白衣の王子様より発泡酒の戦友
「隣の芝は青く見えるってまさにこのこと。」
そんな愚痴を、内視鏡カメラのモニターではなく自分の浅はかさに向けてつぶやきたくなった夏だった。

隣駅から歩いて3分の非日常
梅雨明けの猛暑、胃の中にボーリングの球を飲み込んだような胃腸風邪にかかった。かかりつけ医→大学病院からの、たどり着いたのは隣駅の口コミが良い内視鏡専門クリニックだった。
駅から歩いて3分、そこにあったのは約100坪のヨーロッパ風大豪邸。1階が病院、2階が自宅というセレブ仕様だ。
施設はピカピカに磨き上げられ、看護師さんたちは仏のように親切。
そして何より、院長先生がもう、びっくりするほど礼儀正しくて優しい。
30代後半くらいか。細い目から「優しさビーム」がダダ漏れしている男性医師だった。
開口一番「暑い中ありがとうございます」と深々とお辞儀。初めての胃カメラで怯える私を徹底的に安心させてくれる。
極めつきは診察台での一幕だ。お腹をぽこぽこと叩いて「ポリープがありますね」と言うので、「どこですか!?」と聞くと、チラッとこちらを見ながら得意気に「膣です」。
「お腹叩いてわかるんですか!?」と驚くと、「そうなんですよ〜!」と待ちに待っていましたと言わばかりの少年のようなキラキラした目で、触診の大切さを熱弁しだす。この人、絶対の医療オタクだ。
白衣の王子様への片思い
検査当日も、カーテンの隙間から目が合うとわざわざ戻ってきて「よろしくお願いしますね!」と頭を下げる。マスクとヘッドキャップとゴーグルで顔の9.9割が隠れていても、細い目が間違いなく笑っている(と思う)。
ここまで来たらファンになるしかない。
若くて、頭良くて、大豪邸に住んでいて、こんな「一アラフィフのオバサン」にまでホスト並みに誠実。
神様。
なぜ私をこのお医者様と同じ時代、同じ街に生み落とし、青春のすれ違いを経て、ドラマチックな恋愛に発展させ、あわや結婚のゴールインまで導いてくれなかったのか。
真剣に運命を呪った。
2階のプライベート空間で今ごろ優雅に紅茶でも飲んでいるであろう奥様に、1人勝手に激しいジェラシーの炎を燃やすアラフィフ乙女。
今日もひとりよがり全開だ。

左は新婚旅行のフランスで買ったホワイトボード
「酒は百害」というトドメ
……が、物語はここから急展開を迎える。
診察のたびに「酒は百害あって一利なし」と釘を刺され、会計時には受付の女性から「先生が家でよく読んでくださいと言っていました」と、アルコールの恐怖を綴った手作りプリントを手渡された。
最後の診察でごく初期の逆流性食道炎の写真を見せられ、「原因は酒やコーヒーですね」とトドメを刺される。
ここで私の酒飲み魂に火が着いた。
酒が体に悪いことくらい百も承知だ。それでも飲みたいんだよ! 日々のストレスをマイルドにしてくれる私の唯一の親友を奪う気か。
きっとこの先生は一滴も酒を飲まないクリーンな人生を歩んできたのだろう。大腸洗浄の洗浄度に10点満点のオリジナル採点システムを導入するほどの医療熱血男だ。

けど、先生のプリントでビビり散らかしたので糖質ゼロ
妄想のなかの地獄の圧迫面接
……待てよ?
もし私がこの先生の奥様だったらどうなる?
晩酌のビールを開けるたびに、あの細い優しい目で「それ、本当に必要ですか?」とこんこんと説教される地獄の圧迫面接生活が待っているのではないか。
私の妄想の中の奥様では、きっと毎晩ルイボスティーを飲んでヨガをする清らかな人に違いない。
毎晩発泡酒を煽って娘たちにウザ絡みする私のような人間が嫁いだら、一週間で実家に強制送還だ。
雑草の庭と、我が家の戦友
そう考えると、我が家の夫はどうか。
夕方からキッチンドランカーをかましていても何も言わず、自分も当たり前のようにリビングで飲み始める。
干渉しないことの気楽さと、互いの赤ら顔を笑い合う距離感は、人生の荒波をともにサボり抜く、得がたい戦友なのだ。
時折り垣間見せるモラハラ気質に、ため息をつく日があろうとも、私たちが築いてきたこの日常の景色は、かけがえのない絆なのかもしれない。
どれほどエリートたちのヨーロッパ風の庭が、遠くから眩しく見えたとしても、いざ蓋を開ければ、我が家の雑草が青々と茂った庭のほうが私の肝臓と魂には圧倒的に息がしやすい。
麻酔のぼんやりとした霧がゆっくりと晴れていく途中で、思いがけず人生の真理にたどり着いてしまったような、内視鏡の帰り道だった。

食事ができたら、夫婦でさっさと先に食べる
全員B型の我が家
