【ショート】 何も起きなかった日
―― short story ―—
その朝、屋敷には花が届いていた。
薄い紅色の小さな花で、香りは強くない。
彼女は花瓶を洗い、
玄関脇の棚にそれを飾った。
この家には、
派手な花は似合わないと思ったからだ。
彼が屋敷に出入りするようになったのは、
いつからだっただろう。
荷を運ぶ若者で、
いつも少し遅れてやって来る。
それでも仕事は丁寧だった。
「今日は、風が強いですね」
そんな、
どうでもいい話を、
彼はよくした。
彼女は、
それに答えるのが、
少しだけ楽しみになっていた。
ある日、
彼は門のそばで立ち止まり、
彼女に言った。
「この家は、守られている感じがしますね」
彼女は、
そうでしょうか、と笑った。
守っているつもりはなかった。
ただ、
整えているだけだった。
彼は、
彼女を見るときだけ、
視線が遅れた。
それに気づいたとき、
彼女の胸の奥が、
少しだけ騒いだ。
その夜、
彼は屋敷に来なかった。
次の日も、
その次の日も。
理由は知らない。
聞くこともなかった。
数日後、
主人は何事もなかったように、
朝の書類に目を通していた。
屋敷は、
いつも通り、静かだった。
彼女は、
窓を開け、
光を入れ、
埃を払った。
ふと、
門の外を見る。
薄紅色の小さな花が、
一輪、落ちていた。
今朝、
屋敷に届いたものと、
同じ花だった。
誰が置いたのか、
分からない。
彼女は、
それを拾い、
花瓶に挿した。
花瓶の中で、
二つの花が、
並んだ。
その日、
何も起きなかった。
誰も傷つかず、
何も壊れず、
ただ、
一つの気配だけが、
この家を離れた。
彼女は、
それでよかったのだと、
なぜか思った。
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