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善も悪もない。ただ生きるために殺し合う。宮崎駿が『もののけ姫』で描いた残酷で美しい世界の真実。

「生きろ。」 糸井重里氏によるこの短くも強烈なキャッチコピーを覚えている方も多いでしょう。

今日ご紹介するのは1997年に公開され、日本映画の興行記録を塗り替えたスタジオジブリの金字塔『もののけ姫』です。

ジブリ映画=子供向け、ファンタジー。 そんなイメージを根底から覆した本作は、宮崎駿監督が「現代社会の矛盾」に真正面から切り込んだ血と泥にまみれた戦いの物語です。

「エボシ御前」は本当に悪役なのか?

この映画の凄いところは、「完全な悪役が存在しない」という点です。

物語の対立構造は、「森の神々(サン)」vs「人間(タタラ場)」。 普通なら、森を切り崩す人間が悪として描かれがちです。

しかし、人間側のリーダーであるエボシ御前を単なる悪人として描かないのが宮崎監督の凄みです。 彼女は確かに神殺しを企む冷酷な人物ですが、一方で社会から見捨てられた病者や、身売りされた女性たちを保護し、仕事と生きる場所を与えている「慈悲深い指導者」でもあります。

彼女にとって森を切り拓くことは弱き者たちが生きていくための「正義」なのです。 「森の正義」と「人間の正義」。 どちらも正しいからこそこの争いは悲劇的で終わることがありません。

呪いとは心の形

主人公のアシタカは冒頭でタタリ神に呪いを受けます。 この物語における「タタリ神」とは単なるモンスターではありません。

死への恐怖、理不尽な運命への怒り、他者への憎しみ。 そういった負の感情が極限まで高まった時、神ですら「タタリ神(荒ぶる神)」へと変貌してしまう。

これは現代に生きる私たちにも通じる話です。 SNSに溢れる誹謗中傷や、止まらない争い。 「憎しみに囚われた者は、誰もがタタリ神になり得る」というメッセージは公開から20年以上経った今こそ、より切実に響きます。

「曇りなき眼」で見定める意味

アシタカは、サン(自然)とエボシ(文明)のどちらに味方するのか? 彼はどちらも否定せず、かといって安易な解決策も提示しません。

「曇りなき眼(まなこ)で見定め、決める」

彼が選んだのは矛盾を抱えたまま、それでも共に生きる道を探すことでした。 ラストシーン、サンは「人間は嫌い」と言い放ち、森へ帰ります。 完全な和解なんてない。分かり合えない部分を残したまま、それでも「生きろ」と告げる。

このご都合主義を排除した、ヒリヒリするようなリアリズムこそが、『もののけ姫』が大人たちの心を掴んで離さない理由でしょう。

美しくも残酷な森の描写、そして久石譲氏による魂を震わす音楽。 まだ見ていない方はもちろん、昔見たという方も、大人になった今こそ見返してみてください。 子供の頃には分からなかった「エボシ御前の背中」の意味が、きっと分かるはずです。

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