<5分音声>【MAKE IT NEXT】新・天下りシステムを再構造化してはならない
ショーン・Kさんが、ラジオパーソナリティとして「メディア復帰」されたようですね。いやぁしかし――いったいどうすれば、あのような「美声」になれるのでしょうか。たいへん失礼かもしれませんが、「私でコレなのに惚れない女性などいないのではないか?」「ずっと二重顎で喉を潰して発声していれば私もこの声になれるか?」そんなことばかりを考えてしまいます。
しかし、私が自己満足のために「Make it Sean's Voice」のことばかり考えていても、読者の皆さんも聴者の皆さんも一文の得にすらなりません(ったりめーだろ)。「Make it Next」のためには、まず「Thiking it Now」の必要があります。現在の日本の「M&Aが抱える闇」の部分について考えさせられる瞬間が実際にありましたので、はじめにその話を(ショーンさんの声で)共有させていただきます。ショーンさんのラジオ&ポッドキャストについて知りたい方は、どうそ以下の音声はスキップしてへ進んでください。
MAKE IT NEXT
まだ生まれたてのメディアのようで、これは、J-WAVEさんとラジオNIKKEIさんがタッグを組み、経済&エンターテイメントのコラボレーションチャンネルを運営している「TOKYO INSIGHT」の一環のようです。
第一回目が「現代の魔術師・落合陽一氏」、そして本日時点の最新回である第二回目が「我が神・山口周お師匠さん」です。
いやぁ面白い。「お前(私のことね?)が言うなっ!」なのですが、ショーンさんの聴き手スキルは半端じゃないですね。お見事で御座います(※稀にではありますが「聴き手変わってください。ヘタな若手さんの方が全然マシ」と感じる人がいることをここに告白しておきます)。お二人の会話を聴いて「大人の会話って、こうありたいな」と、つくづく思う次第です。
「第三回目が11/28(金)ですってっ!?まだ聴けないじゃないっ!キイィィッ!!!(錯乱)」という私のような狂暴(事実無根)で、アタマノオカシイ(真実)人は、以下より視聴できます。どうか落ち着いてください。
さて、ここからは「番組を視聴していて番組に対して感じたこと」ではなく、「番組を視聴しながら、社会や世界をビジネスの視点で捉えつつ私なりに考えたこと」を、少し気楽な「散文」として書いていきます。なお、「番組ではこう言っていましたよ」といったネタバレ的な触れ方はしませんので、その点はあらかじめ悪しからず願います(※ネタバレ目当ての方には申し訳ありません)。当然のことですが、実際にご自身で聴いていただくほうが結局は一番面白く、そして楽しく学べると思いますからね。
「ジャズ」について
まずはじめに、私はショーンさんとお師匠さんのトークを、「稀にしか出会えない素晴らしいジャズの即興演奏」として聴いていました、というか、います。もちろん台本がある前提でのトークではありますが、私の感覚はジャズの名演奏に没頭しているモードで、すでに各回を五回ずつは聴き返してしまいました。この後、六回目のおかわりは決定しています。
いちおうお断りしておきますが、自称とは言え私は弟子です。ですからお師匠さんの話は、すべて知っています。――しかしながら、ユニットが変わればインタープレイも変わる。頭では理解しているつもりでも、やはりどこまでいっても不思議だし、見事としか言えませんし、教わるばかりです。
伝説的なトランペット奏者ルイ・アームストロングは、「ジャズって何かと聞かなきゃいけないなら、絶対にわからないよ」という有名な言葉を残しています。「ジャズとは何か」を言葉で定義しようとすれば、本質は掴み取れないということなのでしょう。ジャズは、聴き手が感じ取るものであり、即興性や解釈の余地を常に孕んだ、流動的で生成的な芸術だと思います。
「ジャズとはこういうものだ」と決めつけた途端、それは型どおりの音楽になり、ジャズの生命線である自由さは失われてしまいます。ジャズは、奏者同士が楽譜の枠を外し、互いの音を聴き合いながら即興し、「生成し続ける」ことで生まれるのだと、お二人のトークを聴いて再認識しました。
たとえてみましょう。ショーンさんが「楽譜=台本」に沿って一つの「問い=フレーズ」を奏でたとします。するとお師匠さんは、そのフレーズを受け取ってただ譜面通りなぞるのではなく、「このフレーズは、こんなコードとしても聴けるのでは?」と、背景の「和音=前提」を組み替えて返します。
するとショーンさんには、同じフレーズに潜んでいた別の可能性が聴こえ始め、自然と新しい問い=新しいフレーズを演じ返します。するとさらにお師匠さんは、その新しいフレーズを受けて、クラシックの和声や別ジャンルのリズムまで織り交ぜ、またまったく別の音色を提示して返すのです。
この往復が続くと、最初のフレーズはどんどん変容し、誰も想定していなかった「曲=問題」が立ち上がってくることになります。そしてその曲は、二人の間だけではなく、聴いている私たち全員が「たしかにこれはそう聴こえる!」と納得できる、一つの世界観へと成長していきます。
つまり、彼らが行っているトークは、「フレーズ=事象」を拾いながら、「コード=前提」を組み替え、その結果として「新しい問題」が生成されていくプロセスそのものを演奏していると言えるのです。
「問い」や「問題」について
ショーンさん、そしてお師匠さんは、間違いなく卓越したコンサルタントだと思います。番組で語られる内容は、現代から未来にかけてのビジネスに潜むさまざまな「問い」や「問題」に対する鋭い洞察に満ちているからです。
お二人のトークに深い説得力があるのは、現状の前提を丁寧に観察し、そこに生まれている「摩擦」や「隙間」を捉え、それらに意味を与えるようなかたちで「問題を生成している」からです。ビジネスの世界に「隠れている問題」を発見しているからではありません。
鋭い洞察というのは、ただ単に事象を指して「ここに問題があります」と説明する能力ではありません。「何を問題と見なすべきか?」という、枠組みそのものから組み替えてしまうような、そんな力のことだと言えます。
そもそも私たちは日頃、「問題」が客観的な実体として世界に存在しているかのように扱ってしまいがちです。しかし実際には、自然の側に問題が転がっているわけではありません。問題の正体は、私たちが抱く「期待」と、目の前で起きている「現実」とのあいだに生まれる「隙間」であり、その隙間がもたらす認知上の「摩擦」です。摩擦が生まれると、私たちはそこに違和感や不都合を覚え、それに「問題」という名前を付けます。
たとえば、「売上が落ちている」「離職率が高い」「会議がまとまらない」「若手が育たない」といった状況を、私たちは自然と「問題」と呼んでしまいます。しかし、これらはあくまで「事象」にすぎません。事象そのものは中立であり、望ましさや善悪といった価値は本来含んでいません。
にもかかわらず、それが問題らしく見えてしまうのは、私たちの内側に「本来こうあるべきだ」という期待が先に存在しているからです。「売上は伸び続けるべきだ」「離職率は低くあるべきだ」「会議は合意形成されるべきだ」「若手は一定速度で成長するべきだ」といった期待があることで、現実とのあいだに「ズレ」が生じます。このズレは、隙間が大きくなるほど強い摩擦となり、摩擦が強いほど、私たちは「これは問題だ」と感じるのです。
つまり、もともと「問題」があるのではなく、私たちが抱く「期待」と「現実」のあいだに生まれた「隙間」が、「摩擦」として知覚されている状態があるだけなのです。この理解を欠いたまま対応しようとすると、目の前の現象だけに反応してしまい、「ズレ」を生み出している「前提」や「枠組み」に手が付けられなくなります。その結果、対処は表面的・場当たり的になり、同じ種類の「摩擦」が形を変えて繰り返し立ち上がってしまいます。
こうした現状が認識できると、逆に「問題は生成される」という視点に立てるようになり、私たちはより深く思考できるようになります。「いま生まれている摩擦はどの隙間から来ているのか」「ズレを生み出している期待は妥当なのか」「あるいは、その摩擦こそが新しい可能性の兆しかもしれない」といった問いを、前提レベルで扱えるようになるのです。
問いや問題は発見されるものではありません。摩擦を手がかりに隙間を見つけ出し、そして私たちが生成していくものです。そして、その生成の精度が高まるほど、思考はより本質に近づいていくのだと思います。
「美意識」について
「ビジネスにおける美意識とは何か?」と、長いあいだ考えすぎていた時期があります。しかし、「もっと単純に考えてみてもよいのではないか?」と、このように思いはじめるようになりました。
たとえば、「多くのビジネスパーソンが熾烈な競争に疲弊し、まともなコミュニケーションすら失われつつある組織」を想像してみる。それを前にして、「なんと美しいことか!」「エレガント!」「ビューティフル!」「ハレルヤ!」などと答える人がいるでしょうか?まず、いないでしょう。
こう考えてみると、美意識というのは、なにか崇高で難解な理念というよりも、「これは美しくない」と感じ取れる最低限の感受性を失わないこと――そのごく基本的なラインから始まるのではないかと、いまは思うのです。
そもそも「ビジネスにおける美意識」と「美意識のある人」は、きちんと分けて考えた方がよさそうです。ビジネスを推進するのは、チームや部署、企業であり、これらはすべて「組織」の一形態です。
では、「美しい組織」というのは、いったいどういう組織なのでしょうか。それは、メンバー同士に信頼があり、何を大事にするかが共有され、人々の思考や心や体力が、無残にすり減らないように設計された環境を指すのだと思われます。一方で「美意識のある人」とは、「これは醜い」「これはやってはいけない」と、直観的に判別できる人のことです。
そう、この考え方は「否定神学」的な態度に近いのかもしれません。「神とは何か」を定義できないとしても、「神ではないもの」を丁寧に取り除いていけば、その輪郭がかえって浮かび上がってくる——そんな方法にならうように、ビジネスにおける美意識もまた、「これは美しくない」という感受性を手放さないことで、その本質に近づいていくのだと思います。
そう考えると、前述のような「熾烈な競争の中でコミュニケーションが崩壊した組織」は、状態としてはほぼ確実に「醜い」側に分類されます。そして、そのような組織の内部に身を置きながらも、「この会議のやり方は何かおかしい」「この数字の追い方には、美しさがない」と感じられる人は、まだ美意識を失っていないと言えるのかもしれません。
逆に、個人や組織がその「醜さ」に完全に慣れてしまい、「まあ、ビジネスなんてこんなものだろう」と何も感じなくなったとき、私たちの美意識が最も危うくなるのだと思います。
美意識というものは、本来だれもが持っている「資産」だったのではないか――最近はそんなふうに考えるようになりました。
それは、特別な家柄や教育に左右されるようなものではなく、もっと根源的な、「これは美しくない」と感じる直観のことです。
しかし、この資産は、時間の経過とともに自然に増えていくわけではありません。初めははっきりと持っていたにもかかわらず、受験競争や偏差値による序列、就職活動、成果主義といったシステムのなかで、少しずつ目減りしていく性質的なのものなのかもしれません。
教育が過度に「正解」を求め、メディアが「成功」だけに眩いスポットライトを当て続ける環境で育った私たちからは、ゆっくりと、しかし確実に、「美意識という資産」は摩耗していく。その摩耗に気づけないまま大人になる人が多いことも、理解できなくはありません。
それでも、この資産は完全に失われるわけではありません。美意識を持つというのは、派手な理想を掲げることではなく、まず何よりも、「その醜さを醜いと感じられる感性を守っている」ことにほかならないと思うのです。環境がどれほど荒んでいようとも、「これは違う」という微かな感覚が残っているなら、その人の美意識はまだ息をし続けているはずです。
美意識が資産と呼べる理由は、ひとたび失われれば取り戻すのが難しいからです。反対に、ほんのわずかでも守り続けることができれば、周囲の状況に押しつぶされず、再び美しさの方向へ舵を切る力にもなる。美意識とは、そのような静的な資産なのかもしれません。
「傾聴」について
「なぜ私は、お師匠さんが考えていることを、自分でも自分なりに考えることが、こんなにも愉しいのだろうか——?」この問いを、私は何度も反芻し、自分に向け直し続けています。
この問いに対して、「初めて見つけた尊敬できる大人だから」とか、「自称とはいえ弟子なのだから当然だろう」といった類いの答えを当てはめてしまうのは、最も避けたい態度です。そうした説明には思考の跡がまったくありませんし、何より、私自身が最も軽蔑している「思考停止」の振る舞いそれそのものだからです。
では、この「愉しさ」とは何なのか。
どうやら私には、お師匠さんの話を「聴く」とき、単に「話を聞いている」のではなく、思考そのものが刺激され、自分の内部で再構成され、まるで「自分の問い」として立ち上がるような感覚がある。そういう「聴き方」をしているのだと思います。
これに対し、「お師匠さん以外の人の話を聴く」とき、その私を見ている他者から外側的に見れば、態度はほとんど同じはずです。相手の話を遮らない、うなずく、集中し、傾聴する。しかし、内側で起きていることは明らかに違う。何かが決定的に異なっているのです。
ビジネス・シーンでは、「アクティブ・リスニングが大事」「人の話はよく聴きましょう」「傾聴力を高めましょう」といった言葉が、ほとんど常識のように語られています。しかし正直に申し上げれば、「本当に傾聴できている人」も、「傾聴しようとしている人」さえも、実はほとんどいません。多くの場合、相手の言葉を「音として聞いている」に過ぎないのが実情です。
「アクティブリスニング=積極的傾聴方」とは、ただ相手の話を肯定的に受けとめるという安直なテクニックではなく、「相手の世界を、相手の枠組みで理解しようとする知的な姿勢」です。より平易な言い方で表せあ「深い、ほんものの傾聴」というものになりますから、本記事では「傾聴=アクティブ・リスニング」という取り扱い方をさせていただきたいと思います[1]。
アクティブ・リスニングというのは、アメリカの心理学者カール・ロジャーズと、同僚のリチャード・ファーソンによって1957年に体系化された概念です。アクティブ・リスニングで重要なポイントは、次の三つです。
■「受容=アセプタンス」:相手の話に全身で注意を向け、「そのまま受け取る」ことです。このとき、私たちは相手に対して、否定、批判、そして評価を、いっさい加えてはいけません。
■「共感=エンパシー」:相手が語る内容について、「何が起きたのかという事実」と「それに対して相手がどう感じたのかという感情」この両方を、評価せずに受け取る姿勢。これが「傾聴」における正しい「共感」です。
■「一致=コングルエンス or リフレクション」:相手の話の意図や意味を自分の理解としていったんまとめ、「こういう理解で合っていますか?」「間違いはありませんか?」 と相手に確認することです。「相手との理解の齟齬」を修正しながら前に進むための、コミュニケーション◦プロセスの第一歩目に当たります。

能の大成者である世阿弥の言葉に「初心忘るべからず」というものがありますが、物事を始めたときの謙虚な気持ちや熱意を忘れないこと、そして「初心者の頃の未熟さや苦労を忘れてはいけない」というのは大事ですね。自己を戒め、慢心しないためにも、世阿弥は「是非の初心」「時々の初心」「老後の初心」の三つを挙げて、生涯にわたる精進を説いています。
ということで、私が若手に贈った書籍を逆に貸してもらって、「カウンセラーとしての初心」に立ち返ってみたいと思います。
アクティブ・リスニングには「二つのモード」がある
ここから書くことは、上に添付した写真の書籍『カール・ロジャーズ カウンセリングの原点』で説明されている内容そのものではありませんので、あらかじめご承知おきください。
というのも、現在の私は「キャリア・コンサルタント」として個人のネガティブな状態を改善するお手伝いと、「組織改革コンサルタント」として組織のネガティブな状態を改善するお手伝いを日常的に行っていますが、その両方において、どうしても避けて通れない「聴き方の在り方」があるからです。
それが、私の言うアクティブ・リスニングにおける「二つのモード」です。
一つは、相手の語りをそのまま自分の「内側」に引き受け、あたかも自分が当事者であるかのように思考を進めるモード、言うなれば「インターナル・アクティブ・リスニング」です。相手の問いや葛藤、迷いや不安を、いったん「自分の問題」として引き受け、内側から考えていくための聴き方です。もう一つが、これと対をなす「エクスターナル・アクティブ・リスニング」です。こちらは、語られる言葉や振る舞い、違和感などを「外界の事象」として受け取り、その背後にある因果や構造を読み解いていく聴き方です。
インターナルが「当事者として入る」聴き方だとすれば、エクスターナルは「観察者として眺める」聴き方です。前者は共感と没入を、後者は距離と俯瞰を本質とします。しかしこれは、どちらが正しいという話ではありません。個人を扱うときも、組織を扱うときも、必要とされる聴き方の本質は同じということです。
私は今回、この番組を聴きながら、この二つのモードをあらためて確認させられたのだと思っています。これらは、すでに長年の実務のなかで、無意識のうちに往復しながら用いてきた聴き方だからです。
つまり、お師匠さんの「問い」については、私はインターナル・アクティブ・リスニングによって「自分事」として考えており、冒頭で述べた「番組を視聴しながら、社会や世界をビジネスの視点で捉えつつ私なりに考えたこと」は、エクスターナル・アクティブ・リスニングがすでに自分の中に深く染み込んでいるからこその視聴体験なのだと思います。そしてそれが、私自身のリアル・ビジネスとの往復運動によって日々、鍛えられ続けているのかもしれません。
不可視化する「新・天下りシステム」たち
あらかじめ申し添えておきますが、番組内で「天下り」という言葉が直接使われたわけではありません。番組では「第四次産業革命」に関する話題が取り上げられていました。その内容を聴きながら、私は移動の途中でふと足を止めるようにして、「第四次産業革命を本当に阻害する存在とは何なのだろうか」と考え始めました。そしてその思考が、冒頭の音声投稿で述べた「新・天下り」という問題意識と結びついた、という経緯です。
「天下り」という言葉は、本来、神話に登場する「天孫降臨」、すなわち神が天界から地上へ降り立つ情景に語源を持つといわれています。そこから転じて、現代日本では「公務員が退職後に、かつて深い関係を持っていた民間企業や公的団体へ再就職する慣行」を指す言葉として定着しました。
2007年から2010年前後にかけて実施された再就職あっせん規制や、再就職等監視委員会の設置によって、官庁が企業に対して露骨に再就職先を紹介したり、特定企業に強引に人材を送り込んだりする行為は、制度上、確かに困難になりました。近年の報道を眺める限り、天下り問題は大幅に沈静化し、かつてのような派手なスキャンダルはほとんど見られなくなっています。
しかし、表向きの天下りが減少したという事実は、天下りそのものが完全に姿を消したことを意味するわけではありません。制度改革と監視体制の強化によって「見えやすかった天下り」は減少しましたが、その一方で「見えにくい天下り」が、より巧妙な形で残り続けていると考えるほうが、現実に即しているように思われます。
外形上は合法であり、制度上は問題がないように見えても、内実をたどっていくと、従来の天下りと本質的に変わらない構造が温存されていることが読み取れるケースがあります。むしろ、可視化が困難になった分、発見されにくく、議論の対象にすら上りにくくなったと言ってよいのかもしれません。
この「見えにくい天下り」を理解するためには、まず天下りの本質を押さえておく必要があります。学術的・行政学的な整理に従えば、天下りとは、①組織にとって必要以上のポストが作られていること、②当該人物がその職務に必要な能力や実績ではなく、出身元の組織を理由に選ばれていること、③そのポストの存在が企業の経済合理性やガバナンスを損ねていること――この三点を中心に捉えるべきものだと私は考えています。
この基準に照らすならば、「仕事が高度かどうか」という点は本質的な要素ではありません。役職名がどれほど立派であっても、仕事内容がどれほど簡易であっても、「必要性を欠き、能力と無関係な人事が行われ、組織の合理性を損なっているのであれば、それは天下りである」――と、このように考えるべきではないでしょうか?
とりわけ、監査役や検査担当といった、一見すると企業統治に不可欠な役割を担っているように見えるポストが、実際には「誰にでもできる作業」しか行っていない場合、その本質は「天下り的ポスト」とほとんど変わらないものになります。
近年、盛んに唱えられる「ガバナンス改革・強化」という名目――大義名分が、あらたな天下り先としての「格好の隠れ蓑」となる可能性が高いと、私は考えています。このガバナンスという強力な「正当化装置」が、役職の実態を外部から判別することを一層困難にしているのです。
たとえば、「報告書を読むだけ」「月に一度、会議に参加するだけ」「既存の部署がすでに実施しているチェックを追認するだけ」といった形骸化した役割は、表向きの権威とは裏腹に、企業内部では「受け皿」として機能していることが少なくありません。
ここで問題となるのは、こうした見えにくい天下り的ポストが、いかにして制度の網の目をすり抜け、温存され続けているのかという点です。その答えの一つが、「M&A」などの企業再編のプロセスの中に存在しています。
本来、経営戦略として行われる買収や子会社化は、組織構造を複雑化させ、新たな役職やガバナンス上の名目を生みやすい性質を持っています。そこに、必要以上のポストが紛れ込み、「見えにくい天下り」が潜り込む余地が生じるのです。気を付けて監視・警戒していきたいものです。
日本における「天下り」とM&Aの関係
日本における「天下り」とM&Aの関係については、「M&Aによって新たに天下りポストを用意する」というイメージが語られることがありますが、公開情報の範囲で確認できる実例を見るかぎり、M&Aそのものが天下りポスト創設の“主目的”として公式に認定されたケースは、ほぼ存在していません。
ただし、すでに天下り先として機能していた企業を、M&Aや非公開化などの手法で囲い込み、結果として天下り構造を維持・強化しようとしたのではないかと市場やメディアから疑念を持たれた事例は、現実に存在します。
その代表格が、2017年に起きた富士通とソレキアのTOBをめぐる騒動です。ソレキアは長年にわたって富士通との取引関係が極めて深く、しかも資本関係はないにもかかわらず、富士通出身の役員が複数在籍していたことから、市場では「実質的な天下り先ではないか」と以前から指摘されていました。こうした中で、アクティビスト投資家による敵対的TOBが仕掛けられ、それに対抗する形で富士通が友好的TOBに踏み切りました。
しかし、ソレキアの規模や収益力と比べて、富士通が提示した買収条件は経済合理性が乏しいのではないかという批判が出ました。その際に、「経済性よりも、これまで維持してきた役員ポストや人事支配力、すなわち「天下り先」を失うことへの警戒が動機ではないか」という見方が一部メディアや市場関係者の間で広まったのです。最終的には富士通側のTOBは成立せず、別の買収者の支配下に入りましたが、この件は「M&Aが天下り構造の維持と結びついて批判された典型的な事例」として今でも語られています[2]。
より最近の事例としては、「JAL=日本航空」とエージーピーをめぐる関係が挙げられます。エージーピーは空港向けの地上電源供給などを手がける企業で、長年にわたり日本航空の持分法適用会社でした。そしてこの会社では、歴代社長などに日本航空出身者が就任する例が続き、「実質的にJALの天下りポストではないか」という指摘が繰り返されてきました。
その後、日本航空など主要株主によってエージーピーを非公開化し、完全子会社化する構想が打ち出された際、これについても「人事支配力、ひいては天下りポストへの影響力を取り戻す、あるいは維持するための動きではないか」という評価が一部でなされました。ここでも、M&Aや非公開化が、純粋な事業再編だけでなく、人事や天下り構造と指摘されました[3]。
さらに個別企業名よりも制度論として重要なのが、親子上場や子会社化と天下りの関係です。親会社が子会社を上場させたり、逆に再統合したりする過程で、子会社側に社長や役員のポストが数多く発生します。これが結果として、親会社の元役員や幹部の「受け皿」になっているのではないかという批判は、学術研究や市場解説でも繰り返し指摘されてきました。
この場合も、「天下りのためにM&Aや上場を実施した」と断定されているわけではありませんが、組織再編がポスト増設を正当化し、天下りを構造的に可能にしてしまうという問題点は、かなり一貫して論じられています[4]。
実務家の証言レベルでは、より率直な説明も存在します。人事コンサルタントや企業幹部の発言の中には、「本体のポストが足りなくなったため、M&Aで傘下企業を増やし、そこへ役員を送り出すことが現実に行われている」という趣旨のものもあります。これは法的に「天下り目的M&A」と認定された話ではないものの、現場感覚としては「M&Aが人事の逃げ道として使われることがある」点を裏づける証言といえます[5]。
このように、富士通とソレキア、日本航空とエージーピーのように、すでに天下り先と見なされていた企業との関係を、M&Aや非公開化によって維持・強化しようとしたのではないかと市場から疑念を持たれた事例は、現実に存在しているというのが、最も正確な整理になると思います。
つまりM&Aは、天下り結果的に天下り構造を温存・拡張してしまう装置として機能してしまう場合がある、というのが実態に近いといえるでしょう。
[2]
[3]
[4]
[5]
いいなと思ったら応援しよう!
もしよろしければ、サポートをお願いいたします^^いただいたサポートは作家の活動費にさせていただき、よりいっそう皆さんが「なりたい自分を見つける」「なりたい自分になる」お手伝いをさせせていただきます♡