象を与える。

フンと聞いて連想する「便」などの湿度感は不浄のイメージと直結する。未知のものが湿っていたら、警戒する方が一般的かと思う。虫のフンが、そのバイアスと逆であるために「食」としてはポジティブなギャップが生じる。「中国茶もこういう形あるよね」となれば、それはかなり「食」に近づく。

つまり、不浄の連想から離れることと、既存の食への接近が特に重要なのだろう。

次に香る時。

サクラのフン(サクラの葉を食べた虫のフン)は、桜餅のような華やかな香りが特徴的である。虫のフンがお茶になることに怪訝な人も、匂いを体験して「桜餅だ!」とポジティブな反応を示すことが多々ある。これも既知への接近が重要なのだろう。

一方で別の植物の虫秘茶は、どうか?

例えば、クリのフンは、落ち着いた香りで、土っぽさや枯葉っぽさの中に芳香がある。食品との直接的な連想は弱い。この時、サクラほどの「イケる」感は見られない。これは既知への接続の強弱か、あるいは「土や枯葉」と「フン」のイメージがそれほど乖離しないからかもしれない。「桜餅」は明確な食であるし、華やかな香りもフンとは対極ともいえる。

ここまでで、個人の食の境界に一定近づいたときに、飲むというフェーズに入る。

実際に飲んだほとんどの場合で、その風味や奥深さに驚いていた。どこかお茶に似たような味で、ルイボスだったり、出汁っぽさであったり、蜜であったりと、食の言葉で形容され始める。これは、飲んだ人が虫のフンを食として受容している(し始めている)表れであろう。

食として受容される条件

ここまでをまとめると、食としての受容に大切なのは、

・科学的説明による納得感
・社会的信用を持つ第三者による食としての位置づけ
・既知の食との接続/連想
・身体的な経験による更新

このあたりだろう。そう意外ではないかもしれないが、虫秘茶を通じて観測できたことは意義深い。

この観測を継続していけば、社会的が食として受容する瞬間・条件が見られるだろう。土地(つまり制度や文化)を変えれば、個人が食として受容する条件が分かるだろう。

虫秘茶は、新たな食の萌芽であり、食の形成過程の初期を実践していることになる。文化人類学的に非常に興味深い対象であるはずで、そういった視点でも虫秘茶を捉えていきたい。

食の境界を、実際に確かめてみる

食の境界が動くのは、結局のところ、実際に見て、香り、味わったときなのかもしれない。

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