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ミステリー小説『頂き女子モモちゃん 』-虚構を喰らう者たち-

あらすじ

心を喰らうのは、金か、嘘か、それとも――物語か。

植物状態の弟のため、中年男性たちから金を騙し取る「頂き女子」桃園モモ。彼女の「おぢ」の一人であるIT社長が、密室で殺害された。捜査にあたる刑事・明智小春は、金の流れの先に、モモの聖性と欺瞞が入り混じる歪な実像を見る。

やがて事件の背後に、アートを騙り現実を歪める冷酷な「演出家」・蓮見玲の存在が浮かび上がる。虚構は現実を喰らい、搾取は連鎖する。これは単なる殺人事件ではない。人間の孤独と業、そして現代社会の深淵を鋭く描き出す、社会派ミステリー。

彼女が演じきった嘘の対価とは何か。その答えに、あなたの心は必ず揺さぶられる。

登場人物紹介

  • 桃園 モモ(ももぞの もも) 本作の主人公。「頂き女子ももちゃん」として、計算され尽くした演技で中年男性たちから大金を騙し取る。その目的は植物状態の弟の入院費だが、心の奥には自身でも埋められない巨大な空洞を抱えている。

  • 明智 小春(あけち こはる) 警視庁捜査一課の若手刑事。怜悧な頭脳と冷静な観察眼で、感情ではなく事実とデータから真実を追う。過去に友人を救えなかったトラウマを抱え、法と現実の狭間で葛藤する。

  • 蓮見 玲(はすみ れい) モモに「頂き」の手法を教えた指南役であり、物語の鍵を握る男。自己啓発サロンを主宰する一方、その裏で歪んだ芸術思想を持つ。妹の死をきっかけに、現実世界を自らの「作品」として演出しようと目論む。

  • 黒川 剛(くろかわ ごう) 物語の冒頭で殺害されるIT企業の社長。モモの「おぢ」の一人であり、羽振りの良い成功者だが、裏では大規模な詐欺グループを率いていた。

  • 蓮見 詩織(はすみ しおり) 蓮見玲の妹。故人。誰にも理解されないまま亡くなった無名のアーティスト。彼女の死と、その死が世間に「消費」されたことへの絶望が、蓮見玲を凶行に駆り立てた。

  • 高木(たかぎ) モモの「おぢ」の一人。ごく平凡な中年男性。モモに搾取される被害者でありながら、物語の最後に、彼女の犯した罪の意味を問い直し、その後の人生に大きな影響を与える一通の手紙を送る。


序章:完璧な儀式

人は事実ではなく物語に金を払う。

我々が売るのは商品ではない。“救済”という名の体験(エクスペリエンス)である。ターゲットの深層心理に巣食う欠落感を正確に見抜き、その空白を埋めるに足る虚構を提供すること。それこそが我々の務めだ。

――桃園モモ著『聖女入門・深淵編』序文より

【ピコン】

スマートフォンの通知音は、子気味いいほど軽く鳴った。 桃園モモ――SNSでは「ももちゃん」を名乗る彼女は、指先に馴染んだ画面をタップする。表示されたメッセージアプリの相手は「高木さん」。丸っこい柴犬のアイコンと、句読点の多い文章が特徴の、五十代半ばの既婚男性だ。分類(カテゴリ)は【孤独な父性型】。攻略難易度は、Cマイナス。

『ももちゃん、大丈夫かい。お父さんの手術、きっと成功するよ。僕にできることがあったら、何でも言ってくれ』

モモは、ベッドの上でしなやかに身体を反らし、キーボードを打ち込む。一文字一文字、感情の機微を織り込むように。

『高木さん、ありがとう…っ。怖くて、誰にも言えなくて、私…』

最後の「私」の後に、あえて句点を打たずに送信するのがコツだ。未完の文章は、相手の想像力を掻き立て、行間に勝手な感情を読み込ませる効果がある。受信者の脳内で、物語は勝手に膨らんでいく。

『つらいよな。わかるよ。僕も、娘が小さい頃、病気で入院したことがあってね…』

来た。予期していた通りの自分語り。モモはディスプレイに映る自分の顔をチェックする。泣き腫らしたように見せるため、先ほど目元に塗り込んだワセリンが、いい具合に光を反射していた。彼女は計算通りに、ビデオ通話のボタンを押した。

数分後。むせび泣く娘の姿を演じきったモモは、静かに通話を切った。その三十秒後、ネットバンクのアプリが新たな入金を知らせる。金額は、五十万円。目標額にぴたりと一致していた。 画面に表示された数字の羅列を、モモは無感情に見つめる。喜びも、達成感もない。それは、自動販売機で飲み物を買う程度の、ただの作業結果に過ぎなかった。

部屋着を脱ぎ捨て、地味なワンピースに着替えると、彼女は慣れた足取りでマンションを出た。向かう先は、都心にある大学病院の特別個室。

ガラスの向こう、純白のシーツに沈む弟・陸の身体は、機械的な呼吸音を立てる生命維持装置に繋がれている。五年前、あの詐欺事件がなければ、彼は今頃、大学のグラウンドを駆けていたはずだった。

モモは陸の痩せた手を握る。その冷たさは、彼女の“物語”のリアリティを補強する、何よりの小道具だった。弟の存在が、彼女の行為のすべてを正当化してくれる。彼女は「悲劇の姉」という役柄を、ここで再確認し、己の罪悪感を浄化するのだ。

完璧な儀式。 明日もまた、新たな「おぢ」という名の信者に、救済という名の虚構を売らなければならない。

第1章:金の流れは語る

警視庁捜査一課のフロアは、澱んだ空気と低い怒号、そして鳴り止まない電話の音で満たされていた。明智小春警部補は、その喧騒から隔絶されたように、自らのデスクで分厚い資料のページを無心でめくっていた。

「被害者は黒川剛、45歳。IT企業社長。港区のタワーマンション最上階、内側から施錠された密室で、胸部を刃物で一突き。死亡推定時刻は昨夜22時から24時の間」

部下の報告を、彼女は視線を上げずに聞く。

「現場からは、被害者のものと思われるスマートフォンが一台。現在、解析急いでます」

「金の流れは?」

小春の短い問いに、部下は一瞬言葉を詰まらせた。 「…それが、相当派手です。複数の個人口座から、億単位の資金が流れている一方で、特定のキャバクラや会員制ラウンジにも…」

「フロチャートにして。金の入りと出、金の流れに関わる全人格の名前、金の動いた日時。一円単位で、すべて」

彼女の命令は、常に簡潔で、揺らぎがない。感情や憶測を排除し、ファクトとデータのみを信じる。それが明智小春の捜査スタイルだった。

数時間後、A3用紙に出力された金の流れ(フロチャート)が、彼女のデスクに置かれた。無数の線と名前が複雑に絡み合う、現代の欲望を可視化した地図。小春の指は、その地図のある一点を正確に捉えた。

被害者・黒川の口座から、この半年間で合計二千万円以上が振り込まれている個人口座。 名義は「モモ」。

「この“モモ”を洗って」

指示は、それだけだった。 更に一時間後、詳細な金の流れを記した第二のフロチャートが提出される。小春は、そこに浮かび上がった奇妙な金の動きに、眉をひそめた。

口座名義「モモ」――桃園モモ、22歳、無職。 彼女の口座に入った金は、二つの流れに分岐していた。一つは、埼玉県の総合病院へ、毎月決まった額が送金されている。おそらく、これが彼女の言う「父親の手術費用」、あるいはそれに類する「物語」の経費だろう。

問題は、もう一つの流れだった。 病院への送金額を遥かに上回る不定期かつ巨額の金が、複数の個人口座へと送金されている。金の受取人は、界隈で名を知られたライブ配信者やオンラインゲームのランカーたち。実態の掴めない、サイバー空間の住人たちだ。

弟の治療費。そして、顔も知らない相手への、見返りのない大金。

小春は、二つの金の流れを繋ぐ「桃園モモ」という存在に、怜悧な目を向けた。 聖女か、それとも――。

「すぐに場所を特定。任意で話を聞く」

小春は静かに立ち上がった。彼女の頭の中では、数年前に世間を騒がせた、ある事件の公判記録が再生されていた。

『寂しかった。お金が欲しかった』

そう語った、あの少女の顔。 目の前の事件は、あの事件の模倣(コピー)なのか、それとも全く質の異なる、新たな深淵の始まりなのか。確かめる必要があった。

モモが住んでいたのは、都心から少し離れた、変哲のないオートロック付きのマンションだった。呼び鈴を鳴らすと、扉は意外なほどあっさりと開いた。 「……警察の方、ですか」 姿を現した桃園モモは、ノーメイクに安物のスウェット姿で、昨夜ビデオ通話で見た「悲劇のヒロイン」とは似ても似つかない、どこにでもいる小柄な娘だった。小春は警察手帳を提示しながら、彼女の瞳の奥を一瞥する。そこには、一瞬だけよぎった怯えと、それを瞬時に塗りつぶす強い警戒心があった。

部屋の中は、驚くほど殺風景だった。最低限の家具と、段ボール箱が数個隅に積まれているだけ。まるで、いつ夜逃げしてもいいと言わんばかりの、根無し草の住処。しかし、小春がクローゼットの扉を何気なく開けるよう促すと、その異様さは露わになった。中には、タグが付いたままのハイブランドのバッグや洋服が、無造作に山と積まれていたのだ。消費されることなく、ただ所有されるためだけに集められたモノたち。それは、満たされることのない渇望の墓標のように見えた。

警視庁本庁舎、無機質な壁に囲まれた取調室で、モモは完璧な被害者を演じていた。 「黒川さんは……時々、相談に乗ってくれる、優しい人でした。弟のことも、すごく心配してくれて……」 その潤んだ瞳、震える声、固く握りしめられた両手。どれもが『聖女入門・深淵編』に記された通りの模範解答だった。並の捜査員なら、これで完全に彼女の物語に取り込まれていただろう。

だが、明智小春は違った。 彼女は感情を一切挟まず、ただ淡々と、デスクに広げたフロチャートを指し示す。 「桃園さん。あなた名義の口座から、複数の個人に対して、合計で三千万円を超える送金が確認されています。主に、ライブ配信サービスの配信者たちのようですが」

モモの肩が、微かに強張る。 「それは……お世話になった方へのお礼、というか……」 「お礼、ですか。一晩で五百万という時もあるようですが」 小春は追及の手を緩めない。弟の入院費という「聖域」の外側にある、説明のつかない金の流れ。そここそが、彼女の仮面を剥がすための唯一の突破口だった。 「弟さんの治療には、直接関係のないお金ですね」

核心を突く、静かな一言。 モモは、俯いた。長い沈黙。やがて、ぽつり、ぽつりと語り始める。 「……頑張った自分への、ご褒美、みたいなものです。それに、彼らも、私のおかげで生活が助かってる。私が誰かを応援して、何が悪いんですか」 開き直り。これもまた、マニュアルに記された防御戦術の一つだ。だが、小春はその言葉尻を捉えた。

「これは、弟さんの治療にどう関係するんですか?」

小春は、同じ問いを、より低い声で繰り返した。それは、彼女の感情ではなく、揺るぎない事実からの問いかけだった。弟のため、という大義名分。その一点のみに絞った、シンプルで、それ故に残酷な質問。

桃園モモの表情から、すっと色が消えた。計算され尽くした悲劇の表情が、能面のように固まる。潤んでいたはずの瞳は、乾いたガラス玉のように冷たい光を宿していた。 彼女の物語に、最初の亀裂が入った瞬間だった。

第2章:りりちゃんという亡霊

捜査本部に戻った小春は、自席で冷めたコーヒーを口にしながら、数年前の捜査資料をモニターに映し出していた。 『令和5年・特殊詐欺事件(通称:頂き女子りりちゃん)公判記録』 画面には、法廷に立つ、華奢な少女の写真が表示されている。彼女が語ったとされる言葉が、テキストデータとして無機質に並んでいた。

『寂しかった。認められたかった』 『おぢたちも、私と恋愛できて楽しかったと思う』 『貢いだホストが、そのお金で幸せになるなら、それでよかった』

小春は、りりちゃんの言葉の断片と、先ほどのモモの言葉を頭の中で反芻する。 「私が誰かを応援して、何が悪いんですか」 構造は酷似している。搾取した金を、別の誰か(ホストや配信者)に注ぎ込むことで、自らの行為を相対化し、罪悪感を希釈する。依存対象が、リアルなホストから、顔も見えないネットの向こうの配信者に変わっただけなのか?

いや、違う。小春は直感していた。 りりちゃんには、どこか破滅的で刹那的な、幼い自己顕示欲があった。だが、桃園モモからは、もっと計画的で、底の知れない冷徹さを感じる。彼女はただの依存者ではない。もっと明確な意志を持った、捕食者だ。

「このリストにある配信者、全員の身元を洗って。金の使途、金の受け渡しに関するやり取りの有無。徹底的に」 小春は部下に命じた。彼女が知りたいのは、モモとその「依存対象」との間に、どんな関係性があるのか、だ。そこに、人間的な繋がりや感情の交わりはあるのか。それとも、金の流れしか存在しない、完全な虚構の関係なのか。

数日後、部下からの報告は、小春の予測を裏付けるものだった。 接触した配信者の一人、月に数百万をモモから受け取っていた青年は、捜査員の聴取にこう答えたという。

「モモさん? ああ、俺の“神様”っすね。マジで太客。でも、一度もオフで会ったことも、個人的にメッセージのやり取りをしたこともないですよ。ただ、俺が配信を始めると、必ず現れて、黙って大金を投げてくれる。そういう人。俺にとっては、もはや概念みたいなもんすかね」

概念。 小春はその言葉を反芻した。人間関係ですらない。実態のないデータに、モモは数千万を支払っていたのだ。 りりちゃんという亡霊は、確かに現代に蘇っていた。だがそれは、より純粋で、より空虚で、より救いのない形へと進化して。小春は、この事件の背後にある闇が、単なる殺人事件ではない、もっと根源的な何かであると確信し始めていた。

小春は、自席のホワイトボードに、事件の相関図を書き出していた。中央に被害者・黒川剛。その周囲に、容疑者として桃園モモ、黒川の会社の同僚、愛人関係にあった女性たちの名前が並ぶ。だが、小春の視線は、モモから伸びたもう一本の線、その先にある「配信者(概念)」と書かれたスペースに注がれていた。

「金の流れとは別に、桃園モモの人間関係をもう一度洗い直して。特に、彼女がこの“頂き”行為を始める前後、頻繁に接触していた人物がいるはず」

小春の指示を受け、捜査員たちはモモの過去の通信記録やSNSの履歴を、数年前に遡って解析し始めた。地道で、膨大なデータとの格闘。その結果、一人の男の名前が浮かび上がったのは、数日後のことだった。

蓮見 玲(はすみ れい)、28歳。 表向きは、自己啓発系のオンラインサロンを運営するコンサルタント。しかし、その実態は、情報商材の販売や、グレーな手法での信者集めが噂される、界隈では知られた男だった。 決定的なのは、モモが「おぢ」たちを籠絡する際に使っていた言葉遣いやストーリー展開のいくつかが、蓮見が過去に販売していた『人心掌握のためのストーリーテリング術』という情報商材の内容と、不気味なほど一致していたことだった。

桃園モモは、ただの天才ではなかった。彼女の背後には、脚本家であり、演出家である存在がいたのだ。

第3章:演出家の正体

蓮見玲の事務所は、西麻布のデザイナーズマンションの一室にあった。インターホン越しに応答した声は、涼やかで、どこか人を食ったような響きを持っていた。 小春が部屋に通されると、蓮見はにこやかな笑みを浮かべてソファを勧めた。高価そうなリネンのシャツを無造作に着こなし、その佇まいは、刑事の訪問に動揺する一般人のそれとはかけ離れていた。

「桃園モモさん……ああ、才能のある子でしたね。僕のサロンに、少しだけ顔を出していた時期がありました」 彼は、あっさりとモモとの関係を認めた。だが、その口ぶりは、大学の教授が、かつての教え子について語るような、あくまで客観的で、他人事のような響きだった。

「彼女に、いわゆる“頂き”の手法を教えたのはあなたですか」 小春は、単刀直入に切り込んだ。 蓮見は、面白そうに目を細める。「教えた、だなんて人聞きの悪い。僕は、人がいかに物語を欲しているか、そして、その物語をどう構築すべきかを教えているだけです。それをどう使うかは、本人次第。包丁の使い道を、料理人に教える料理研究家はいても、殺人者に教える料理研究家はいないでしょう?」

完璧な責任回避の論理。小春は、彼の言葉遊びには付き合わず、部屋の中を冷静に観察した。

壁一面を埋め尽くす、巨大な本棚。そこに並んでいるのは、自己啓発本やビジネス書などではない。フーコー、ボードリヤールといった現代思想の哲学書。人間の行動原理を分析した社会学や心理学の専門書。そして、デュシャンやウォーホル以降の、コンセプチュアル・アートに関する難解な画集。

その蔵書のラインナップは、彼の興味の対象が、金儲けや人心掌握といった俗なレベルにはないことを示唆していた。彼は、もっと別の、根源的な何かを探求している。 小春は、その本棚の一角に、他の豪奢な画集とは不釣り合いな、自費出版本らしき素朴な一冊が置かれているのを見つけた。そっと手に取る。タイトルはない。奥付には、か細い文字で「蓮見詩織」と記されていた。彼の、亡くなった妹の名前だった。

「ずいぶん、ご趣味が合う。私も、マルセル・デュシャンの『泉』は、20世紀最大の問題作だと思っています」

小春は、画集から蓮見へと視線を移し、あえて本題から切り出した。その瞬間、蓮見の表情が、初めて微かに変化した。能面のような笑みの裏に、同質の知性に対する好奇の色が浮かぶ。

「刑事さんで、現代アートがお好きとは珍しい。あの便器の、どこに価値を見出しますか?」

「価値、ですか」 小春は、蓮見の目をまっすぐに見据えて答えた。「モノそのものではなく、モノを“アートである”と提示した、そのコンセプト(概念)そのものに、でしょう。便器を美術館に持ち込んだ時点で、それはもはや便器ではない。アーティストの思想を纏った“作品”になる」

小春の言葉に、蓮見は満足げに頷いた。「…ええ。ですが世界は、コンセプトを理解しようとせず、ただモノをゴシップとして消費するだけだ。才能があった私の妹のようにね」 その言葉には、抑えきれない軽蔑と、深い哀しみが混じっていた。

「……素晴らしい。その通りです。刑事さん、あなたは、とても良い“観客”になれそうだ」

観客。その言葉を聞いた瞬間、小春の中でバラバラだったピースが繋がり、ぞっとするような仮説が形を結び始めていた。蓮見玲は、詐欺師の指南役などではない。彼は、桃園モモという素材を使い、この現実世界を舞台にして、何か壮大な“作品”を創り上げようとしているのだ。そしてそれは、誰にも理解されずに死んだ妹の魂を、歪んだ形でこの世に顕現させるための、狂気的な儀式なのではないか。

小春の仮説は、捜査会議で一蹴された。「現代アート? 作品? 明智君、君は小説の読みすぎだ」 上司は、あからさまな侮蔑を隠そうともせずに言った。「蓮見玲は、詐欺の指南役としてはマークしておく。だが、本丸はあくまで桃園モモだ。彼女を詐欺と、黒川殺害の共犯容疑で落とす。それで本件はクローズだ」

物理的な証拠は何一つない。蓮見のアリバイは完璧だった。小春は組織の中で孤立した。誰もが、分かりやすい「悪女」と、その背後にいる「少し悪賢い男」という筋書きで事件を終わらせたがっていた。小春が提示する「演出家」という不気味な存在は、彼らの理解を超えていたのだ。

その頃、桃園モモは、自宅マンションで言いようのない恐怖に苛まれていた。連日のようにメディアは自分の顔写真と「頂き女子」という扇情的な見出しを報じている。だが、事件の核心にいるはずの蓮見玲の名は、どこにも出てこない。まるで、初めから存在しなかったかのように。

彼は、まだ「物語」を終わらせていない。モモは肌で感じていた。自分はまだ、彼の創り上げた舞台の上にいる。スポットライトを浴びる主役として。そして、主役の幕引きは、演出家が決定するものだ。拘置所の冷たいベッドの上か、あるいは、もっと別の、予期せぬ場所で――。

小春は、一度すべての捜査資料をデスクの脇に置いた。そして、蓮見玲という人間そのものを、もう一度ゼロから分析し始めた。彼が過去にSNSに投稿した言葉、オンラインサロンでの発言、情報商材の文面。その膨大なテキストデータの中から、彼の思考パターン、彼の「芸術思想」を読み解こうと試みた。

浮かび上がってきたのは、「オリジナリティへの異様な執着」と、「観客を裏切ることへの陶酔」だった。彼は、ありきたりの模倣や、予定調和を極端に嫌悪していた。彼の信奉者たちは、彼のその「予測不可能性」に惹かれていたのだ。

小春は、一枚のメモにペンを走らせた。それは、容疑者を追い詰めるための尋問調書ではなかった。一人のアーティストのプライドを、的確に、そして完膚なきまでに破壊するための、たった一つの台本だった。

第4章:舞台の幕引き

小春は、アポイントも取らずに再び蓮見の事務所を訪れた。蓮見は、まるで彼女が来ることを予期していたかのように、静かにドアを開けた。「……批評家のお出まし、というわけですか」 蓮見は、面白そうに小春を見ている。

「ええ。あなたの“作品”を、拝見しましたので」 小春は、彼の挑発には乗らず、静かに切り出した。「コンセプトは悪くない。現代社会における虚構とリアルの関係性を問うというテーマは、ありふれてはいますが、手堅い選択です。桃園モモという素材も、確かに魅力的だった」

小春は、批評家が絵画を評するように、淡々と続ける。「ただ、致命的な欠陥がある。あなたの作品には、オリジナリティがない」 蓮見の眉が、ぴくりと動いた。 「デュシャンの模倣、ウォーホルの反復。すべて、二十世紀に使い古された手法の焼き直しだ。あなたがやったことは、先人たちの偉大なコンセプトを、通俗的な犯罪に置き換えただけ。実に凡庸で、退屈なプレゼンテーションでした」

蓮見の顔から、笑みが消える。 小春は、畳みかけた。彼女は、この勝負の、最後のカードを切る。

「結論を言いましょう、蓮見玲。あなたの作品は、失敗です」

「……なんだと?」 蓮見の声は、低く、地を這うようだった。

「あなたは、モモという最高の素材を、その才能を、結局自分の手で壊すことしかできなかった。彼女の繊細な心の機微を無視し、ありきたりの殺人事件という、最も安易なクライマックスに逃げた。あなたのやっていることは、妹さんの才能を侮辱している。彼女の作品は、こんな形でしか世に出られないほど無価値だったと、あなたが一番証明している。それは芸術的昇華ではなく、ただの器物損壊ですよ」

その言葉が、引き金だった。蓮見玲の冷静な仮面が、音を立てて砕け散った。「失敗だと……? この僕の作品が!?」 彼は、それまで抑えていた感情を爆発させ、堰を切ったように語り始めた。

「君には分からないだろう! 妹の死を、あんな陳腐な悲劇で終わらせてたまるか! あの密室こそが、現代の閉塞した人間関係のメタファーだったんだ! スマートロックに細工をしたのは、虚構が現実を侵食するというテーマを表現するためだ! 黒川の胸に突き立てたアイスピックは、冷え切ったコミュニケーションの象徴! あの男は死んだんじゃない! 僕の作品は、誰にも消費されない、彼女のための永遠の鎮魂歌なんだ!」

激昂した彼の言葉は、止まらない。その饒舌な解説の中に、これまで誰も掴めなかった犯行の具体的な手口やトリックが、惜しげもなく散りばめられていく。小春は、彼の顔を静かに見つめていた。そして、ジャケットの胸ポケットに忍ばせた小型録音機器のスイッチが、確実にONになっていることを、指先で確かめていた。舞台の幕は、今、下りようとしていた。演出家が自ら用意した、最も惨めな形で。

蓮見玲の独白が終わった時、取調室には異様な静寂が満ちていた。彼は、すべてを語り尽くしたアーティストのように、恍惚とした表情で椅子に深く身を沈めている。小春は、胸ポケットから取り出した小型録音機器の停止ボタンを、カチリと音を立てて押した。「……見事なプレゼンテーションでした。ありがとう、蓮見玲さん」 その声は、批評家のものではなく、刑事のそれに完全に戻っていた。

蓮見は、その小さな機械を見て、初めてすべてを悟った。だが、彼の顔に浮かんだのは怒りや絶望ではなかった。むしろ、自らの芸術が、その価値を最後まで理解されることなく「証拠品」という俗なモノに成り下がってしまったことへの、深い、深い軽蔑と哀れみだった。「……凡人には、分からないか」 彼はそう呟くと、抵抗することなく差し出された手錠を、静かに受け入れた。

終章:対価なき世界で

蓮見玲が殺人及び死体遺棄容疑で逮捕されたことで、事件は急展開を迎えた。桃園モモは、殺人に関する共犯の嫌疑は晴れたものの、組織的な詐欺罪で起訴されることは免れなかった。公判が始まるまでの間、彼女は拘置所で一人、来る日も来る日も、コンクリートの天井を見上げて過ごしていた。

蓮見という演出家を失った今、彼女はもはや「悲劇のヒロイン」ではなかった。ただの、詐欺を犯した若い女。弟の存在も、マスコミによって面白おかしく消費され、同情と好奇の目に晒された。彼女が築き上げてきたはずの物語は、砂の城のように脆く崩れ去っていた。

そんなある日、国選弁護人が、一通の封筒を彼女に手渡した。「あなたの、以前の……関係者の方からです」 弁護士は、少し気まずそうに言った。モモは、どうせ罵詈雑言が書かれた手紙だろうと、自嘲しながら封を切った。差出人の名前は、高木。丸っこい柴犬のアイコンを使っていた、あの男性だった。 便箋には、拙いながらも、丁寧な文字が並んでいた。

桃園モモ様
このような手紙を出すべきか迷いましたが、どうしてもお伝えしたいことがあります。 ニュースで、あなたのことを知りました。あなたが話してくれた物語が、本当ではなかったことも。多くの方が、あなたに騙されたと怒っていることでしょう。ですが、私は、そうは思いませんでした。 私は、仕事ばかりで、家族の心もとっくに私から離れていき、何のために生きているのか分からない毎日を送っていました。そんな時、あなたと出会いました。あなたが演じていたとしても、あの時の私の孤独が救われたのは事実です。この事実に、私はこれからどう向き合えばいいのでしょう。 あなたの虚構は、私の現実の一部になってしまいました。これから、大変な道のりが待っていることと思います。どうか、あなた自身の人生を歩んでください。そして、もし許されるなら、いつか、弟さんのために。
高木

読み終えた時、モモの頬を、一筋の雫が伝った。それは、計算された演技の涙ではなかった。

それは、自身の犯した罪の深さと、それが他者の人生に刻んでしまった、消えることのない傷跡の重さに、初めて意識が至った、純粋な涙だった。予期せぬ「赦し」ではなく、予期せぬ「問い」。その言葉は、彼女を縛り付けていたすべての物語から彼女を解放すると同時に、一生をかけて向き合うべき、新たな十字架を彼女に与えたのだった。

数年後。明智小春は、警視庁の自席で、キャビネットの整理をしていた。奥から出てきたのは、『桃園モモ特殊詐欺事件調査報告書』と書かれた、分厚いファイル。その隣には、数年前に解決した『りりちゃん事件』のファイルも並んでいる。

二つの事件は酷似していた。承認欲求、孤独、そして虚構への渇望。現代という時代が生み出した、必然の犯罪。だが、その結末は決定的に違っていた。片方は、虚構の果てに、ただ空虚な破滅が待っていた。そしてもう片方には――虚構の中から生まれ落ちた、ほんの欠片のような、しかし確かな真実が残されていた。

小春は、窓の外に広がる東京の夜景を見つめた。無数の灯りが、それぞれの人生を、それぞれの物語を照らしている。彼女はふと、数年前に救えなかった友人のことを思い出していた。彼女もまた、誰にも届かない言葉をSNSに綴り、誰にも理解されないまま、自分の物語を閉じてしまった。彼女は、完成した報告書を静かに閉じた。事件は終わった。法の下で、裁きは下された。

だが、本当に「対価」を支払うべきなのは、誰だったのだろうか。

モモか、蓮見か、それとも「おぢ」たちか。あるいは、この事件を遠くから眺め、また一つ、物語を消費しただけの、自分自身や、この社会か。

その答えの出ない問いだけが、彼女自身の過去の痛みと重なり合い、静かで重い余韻として、いつまでも残り続けていた。

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