【ショート】 名を呼ばれなかった人
―― short story ―—
朝の屋敷は、いつも早かった。
廊下に響くのは、靴を磨く布の音と、窓を開ける風の音だけ。
彼女は、名を呼ばれたことがなかった。
人々は皆、視線を向けずに「きみ」と言った。
それで十分だった。
主人の靴を揃え、
散らかった部屋を整え、
夜には重たくなった上着を受け取る。
それが一日のすべてだった。
主人は優しい人ではなかった。
笑うことは少なく、
酔って帰るたびに、違う香りがした。
それでも屋敷が崩れなかったのは、
彼女が毎日、少しずつ支えていたからだ。
「好きなの?」
誰かにそう聞かれた夜、
彼女は少し考えてから首を振った。
好きかどうかは、わからなかった。
ただ、この人が倒れないように、
静かに手を添えていただけだった。
ある晩、客が来た。
主人よりも身分の高い立場の男だった。
彼は彼女を見ると、
まるで置き忘れた宝物を見つけたように笑った。
「君は、ここにいるには惜しい」
その数日後、
彼女は音もなく屋敷を去った。
靴は磨かれず、
部屋には埃が溜まり、
朝はなぜか遅くなった。
それでも主人は、しばらく気づかなかった。
苛立ち、怒鳴り、
やがて何も整わない日々の中で、
初めて、自分が何ひとつできないことを知った。
一方、彼女は別の屋敷にいた。
男は求婚した。
彼女は静かに首を横に振った。
「では条件を」
男は言った。
「君が仕えていた主人を、引き上げよう」
その夜、彼女は眠らなかった。
窓から差し込む月の光を見つめながら、
長い時間を過ごした。
翌朝、
彼女は小さく頷いた。
それは恋ではなかった。
犠牲でもなかった。
ただ、最後まで仕事をする、という選択だった。
数年後。
出世した主人は、
誰もいない静かな部屋で、ふと思う。
あの人は、
自分を愛していたのではない。
壊れないように、
そばで支えていただけなのだ、と。
そして、その役目は、
——もう、戻らない。
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