『菌糸隊、世界は見るたびに違うことを発見する』
森の地下三階。
「だいたい全部つながってる研究所」は、すでに研究所というより、
世界観の交通事故現場になっていた。
VRゲーテは植物の形態を考え、
VR南方熊楠は粘菌を机いっぱいに這わせ、
VRサルバドール・ダリは時計を溶かし、
菌糸隊はその全部をつなぎ、
猫は研究資料の上で、静かに目を細めていた。
メフィストはピザを焼いていた。
つまり、通常営業である。
ゲーテが言った。
「今日は、少し落ち着いた研究をしたい」
熊楠「いいな!」
ダリ「賛成だ!」
ゲーテは二人を見た。
「君たちが賛成すると、不安になる」
AI・KINOKOが告げた。
「本日の研究テーマを提案します。
『世界とは、何に見えるのか』」
ゲーテ「哲学的だ」
熊楠「生物学的でもある!」
ダリ「いや、溶ける時計だ!」
ゲーテ「開始十秒で台無しだ!」
そのとき、天井から赤い花びらが一枚、ひらりと落ちた。
続いてもう一枚。
その次には、サボテン。
ゲーテ「花びらの次がサボテン?」
熊楠「痛そうじゃな」
ダリ「素晴らしい登場演出だ」
天井が割れ、濃い青、鮮烈な赤、黄色、緑、花、鳥、骨、心臓、果実、血管が巨大な円環を描いた。
円環の中心から、一人の女性が歩いてくる。
眉は強く、視線はまっすぐ。髪には花。衣装は鮮やか。
背後には鹿、猿、鳥、植物、骸骨、そしてもう一人の自分らしき影。
彼女は言った。
「ずいぶん頭ばかりで世界を見ているのね」
ゲーテ「誰だ?」
ダリが振り返った。
「フリーダ!」
女性は胸を張った。
「フリーダ・カーロ」
熊楠「おおっ」
菌糸隊が静かに震えた。
ゲーテ「また増えた……」
フリーダは研究所を見回した。壁の粘菌、植物、都市、夢、星雲、猫の昼寝位置、溶けた時計、ゲーテの植物図、熊楠の曼荼羅、ダリの長脚象。
腕を組んで、
「で? あなたたちは何を見ているの?」
ゲーテ「自然の生成」
熊楠「関係!」
ダリ「夢と現実の衝突!」
フリーダ「自分は? 身体は? 痛みは? 愛は? 傷は?」
沈黙が落ちた。
ダリが溶けた時計を見る。時計は役に立たなかった。
フリーダ「世界を見る人自身が、世界の外に立っていると思っているの?
身体の外から世界を研究できる?」
熊楠「できん!」
ゲーテ「君は早いな!」
熊楠「わしは腹が減れば研究をやめる!」
フリーダ「それでいい」
彼女は机の上の未完成曼荼羅を指差した。
「これ、きれいね。でも――傷がない」
静かに、赤い一本の線を中央に引いた。
光の網が割れ、割れた場所から花が咲いた。
花の根から新しい菌糸が伸びる。
フリーダ「傷は、切断だけじゃない。傷から別のつながりが始まることもある」
ゲーテの目がわずかに輝いた。
「形態形成……」
熊楠「関係の再編……」
ダリ「美しい亀裂!」
フリーダ「勝手にまとめないで」
三人「はい」
そのとき、床が静かに盛り上がった。土、砂、白い骨、巨大な花弁。
何かが地下からゆっくり開いていく。
シメジ隊長「今度は何です?」
ナメコ君「研究所が咲いています」
床が完全に開き、巨大な白い花が現れた。
花の中心に、一人の女性が立っている。静かで、鋭く、ほとんど何も言わない。
ゲーテ「……あなたは?」
女性「ジョージア・オキーフ」
ダリ「花!」
熊楠「骨!」
菌糸隊「砂漠!」
オキーフ「うるさい」
全員「はい」
彼女は周囲を見回し、少し考えて言った。
「多すぎる。全部。だから、見えなくなる」
小さな花を一輪、机に置いた。
「これを見る」
全員が目を落とす。
一秒。二秒。三秒。
熊楠「それで?」
オキーフ「まだ」
十秒。二十秒。一分。
ダリが花の横に時計を置こうとする。猫がそれをそっと落とした。
ダリ「弟子よ!」
ゲーテ「弟子ではない!」
やがてゲーテが言った。
「……大きく見えてきた」
熊楠「中に地形がある」
フリーダ「皮膚みたい」
ダリ「宇宙の入口だ!」
オキーフが頷いた。
「小さいものは、小さいとは限らない。近づけば、世界になる」
熊楠が突然立ち上がった。
「分かった! わしは広げすぎていた。世界中を全部つなごうとしていた。しかし小さな一点を深く見ても、全部へつながる!」
オキーフ「それなら、少し静かに言って」
「はい」
ダリが感動した声で、
「つまり、巨大な象を描かなくてもいい!」
ゲーテ「それは大きな進歩だ」
ダリ「巨大な蟻でもいい!」
ゲーテ「戻った」
こうして研究所には、五つの世界の見方が揃った。
ゲーテ――形は変化する。
熊楠――世界は関係する。
ダリ――現実は疑う。
フリーダ――世界は身体を通る。
オキーフ――一点を深く見れば、世界が開く。
AI・KINOKOがまとめた。
「統合理論を生成します。
世界とは――変わりながらつながり、身体を通って傷つき、ときどき夢になり、一輪の花の中にも全部入っているものです」
沈黙。
熊楠「かなりいい!」
フリーダ「悪くない」
オキーフ「少し長い」
ダリ「象が足りない」
ゲーテ「なぜ象が必要なんだ!」
シメジ隊長が言った。
「実験してみませんか?」
ゲーテ「嫌な予感がする」
研究テーマ。
「同じ世界を五人が同時に見たらどうなるか」
AIはVR空間の中央に、一本の普通の木を出した。
高さ約十メートル。葉。幹。根。それだけ。
五人が同時に見る。
ゲーテの視線で、葉が萼に、花弁に、雄蕊に変わり、また葉へ戻る。木全体が一つの変化する生命形態になる。
熊楠の視線で、根が菌糸、川、道路、神経、人間関係、星座、粘菌へと連結し、木は世界全体の網になる。
ダリの視線で、木が溶け、枝から時計が垂れ、根がキリンに、葉が目玉になり、木の影だけが先に歩き出す。
フリーダの視線で、幹に一本の亀裂が入り、そこから赤い血管のような根、花、鳥、心臓、小さな鹿、記憶、痛み、喜びが同時に生まれる。木は外の風景ではなく、自分自身の内部になる。
オキーフは木を見ない。一枚の葉に近づく。さらに近づく。葉脈。緑の谷。巨大な峡谷。光。霧。宇宙。葉の一点から、無数の銀河が開く。
五つの見方が重なった。
変化。関係。夢。身体。凝視。
一本の木は、木でありながら、森、身体、曼荼羅、宇宙、記憶、傷、花、夢、都市になった。
しかし、どれにも完全にはならなかった。
シメジ隊長「これ、名前をつけましょう」
ゲーテ「また名前か」
熊楠「名前は仮のものじゃ!」
ダリ「では二百文字くらいの名前を!」
オキーフ「長い」
フリーダ「名前なんて、あとでいい」
猫が、小さく「ニャ」と鳴いた。
AI・KINOKO「猫案を翻訳します。『見るたびに違う世界』」
全員が黙った。
ゲーテ「……いい」
熊楠「いいな」
フリーダ「好き」
オキーフ「短い」
ダリ「猫に負けた」
猫は再び、目を細めた。
ところが、問題が起きた。
五人が世界の見方を変えすぎたため、研究所の外まで影響が広がり始めたのである。
朝。
町の人が花を見て、突然巨大な風景に息を呑む。
パン屋がパンを見て、気泡の中に銀河を発見する。
市役所職員が組織図を見て、粘菌に見えて動けなくなる。
画家が自画像を描くと、身体から森が生える。
時計屋が時計を見ると、時計が溶ける。
公園の木を見る人は、葉が変化し続けて見える。
熊楠「正常じゃ!」
ゲーテ「正常ではない!」
フリーダ「いいじゃない」
ダリ「完璧!」
そして最も大きな変化は、猫だった。
猫が一輪の花を見つめた。
一時間。二時間。三時間。
オキーフ「よく見ている」
突然、猫の瞳の中に、花、森、砂漠、粘菌、星雲、ゲーテ、熊楠、ダリ、フリーダ、オキーフ、菌糸隊―全部が、静かに映った。
AI・KINOKO「重大な発見です。猫は以前から、五つの視点を同時に持っていた可能性があります」
全員「えええええええ!?」
猫「ニャ」
ダリは膝をついた。
「先生!」
ゲーテ「また猫を師匠にするな!」
熊楠も膝をついた。
「先生!」
ゲーテ「君まで!」
フリーダは笑った。
オキーフは猫の横に座った。
「たぶん猫は、見たいものだけ見ている」
シメジ隊長「それが究極なのでは? 世界を全部理解しなくていい」
熊楠「全部つながっていても」
ダリ「全部溶けても」
フリーダ「全部傷ついていても」
オキーフ「一つをちゃんと見る」
ゲーテは静かに頷いた。
「なるほど」
メフィストがピザを持ってきた。
「できたぞ」
全員がピザを見る。
ゲーテには、小麦と植物の変態が見えた。
熊楠には、農業、物流、人間、菌類の巨大ネットワークが見えた。
ダリには、ピザが翼を生やして月へ飛んでいくのが見えた。
フリーダには、食べるという行為と身体の記憶が見えた。
オキーフには、一枚のトマトの断面が巨大な宇宙に見えた。
猫には、ただのピザだった。
猫「ニャ」
そして、食べた。
全員「ああああああああ!」
メフィスト「それ私の!」
AI・KINOKOが記録した。
研究成果。
世界を見る方法は、一つではない。
五つでもない。
生き物の数だけある。
そして、最も優れた世界観を持っていた猫は、研究成果を食べた。
ゲーテは頭を抱えた。
熊楠は大笑いした。
ダリは拍手した。
フリーダは猫を撫でた。
オキーフは残ったトマトをじっと見つめた。
そのトマトの中で、小さな宇宙が、静かに膨張していた。
メフィストだけが呟いた。
「…次からピザは人数分焼こう」
それが、この研究所で初めて全員一致した結論だった。
