【ショート】 二輪の指輪
―― short story ―—
彼女が名を捨てたのは、特別な朝ではなかった。
庭の噴水は止まり、
馬車の音も減り、
屋敷の廊下は、
いつもより長く響いた。
父は何も言わなかった。
母も、
何も言わなかった。
ただ、
二輪の車輪が、
門の外で向きを変えた。
その日、
彼女は貴族の令嬢だった。
次の日、
そうではなかった。
誰も、
それを宣言しなかった。
衣装箱の底に残された指輪は、
小さく、内側だけが磨り減っていた。
誰かに回され続けたものではない。
回す必要のなかった指だった。
彼女は、
それを持って行かなかった。
名を知られている物は、
残していくべきだと思ったからだ。
国を越えるとき、
彼女は振り返らなかった。
振り返れば、
二輪のどちらかが、
止まってしまう気がした。
新しい国で、
彼女は名前を与えられた。
短く、
覚えやすい名前だった。
呼ばれるたび、
それが自分かどうか、
少しだけ迷った。
けれど、
迷う時間は許されていなかった。
床を磨き、
布を洗い、
食器を並べる。
生活は、
均等に回る二輪のようだった。
考えすぎれば、
——転ぶ。
ある晩、
主人の書斎で、
古い紋章の刻まれた封蝋を見た。
見覚えが、
なかったわけではない。
だが、
指が動く前に、
彼女は背を向けた。
触れなかったことが、
選択だったのか、
逃避だったのか、
今も分からない。
彼女は、
この家で、
自分の過去を語らない。
語らなければ、
過去は追ってこない。
そう信じて。
毎朝、
窓を開ける。
風が通り、
埃が落ち、
昨日と同じ一日が、
始まる。
二輪は、
今も回っている。
交わらなかった道と、
選ばなかった名を乗せたまま。
彼女は、
それでよいのだと、
まだ、
——決めてはいない。
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