【ショート】 手に入れたはずの人
―― short story ――
彼は、人の価値を見誤らないことで、ここまで来た。
それが彼自身としての、ささやかな自負だった。
屋敷を訪れたあの日、
本当の目的は主人との取引だった。
能力は平凡、浪費癖があり、女関係もだらしない。
それでも、駒にはなる。
――ただ一つ、計算に入っていなかった存在がいた。
給仕をする女。
部屋の空気が、彼女の動きに合わせて整っていくのが分かった。
床に埃はなく、
書類は揃い、
主人は不思議と機嫌がいい。
「面白いな」
彼は、その夜、女を呼んだ。
名前を聞くと、少し間があってから答えた。
「ここにいるには、惜しい」
数日後、彼は求婚した。
地位も、生活も、約束した。
彼女は首を横に振った。
「君が仕えている主人を、引き上げよう」
彼女は、その瞬間、初めて迷った。
恋ではない。
責任に近い、何か。
翌朝、彼女は頷いた。
その時、彼は悟った。
彼女は、彼を選んだのではない。
結婚後、屋敷は整い、
彼の生活は静かになった。
だが、夜になると、
彼女は時々、遠くを見る。
その視線の先に、自分はいない。
数年後。
引き上げた主人は出世し、
やがて、転げ落ちた。
彼女は、その報せを、黙って聞いた。
表情は変わらなかった。
その夜、彼は初めて「後悔しているか」と聞いた。
彼女は首を横に振った。
彼は笑った。
そして、少しだけ、胸が痛んだ。
この女は、
誰のものにもならない。
自分でさえ。
だから、触れた。
できるだけ優しく。
少しだけ、荒く。
権力では、心は買えない。
その事実を、
彼は遅れて知った。
――それでも彼女を選んだことだけは、
人生で、数少ない誤りではない選択だった。
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