夢の残骸とランチと砂の果実と
今日のランチは何にしようかなんて、考えながら歩いていた。イタリアン、タイ料理、激辛ラーメン、どうしよう。ぼやぼやしていた。
その時、視界の右側を、見覚えのある人物が通ってあっという間に私を抜かした、気がした。
後姿では、よく分からない。だけど、先生にすごく似ている。
私は、柄にもなく声をかけるのをためらった。その人は、あっという間に、歩を進める。
私が研究者になりたいと思ったのは、ある学校のサイエンスカフェがきっかけだった。微生物について、その先生は、本当にうれしそうに話す。プレゼンのうまさと効果を感じたのも初めてだったし、何より微生物がこの上なく興味深い研究対象ということがよく分かった。
サイエンスカフェの時も色々質問に答えてもらったり、その後、その学校のイベントごとを見に行くと色々新しい知識を教えてくれた。その先生が、今、私の前を歩いているかもしれない。
私がぼやぼや歩いていなければ、ちゃんと見て先生と確信していたら、声をかけただろう。先生は、こちらのことを覚えている。顔見知りくらいの間柄だ。
でも、ふと、声かけて何を聞くの?と考えたら、すぐには質問を考えられなくて、ためらった。ためらいが時間となり、距離となる。
あっという間に、追いかけられる距離ではなくなった。
千載一遇の機会を失ったかもしれない。
私の、研究者になりたいという年甲斐のない夢の終わりを見たようで、悲しくなった。
通勤中、ドラマ「ケイゾク」の主題歌だった中谷美紀のクロニックラブを聴いていたら、同じ歌手だからか「砂の果実」がSpotifyによりおすすめされたので、最近よく聞いていた。
昔流行った、という記憶しかないが、聞き覚えのある旋律。中谷美紀のアンニュイできれいな歌声。僕は自分なのだろうか、あなたなのだろうか。
小説も歌詞も詞も、作者の深い意図を読み取れる人も中にはいるのだろうが、受け取り手の状態による多彩な解釈ができるのもいいことだ。
砂の果実の歌詞は、秀逸で冷酷だ。
よく聞いていたせいか、理想と現実の乖離について、より考えてしまった。砂の果実が、思考をぐるぐる動かす。
空っぽの大人になっている。
夢に近い人(かもしれない人)に声もかけられない。とっさに質問もでてこない。
得られるものがあるのに、そのチャンスすら活かせない。
すごく落ち込んでしまったので、ランチは一番豪華なイタリアンにすることにした。
ランチなんていつでも食べられるもののために、失ったものがあるなら、ランチは豪華にいかないと。きれいな色の野菜とお魚のタンパク質を摂取することで、身体にいいことはちゃんと行った。デザートのイチゴのスープはかぐわしく、コーヒーは私を労ってくれた。
私は武士ではないけれど、有事のために刀を研ぎ続けていたら、いつか刀は薄っぺらくなってしまうのではないか。研ぎ続けて、備えたい、けれども。
チャンスを逃さない人が勝つ世の中なのだろう。運がいい人を羨んでも、運の悪い私は備えることしかできない。そして、備えることに疲れてしまった。
「理科教室」という雑誌をたまに買っている。私は自分の勉強のために買っているだけだが、中身は教員向けで、教職に就いている方々の創意工夫が忍ばれる。月により内容は違うが、共通して「子供たちに理科に興味を持たせたい」という思いが見える。
私は、小さいときから理科が好きだったわけではない。ただ、理科を好きになった結果が、こんな大人なのだ。
こんなに興味を育てたいのは、理科好き母数を増やしたら、研究者によい人材を確保できるから、なのだろうか。
そこから、夢からこぼれおちる子は増えてしまわないのか。
仕事イコール夢、じゃないことを体現したいけれども、なかなか難しい。
砂の果実にも答えはない。
昔の人間関係とか、たくさんのことを思い出して苦しくなる。
あらかじめ失われた革命のように
この醜い世の中を、シンプルできれいにまとめていてすごい歌詞だ。
言葉の力を感じる。
どこかに答えがあればいいのに。
