【海外の反応】「日本語には“主語という発想”がない…?」世界の言語学者を真っ二つにした100年論争​。。。

【海外の反応】「日本語には“主語という発想”がない…?」世界の言語学者を真っ二つにした100年論争​

ここで言う「文法的な主語」と言うのは西洋の「哲学的な主観」に端を発しているが、文法学は哲学から骨抜きにされた言語学であり、ここからは表面的な議論しか生まれない。

「象は鼻が長い」と言う文法学上の議論がある事は前から知ってはいたが、あまり興味が沸かなかった。

しかし私は今、チョムスキーが探して見つけられなかった普遍文法が「其々が置換可能な流動的な入れ子構造を持つ有形無形の三つの項目で成り立つ文法的な人称」であると言う結論に達している。

前から、気にはなっていた、​ゆる言語学ラジオの「象は鼻が長い」の第一回目​を視聴してみた。

主語と言う文法的な概念は、西洋文法から持ち込まれたものであると言う三上章の主張は、確かにその通りだと思うが、それだけでは説明として不十分であると私は考える。

もう、20年以上も前の話だが、私が日本語に関して出した結論は、全ての文が三人称で書かれていると言う事である。

多くの西洋語にあって、日本語に無い文法的な規範の一つに「人称による動詞の活用変化」がある。

しかし日本人であっても、この「三つの人称」と言う概念は理解する事は可能である。

つまり、日本語話者も、西洋言語によく見られる動詞の活用の人称による変化と言う有形の文法的なカテゴリーとしては現れないが、三つの項目で成り立つ人称と言う入れ子構造を持つ区別を無意識のうちに付けながら、文脈を構成して意味を確定させながら、互いに会話を楽しんでいるのである。

西洋言語の文法に於いて、主語が特権的な位置にあるのは、それが西洋哲学に於ける一人称の主観に対応しているからである。

ところが、この哲学的な主観が、文法学に落とし込まれる際に、一人称だけでなく、三種類の人称の其々に分配可能な文法的な主語に変わってしまった。

これが、哲学が言語学を骨抜きにした全貌の一部である。

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