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【ショート】 伝えなかった言葉

―― short story ――

彼女は、一度も口にしなかった。

屋敷で働きはじめてから、
毎日、彼の部屋を整えた。
朝は早く、夜は遅く、
それでも彼は、きちんと「ありがとう」を言う人だった。
それだけで、
指先の動きが、ほんの少しだけ遅れた。

「きみがいると助かる」

彼はよくそう言った。
彼女は、うなずくだけだった。
ある日、彼は別の場所へ行くことになった。
出世だと、皆が言った。
彼女は、荷造りを手伝いながら、
一度だけ、迷った。

――今なら。

私が止まると、
彼の足音も止まった。

でも、やめた。

この人は、
前を向いて進む人だった。
振り返らせる言葉は、持っていなかった。

別れの朝、
彼は言った。

「きみのおかげで、ここまで来られた」

彼女は、いつも通り、
うなずいた。
恋だったかどうかは、
今も分からないまま。

ただ、
言わなかったことを、
後悔していない。



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