『HAPPYEND』とエドワード・ヤン
この映画が公開された時、宣伝文句として「エドワード・ヤンの『牯嶺街少年殺人事件』を彷彿とさせる」といった類の文章が飾られていたわけだが、それはおそらく、監督自身も触れていた通り、この映画が歴代の不良映画に多くのインスピレーションを受けており、そのエッセンスが否応なしに画面全体に充満していることに起因していると思われる。ただ、ヤンを愛する者としては、彼が新人作家が世に現れる度に詐欺の道具として扱われることに辟易としており、今回のこの文句もまた容易く受け入れられるものではなく、自然な流れで穿った目線をこの映画に送ることになってしまった。
しかしながら、その姿勢は映画の物語の力ではなく、演出のそれによって正されることになったことは、初めて観てから2年ほどの歳月が経った今でも驚くべきことであり、同時に大変嬉しく感じることでもある。
「映画の物語の力ではなく」と述べたのは、この映画がこれほどまでにいたく感動できるものではあるものの、その物語は古典的なものであり、そこに真新しさはほとんど感じられないためである。敢えてその良さに触れるとするならば、物語の舞台が今よりも厳重な監視社会となった近未来であるのにも関わらず、その物語が形式を保ったまま成立しうるということに気付かされたことであり、さらに言えば、それはどの時代のどの社会においても通ずる根本的な問題であるということにも気付かされたことである。
また先に「真新しさはほとんど感じられない」と口走ってしまったが、その中でも一点明確な捻りを挙げるとすれば、この映画が、ユウタとコウという性格の全く異なる男子高校生を二人とも主人公に据えている点である。元来青春映画といえば、主人公はことあるごとに孤独に晒され、そこに観客は一種のカタルシスを感じていたものだと思われる。ことさら口数の少ない主人公の場合には、ヴォイスオーヴァーを用いて感情の機微を詳細に語らせることで、その効果を補填、もしくは増幅させていたものである。だが、この映画はそのような姿勢をとることを敢えて避けている。
わかりやすく二項対立の型に当てはめてみるとするならば、ユウタは理想主義者であり、コウは現実主義者に“なりそうであり”、ユウタは動かない人物であり、コウは動く人物に“なりそうである”。“なりそうである”と捉えたのは、コウは映画の中で自らを取り巻く社会と自分自身との関係性に変化がもたらされていることに気がつき、それを是正するために政治的な活動に勤しむことになったからである。ただ、この映画においてはこのような二項対立の型に当てはめることは少々注意がいることである。この二人の関係性の変化は劇的なものではなく、漸進的なものであるからである。クラスメイトのフミの影響もあってか、政治的な活動に目覚めたコウはその胸のうちを周囲に打ち明けるも、ほとんどと言って良いほど真剣に聞き入ってはもらえない。それは、まだコウが現実主義者になりきれていないからである。また、現実を変えるための手段として政治的な活動を選択したという点においても、未だ理想主義者としての片鱗を覗かせているようにも思われる。そのために、コウは感情に任せて熱く語り出すも、かえって詰められることになってしまう。この曖昧な立場に立たされる主人公と言えば、誰もが『牯嶺街少年殺人事件』の小四を想像するのも無理はないだろう。
では、この映画において従来の青春映画が観客にもたらしてきたようなカタルシスが全く感じられないかというと、そうではない。むしろ、より壮大なカタルシスをもたらしているのである。終盤、集会の際に校長は、フミらの抗議内容を認める代わりに自身のスポーツカーが標的となったイタズラの実行犯を晒すことを求めたのである。この声明に対しフミらは約束が違うと激怒し、また違うところでは抑止力があるから監視システムは継続すべきだという保守的な論者も声をあげ、その大きく二つの勢力が衝突するとてもまともな集会とは思えない混沌とした状況になっている。だが、これだけの大袈裟とも言える民衆の動きは図と地においては地に過ぎない。そこでキャメラがとらえるのは、コウの姿である。彼は自分が実行犯の一人であるがために、自らの主張を無責任なようにも思える形で表現することができず、その場にとどまっている。その彼がふとユウタが座っている斜め後ろの席の辺りに視線を送ると、キャメラはコウの視点と重なりユウタの席をとらえるものの、そこにユウタの姿はない。ユウタは壇上に上がり、力強くマイクを握ってコウに視線を送る。ここでユウタとコウのカットバックになるわけだが、このサスペンスの状態を際立たせるためのこの演出は映画にとって最も有効な手段であり、賞賛以外の評価は下されるべきではない。覚悟を決めたユウタはイタズラは自分一人によるものだと明かし、コウを庇ったのである。ユウタが周囲のそれぞれの人物がそれぞれの道へと歩もうとしている現実を認め、その一人であるコウに寄り添うこの一連のシーンは、それまでの二人の運動の形態が逆転し、ついに関係性が変化を遂げる最もドラマティックなシーンである。
もうひとつこれに相似関係にあるシーンを挙げるとするならば、ラストの歩道橋のシーンだろう。卒業式の後、トムを見送った4人は冒頭でも登場した歩道橋に行き着く。自然な流れでコウが自分の家で夕食を摂らないかと誘うも、ミンとアタちゃんはミンの父親との食事の先約が入っておりわかれることとなり、冒頭の朝帰りのときと同様、コウとユウタのみのシーンに移り変わる。コウはユウタだけでもと誘うも、家を追い出されたユウタは新居の内見のために断ってしまう。別れの言葉を切り出すことの出来ない2人の間に沈黙が流れた後、動き出したのはユウタであり、その身振りは劇中何度も繰り返された胸元を突くというものである。ユウタがコウに触れたと同時に画面は止まり、音楽が流れ、少し経つと再びキャメラに収められた2人は動き出し、それぞれの方向へと散っていくというなんとも感動的なラストを迎える。
なぜこのシーンが集会のシーンと相似関係にあるかと言えば、ユウタとコウの運動の形態においてである。それまでと同じく楽しく過ごしていたユウタと、それまでとは異なる自分になろうと踠いていたコウの2人の運動の形態が映画における重要な局面において逆転することとなる。このシーンでは、先のシーンとは異なりサスペンスではなく単なる運動の停滞がもたらされているのだが、そうなった場合アクションを起こすのは決まってユウタである。それまでとは異なる人物になろうとしても、簡単には変わることの出来ない2人に我々観客は涙を禁じ得ないのだ。それをより強調させているのはその直前でのそれぞれの動きである。それまでとは異なり、再び会うことが確約されていない状況の中で散り散りになる彼らの様子から、それが単なる運動ではなくそれぞれの道が異なる方向へとのびていることを我々は感じ取る。結果的にユウタとコウの2人もわかれることとなるのだが、それでも友情が潰えたわけではないことを彼らは繊細な身振りで表現してみせているのである。その後彼らが再び集うことがあるのかについては映画に収められていないために分かり得ないが、映画の外の世界で彼らを演じた俳優陣が交流を続けていることを知れば、映画の中の彼らもそうあってほしいと願わずにはいられない。
ここまで手放しと言って良いほどこの映画に対する賞賛の言葉を並べてきたが、未だヤンの領域に到達しているとは言えないだろう。というのも、ヤンはこれ以上に演出を徹底させていたためである。この映画におけるこれらの演出はどれも評価せざるを得ないものではあるが、もうひとつ「社会を映しているか」という新たな基準を設けると、それが歴然としたものであることを認めることができる。
『牯嶺街少年殺人事件』において、小四が小明を刺した次のショットで、キャメラは小四の顔に寄ることをせず、かなり引いた位置留まってその後の様子をとらえる。するとそこに映し出されるのは、倒れ込む小明のそばで呆然とした様子で立ち尽くしている小四と、その奥にいる露店の人々である。露店にいる人々は、それぞれの時間を過ごしていたものの、異様な光景を目にしたことで段々とそれに視線を送り始めるようになる。だが、ここで注目すべきはその露店にいる人々が決して小四に関わろうとしない点である。これにより、画面の中には呆然と小明のそばで立ち尽くす小四の空間とは別の、それを見ている人々の空間が立ち上がり、それぞれの空間が共存することになる。これを目にした我々は、この映画におけるメインストリームである小四の空間以外の、社会的な空間が存在することを認めることになる。
また、これとは異なった形で社会を映し出しているのは『カップルズ』である。メンバーそれぞれに問題が生じたことでグループの存続が不可能な状態になった時、ルンルンはマルトの行方を追う。匿っていた自宅の一室から彼女が抜け出したことを知ったルンルンは、夜の街に繰り出す。だが、お互いに連絡を取り合う手段も持たないままであるため、簡単に出会うことはできない。このシーンの途中、ルンルンの視点ショットとして、無造作に入り乱れる群衆を映し出すショットがあったことを見逃してはいけない。諦めた様子のルンルンは歩を進めようとするも、何かを感じ取ったかのように、後ろを振り返る。その視線の先から近づいてくるのはマルトである。「キスは不吉」という謎めいたルールからの解放を表現するかのように、2人は行き交う人々の中でキスを始める。
その際、2人は一言二言言葉を交わすのだが、その内容は我々観客には明かされない。というのも、このシーンにおいてマイクは群衆に捧げられており、2人の音声を拾おうとはしていないのである。映画のクライマックスに相応しいこのシーンにおいて、ヤンは敢えて2人の外の空間の存在を示している。これもまた社会を映していると言えるだろう。
このようなヤンの作品における例を考えると、この映画における社会の映し方には、そこまでの強度がないことが読み取れるだろう。
ただ、少し先の未来にどこでも起こりうると思われる出来事に焦点を当て、その様子をそこに生きる人物を通して描こうとするその姿勢は、ヤンの普遍的で先駆的な視点をもって描く姿勢に似たものを感じる。
空音央は確実にヤンに近づきつつある。それは作品を観れば紛れもないことであり、そのことをわれわれは認めざるを得ない。
