【ショート】 名前を呼ばれない理由
―― short story ――
彼女の後ろ姿に惹かれるようになったのは、いつからだったか。
目が合うと、溢れそうな瞳がさらに大きくなり、すぐに隠されてしまう。
気がつけば、見つめていられるのは後ろ姿だけだった。
もし、俺のことを見てくれたら。
「要くん、帰ろう」
「……あぁ、もうそんな時間ですね。」
眩しいオレンジの光が教室を照らしている。
ノートと電子辞書をしまい、椅子を引いて立ち上がった。
「桜さんは、この後どうされますか?」
茶色がかった瞳を見つめる。
「明日、テストがあるから」
目元が、少しだけ曇る。
胸がざわめく。
「……そうですか」
教室を後にすると、並んで帰り道を歩く。
桜さんの歩幅に合わせて、ゆっくりと。
鞄を持つ手に触れる。
顔を上げると、ほんのりと色づく。
鞄を右に持ち替えて、俺の手を取る。
あたたかな手は、少し汗ばんでいて俺の手も濡れる。
離れそうになった手を強く絡めると、
観念したように握り返された。
「要、縁談だ。」
……いまどき。
写真を前に出される。
「菅原家のご令嬢だ。明後日、食事会を開く」
父は向かいのソファに座ったまま、難しい顔をしている。
「あの女とは、早々に別れろ。手切金はいくらかかっても構わない」
沈黙が流れる。
父は息を吐くと、立ち上がる。
「異論はないと判断するぞ」
バタン、という音だけが耳に残る。
異論はなかった。
桜さんは――金を受け取るだろう。
次の日の朝、
桜さんに告げた。
頷いた。
お金は俺が決めてというから、桜さんがこれから困らないだけ振り込んだ。
桜さんは泣かなかった。
笑わなかったし、困ってもいなかった。
無表情なまま言った。
「ありがとう」
最後なのに、俺に触れてすらくれなかった。
それから、名前を呼ばれなくなった。
教室でも、廊下でも、道端で会っても。
目が合うことは、もうない。
けれど、その背中は、
毎日のように目に入る。
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