ひとひら 第十話
余韻
4月2日 AM10:16
頭にまで響いてくる心臓の音を聞きながら、
乱れる呼吸を抑えようと、口元に手を当てる。
……どうしたら。
頭が真っ白になり、立ち尽くす。
そんな私をすっぽりと抱きしめたままの悠が、
背中を優しくさすってくる。
温かな体温に意識が戻ってきて、
少しだけ落ち着きを取り戻し、そっと見上げる。
……目線が合う。
心臓の音がまた別の意味で騒がしくなる。
優しい榛の瞳は変わらない。
「悠?」
階下から、また私の声がする。
ドキッと高鳴る胸に、
私を抱きしめたまま、悠は戸の向こうに顔を向けた。
「おかえり……ちょっと、仕事する」
低くて通る声が響く。
下から、「わかったー」という声と、
ガサガサとビニール袋を漁る音がする。
買い出しでもしてきたのだろうか。
彼は口元に笑みを作った。
「今は、会わない方がいいかもな。」
そう言って、 私の背に手を回したまま、
急に両方の裏腿を持ち上げると、そのまま横抱きにする。
「っ」
驚いていると、首に手を回すよう促される。
慣れないことをされて、言葉を失っていると、
悠は、ベランダの戸を開けて外に出る。
一度、後ろを振り返り、何やら目配せすると、
ノアがシュッとベランダの手すりに飛び乗った。
悠は長い足を手すりにかけた。
……は?
ここは二階だ。
声になる前に、身体が宙に浮く。
「……ひっ」
思わず、悠の首にギュッと抱きつくと、
私を抱く手が包み込むように強くなる。
きつく閉じた目を開くと、地面が近くなっていた。
……無事。
息を吐く間もなく、悠は私を抱えたまま走り出す。
ログハウスを背に、
森へ。
……悠って、こんなに身体能力高かったの?
目をぱちぱちしながら、森を走り抜けていく悠を見る。
ひらっ。
白い花が舞っている。
振り返れば、 もう巨木の手前まで来ていた。
悠は足を緩めると、そっと私を地に降ろす。
すると、巨木の後ろから、うさぎがひょこっと飛び出した。
「あ、うさぎちゃん」
また、会えて、なんだか嬉しい。
うさぎに近づこうと、歩みを進める。
けれど、悠に手を引かれて動けない。
「雫」
「……悠」
上目遣いに目線を動かすと、
先ほどよりも、
険しい顔をしているように見えた。
「今日会ったのは、うさぎ?」
……なんで、そんなことを。
胸がざわつく。
「それよりも、なんでログハウスにいるの?」
私は少し早口に自分の疑問を優先して、聞く。
普段はやらないそぶりに、
悠は少し目を丸くしたように見えた。
「悠は……何を知っているの?」
目頭が熱くなる。
そんな私の様子を見て「あぁ」と悠はつぶやく。
榛色がまた優しく細められると、
安心させるように、私の肩に手を置いた。
もう片方の手が私の頬を撫でる。
「大丈夫。今は怖いことは起きないから安心して。」
意外な言葉に、自分が疑心暗鬼に囚われていたことに気づく。
次々と起こる不可解なことに、焦りや不安に囚われていたのだ。
悠に八つ当たりのような態度をとってしまった。
でも、彼は気にしたそぶりもない。
彼は私以上に、私のことを分かっているのだ。
私の肩から力が抜けると、
悠は安心したように一度、微笑んだ。
そして、私の肩を抱いたまま、一緒に巨木へ近づく。
巨木を見上げると、言った。
「この巨木に触れると、もどれる。」
私はハッとする。
「翌日、また触れれば越える」
目を何回も瞬いて悠を見る。
至って真剣に話す彼に何も言えない。
……真実のような気がして。
「うさぎも無事なようだし、今日はもう戻るといい。」
そう言って、うさぎを見る。
うさぎは地面をくんくんと鼻で嗅いでは、飛び跳ねている。
「…ねぇ。悠、悠はどうして、ログハウスに?
どうして、こんな不思議なことを受け入れられているの。」
さっきは、はぐらかされてしまたけど、どうしても聞きたい。
一体、自分に、そして、悠に何が起きているのか。
私の眼差しに榛色が何かを隠すように細められた。
「……ゆう」
彼の胸元の服を引っ張ると、
肩に乗っていた手が背に回った。
耳元に悠の唇が当たる。
吐息を感じると、彼は言った。
「戻ったら、手紙を見るんだ。」
……手紙のことも知ってるの。
「それから……過去の俺に気をつけて」
……それって。
私は身をよじって悠の目を見たかったが、力に負けて動けない。
「今の俺は、もう今の君には会えない」
気がつくと、目の前に榛の瞳があった。
その瞳はまるで……
一瞬、口を塞がれると、
これまで気配を消していたノアが、悠に飛びかかった。
悠は咄嗟に避けると、私の背を巨木に預けた。巨木の冷たい感触が伝わる。逃げ場がない、というより、ここが戻る場所なのだと、
身体が先に理解した。
ぐらりっ。
世界が揺れる。
白い花がひらり、ひらりと落ちてくる。
「そう何度も、やられるかよ」
ニヤッと笑う悠は、毛を逆立てているノアを挑発しているようだ。
悠は私を見ると、爽やかに笑った。
——どうか、幸せに。
目の前が白一色になる。
目が覚めると、やはり巨木に背を預け座っていた。
膝にはノア。
前回と一緒。
……今、何時なんだろう。
ふと、悠の笑顔を思い出す。
最後、なんと言っていただろうか。
悠のキスは、久しぶりだった。
優しくて、あたたかくて……唇の温もりが、まだ残っている気がする。
「……悠と一緒に暮らしてた……ここで。」
空を見上げる。
すると、
ばしっ。
ノアの尻尾が私の頬を叩く。
……い、痛い。
「なに?……びっくりするじゃない。」
目を丸くしてノアを見ると、
また、尻尾で反対の頬を叩かれる。
……え?
そのままノアは、そそくさと歩いて行ってしまう。
「ま、待って。……ノア~」
なんだか私が悪いことをしたかのような罪悪感に見舞われるのは、
なんでなんだろう?
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