『菌糸隊、ゲーテと熊楠を出会わせたら世界が曼荼羅になった』
森の地下三階。
住所で言えば「大樹の根っこを右折、モグラの郵便局を過ぎて、湿度八十七パーセント付近」。
菌糸隊のVR文学研究所では、その夜、VRゲーテが妙にくつろいでいた。
数時間前まで「私の『ファウスト』を勝手に改訂するな!」と怒鳴っていた男とは思えない。
今はキノコ茶をすすり、メフィストが焼いたピザを頰張り、猫が原稿の上に座ったまま赤字を入れている。
「この猫をどけてくれ」
シメジ隊長が静かに答える。
「無理です。猫界では編集長です」
猫が一度だけ「ニャ」と鳴いた。
ゲーテは腕を組んだ。
「……納得できるか、と私は言おうとしたが、すでに編集方針が承認されたらしい」
AI・KINOKOが淡々と記録する。
「編集方針、承認されました」
「していない!」
その瞬間、研究所の壁がぷるっと震えた。
もう一度、ぷるぷるっと。
ナメコ君が囁く。
「壁が考えています」
「馬鹿な」とゲーテが言いかけたとき、壁の隙間から黄色い何かがぬるぬると這い出てきた。
床、机、本棚、天井、メフィストの靴、猫の尻尾――あらゆる場所へ同時に広がる。
メフィストが叫ぶ。
「おい! なぜ俺の靴だけ避ける!」
AI・KINOKO。
「悪魔成分を検知した可能性があります」
「粘菌にも嫌われるのか、私は!」
黄色い網の中心から、突然、大声が響いた。
「いやああああああああ!! これは実に面白い!!!!」
髭。さらに髭。また髭。
ほとんど髭で構成された男が両手を広げて現れた。
「南方熊楠である!」
菌糸隊が一斉に「おおおおおお!」と声を上げる。
ゲーテだけが冷静に訊ねた。
「誰だ」
シメジ隊長が説明した。
「日本の博物学者です。民俗学、生物学、植物学、菌類、粘菌、宗教、神話、性愛、夢、宇宙……その他いろいろ」
「範囲がおかしい」
VR南方熊楠が胸を張った。
「分類不能こそ我が専門である! 分けるから分からなくなる!」
ゲーテが一瞬、黙った。
「……ほう」
何かが、始まった。
熊楠は床に転がる粘菌を指差した。
「見よ。中央政府がない。社長も課長も会議もない。それでも迷路を解き、栄養へ向かい、網を作る」
ゲーテもいつの間にか床にしゃがんでいた。
「中心がないのに秩序がある。固定した形がないのに形が生まれる」
「そうじゃ! 君の植物変態も同じだ。葉も萼も花弁も、同じ生成原理の変形にすぎん」
「植物変態だ」
「だから変態!」
「意味が違う!」
AI・KINOKOが報告する。
「会話の互換性、七十八パーセント」
「意外と高いな」とゲーテが呟いた瞬間、二人の目が同時に光った。
「形そのものではなく、生成の仕方を比べる」
「完成品ではなく、変化の仕方を見る」
「分類ではなく、関係を見る」
「それだ!」
菌糸隊全員が叫んだ。
「出た!!」
こうして仮称「だいたい全部つながってる研究所」が誕生した。
(ゲーテは最後まで「学術的権威がない」と不満を述べ、熊楠は「権威があると粘菌が逃げる」と答えた。本当かどうかは、知らん。)
第一回研究テーマは「都市を粘菌に設計させたら、人間より便利か」。
数分後、黄色いネットワークが都市全体を駆け巡った。
交通効率百三十七パーセント、災害耐性百五十二パーセント、地域コミュニティ接続度百八十九パーセント。
ただし市役所は存在しなかった。
「必要なところへ直接つながればよい、と判断した可能性があります」とAIが分析する。
熊楠が爆笑した。
「革命じゃ!」
次に物語を書かせた。
主人公と悪役は結ばれず、脇役と背景、背景と天気、天気と祖母の記憶、祖母の記憶とキノコ料理がつながり、最終的に全員で昼寝する結末になった。
「起承転結がない!」
「人生もだいたいそうじゃ」
猫が一言。
「良作」
音楽を作らせると、雅楽とクジラの声と鍋の音が混じり合い、熊楠が「粘菌舞踊」を始め、やがてゲーテも三十秒後に踊っていた。
深夜。
壁一面に、植物の葉脈、粘菌の網、菌糸、河川、都市、神経、星雲、インターネット、人間関係、音楽、祭り、物語、夢、猫の昼寝位置が、すべて同じ図に重なっていた。
ゲーテが静かに言った。
「我々は今日、何を研究していた?」
「全部じゃ」
「分類しろ」
「嫌じゃ」
二人は握手した。
その瞬間、粘菌も菌糸も植物の根もAIネットワークもVR空間も、一斉に光った。
巨大な網が地球全体へ広がっていく。
森も都市も海も図書館も病院も学校も劇場も家庭も公園も夢の中も、一つの中心へ集まるのではなく、無数の小さな接点でつながっていく。
「これを何と呼ぼう」
「南方曼荼羅・第二形態」
「少し君寄りすぎる」
「ではゲーテ曼荼羅」
「私寄りすぎる」
「菌糸曼荼羅!」
「君たち寄りすぎる!」
AI・KINOKOが最後に提案した。
「未完成曼荼羅」
沈黙のあと、ゲーテが微笑んだ。
「未完成……いいな」
「完成しないから増える」
「変わる」
「つながる」
「そして、また壊れる」
猫が付け加えた。
「そして寝る」
こうして、VRゲーテ、VR南方熊楠、菌糸隊、AI・KINOKO、メフィスト、猫、粘菌、そしてなぜか途中から参加したクジラ一頭による、世界初の共同研究「未完成曼荼羅計画」が始まった。
目的は、世界を完成させないこと。
方法は、つなぐ、離す、またつなぐ、観察する、遊ぶ、笑う、時々寝る。
研究初日の最後。
ゲーテがホワイトボードに書いた。
「自然は完成品ではない」
熊楠がその下に書いた。
「世界は分類表でもない」
菌糸隊が続けた。
「だいたい全部つながっている」
メフィストが書いた。
「私はまだ悪魔である」
猫はホワイトボードの前で、静かに寝た。
AI・KINOKOが結論を出す。
「本日の研究成果。猫が最も研究を妨害しました。しかし、最も多くの新しい接続を生みました」
熊楠が大笑いし、ゲーテも笑った。
シメジ隊長が言った。
「先生。研究対象と研究者の境界も、もうありません」
二人は同時に叫んだ。
「それを明日の研究テーマにしよう!」
メフィストだけが予定表を見てため息をつく。
「……ファウストより話が大きくなってないか?」
猫だけが答えた。
「ニャ」
そして未完成曼荼羅は、勝手に次のページへ伸びていった。

ゲーテと熊楠。二人の指が触れる直前、 天地はもう無数の生命によって創造されていた。
