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『きみのための栗』

少年は、「約束」を果たすため、世界を敵に回した。

四歳の少年、樹(いつき)には、たった一人の妹、詩(うた)がいた。ある日、重い病に倒れた詩は、手術を前に「おばあちゃんの栗が食べたい」と、かすかに呟く。

その言葉を聞いた樹は、妹との「約束」を果たすため、たった一人、遠い長野の小布施を目指すことを決意する。貯金箱を割り、わずかな小銭を握りしめ、家を飛び出した樹。

彼の小さな「旅」は、大人たちの常識と規則の壁に阻まれ、予期せぬ困難の連続となる。果たして、樹は無事に「約束の栗」を妹の元へ届けることができるのか。

これは、四歳の少年が、純粋な愛と強靭な意志で、世界を変えようとした、奇跡と感動の物語。

登場人物紹介

  • 山本 樹(やまもと いつき): 本作の主人公。四歳の少年。内気だが、妹への愛情は誰よりも深い。妹との「約束」を果たすため、たった一人で「旅」に出る。

  • 山本 詩(やまもと うた): 樹の妹。重い病のため入院中。兄とのささやかな会話が、兄の「旅」の始まりとなる。

  • 山本 武(やまもと たけし): 樹と詩の父親。冷静で現実的だが、息子を追いかける中で、子供の純粋な「意志」の強さを知ることになる。

  • 山本 由紀子(やまもと ゆきこ): 樹と詩の母親。入院中の詩の看病で心身ともに疲弊している。息子の失踪に強い自責の念を感じる。

  • 小布施のおばあちゃん: 武の母親で、樹と詩の祖母。長野の小布施で暮らしている。樹が目指す「栗」の故郷。

  • 博多駅の駅員: 博多駅の「みどりの窓口」に勤務する駅員。樹のただならぬ状況に、マニュアルとは異なる行動を取ることになる。

  • 新幹線の車掌: 博多と名古屋間を走る新幹線の車掌。駅員の友人。規則違反と知りながらも、樹を「荷物」として運ぶことを引き受ける。

  • 名古屋の清掃員: 名古屋駅の清掃員。新幹線の車掌から樹を託され、次の特急列車へと繋ぐ、善意のリレーを担う。

  • 特急「しなの」の車掌: 名古屋と長野間を走る特急「しなの」の車掌。清掃員の顔見知り。半ば強引に樹を乗せ、長野まで運ぶ。

  • 長野電鉄の老駅員: 長野駅から小布施へ向かうローカル線の駅員。終盤、樹の最後の「支援者」となる。

第一部

第一章 発火点

消毒液の匂いがした。ツン、と鼻腔の奥を貫く、白く冷たい匂い。樹(いつき)は、その匂いだけで、自分が世界のどこにいるかを理解した。ここは、日常が剥奪される場所だ。清潔という名の暴力が、すべてを塗りつぶしていく。

大人の膝ばかりが見える廊下。キュッ、キュッ、と床を擦るゴム底の靴音だけが、やけに大きく響く。誰もが早足で、誰もが俯いている。樹は、父親のデニム生地を、指先が白くなるほど強く握りしめた。

「イツキ、走らない」

父親の声は、乾いて、ささくれていた。

樹は、返事の代わりに、さらに強く生地を握った。

目の前に、重い自動ドアが立ちはだかる。『集中治療室』四歳の樹にとって、その黒く難解な文字列は、何の意味もなさなかった。彼にとって、そこはただの「ガラスの箱」だ。

ガラスの向こう側で、妹の詩(うた)が眠っている。眠っている、と大人は言った。樹には、たくさんの管に絡め捕られ、身動き一つ取れないように見える。

ピッ、ピッ、ピッ。無機質な電子音が、詩の小さな呼吸の代わりに、正確なリズムを刻んでいる。それが、樹にはひどく不気味に聞こえた。

「今日も、よく眠ってるわね」

母親が、ガラスに手のひらを当てて呟く。その指先が、微熱に浮かされたように小さく震えているのを、樹は見逃さなかった。

「手術は明後日だ。先生を信じよう」

父親が、母親の肩を無骨に抱いた。信じるという言葉が、祈り以外の何物でもないことを、樹は本能で感じ取っていた。

手術。その四文字が、この白い部屋の空気を支配している。それは、詩の命を奪うかもしれない「何か」であり、同時に、詩を救うかもしれない「何か」だった。

「…無事に終わったら、またみんなで行きたいな」

母親が、ひび割れた唇で無理に笑みを作った。

「ああ。そうだな。小布施(おぶせ)のおばあちゃんのところ…」

父親が、そう応じた、その瞬間だった。

ガラスの箱の中で、詩のまつげが、かすかに震えた。

「…おぶせの、くり…」

か細い、糸のような声。眠っているはずの詩が、確かに、そう言った。

母親が息をのむ。

栗。去年、家族四人で訪れた、遠い記憶。イガの痛み。湿った土の匂い。二人で泥だけになって拾い集めた、黄色い、太陽のかけら。

「…たべたいな」

詩の、純粋な渇望。それは、この無菌室の白い壁を突き破る、生々しい「生」への執着だった。

樹は、父親と母親の顔を交互に見上げた。二人は互いの顔に縋るように見つめ合い、いま起きた小さな奇跡に気づいていない。

樹だけが、聞いていた。樹だけが、その「約束」を受け取った。

樹は、ガラスに張り付いた。管と機械の隙間から、妹の白い額が見える。

「イツキ、いくよ」

聞こえたかどうかわからない。樹は、もう一度強く、自分に言い聞かせるように言った。

「イツキが、もってくる。やくそく」

樹の中で、何かがカチリと音を立てた。それは、小さな、しかし確実な発火点だった。

栗を食べる。詩が、元気になる。四歳の世界を支配する、絶対的な論理が、いま完成した。

その履行のためなら、世界を敵に回しても構わない。そんな決意が、樹の小さな体に宿った。

第二章 四十円の地平

翌朝。家の中は、冷えた夜の空気と、焦燥感で満たされていた。母親が、病院に泊まるための荷物をボストンバッグに詰め込んでいる。その無駄のない、しかしどこか自暴自棄な動きが、彼女の疲弊を物語っていた。

父親は、スマートフォンの画面を睨みつけながら、低い声で誰かと話している。仕事の、調整。日常が、非日常に侵食され、軋みを上げている音だった。

「イツキ、いい子にしてるのよ」

母親が、樹の頭を、感情のこもらない手つきで一度だけ撫たた。その手はカサカサと乾いて、彼女自身の水分が奪われているようだった。

「うん」

樹は、小さく、完璧な「いい子」として返事をした。それが、今日の、最後の返事だった。

食卓の椅子に座り、樹はトーストを機械的にちぎっていた。そして、大人が見ていない一瞬の隙に、そのパンを、自分の青い恐竜のリュックサックに押し込んだ。水筒も入れた。昨日、自分で麦茶を詰めたものだ。

パタン。玄関のドアが閉まる音が、遠くで響いた。嵐が、一時的に去った。家の中は、時計の秒針の音だけが響く、真空のような静寂に包まれた。

樹は、椅子から飛び降りた。一目散に、自分の部屋へ向かう。

目的は、一つ。窓辺に置かれた、お気に入りの、ブタの貯金箱。彼は、それを両手で持ち上げた。ずしりと重い。これまで積み重ねてきた、「いい子」の証。

樹は、息を吸い込んだ。そして、ためらうことなく、それを床に叩きつけた。

ガチャン!陶器が砕け散る、耳障りな破壊音。ブタは、無残な姿になり、その腹の中から、銀色と茶色の財貨が床に飛び散った。

樹は、その残骸に目もくれず、床に這いつくばった。100円玉でも、50円玉でもない。彼が探したのは、最も大きく、最も重く感じる、茶色い硬貨。10円玉。一枚。二枚。三枚。四枚。四十円。

彼は、それを小さな手のひらで握りしめた。じっとりと汗が滲む。金属の、錆びたような匂いがした。これが、彼の知る、世界のすべてだった。これで、どこへでも行ける「切符」が買えるはずだった。

樹は、割れたブタの破片を、スニーカーの裏で踏みつけた。もう、戻らないという儀式だった。

リュックを背負う。肩に、ずしりと「旅」の重さがかかる。

玄関で、いつも履いているスニーカーに、懸命に足をねじ込む。マジックテープを締める指が、もどかしい。

ドアノブに手をかける。彼の身長では、背伸びをしなければ届かない。全体重をかけて、ノブを回す。

ギイ、と重い金属音がして、ドアがわずかに開いた。隙間から、流れ込んでくる、朝の空気。10月上旬の、肌を刺すような、鋭い冷気だった。

「……いってきます」

小さな声は、静まり返った家の中に吸い込まれた。樹は、その隙間に体を滑り込ませ、外の世界へ一歩を踏み出した。

第三章 バス停の脚

バス停は、大人の「脚」で埋まっていた。濃い黒いスラックス。タイトスカート。忙しなく揺れる、硬い革のカバン。コツ、コツ、コツ。地面を苛立たしげに叩く、硬いヒールの音。

樹の目線では、顔は見えない。誰もが、彼という存在に気づかないか、あるいは、意図的に視界から排除している。四歳の子供が、朝のラッシュアワーに一人で立っている。その「異常」に、誰も触れようとしなかった。

樹は、ただ、待った。

地響きと共に、巨大な鉄の箱が近づいてきた。バスだ。プシュー、と圧縮された空気が抜ける、威嚇するような音がして、目の前でドアが開いた。

樹にとって、そのステップは、乗り越えるべき最初の「壁」だった。よじ登るようにして、バスに乗り込む。

一番前に立っている、ネイビーブルーの制服の「脚」。その持ち主である運転手は、ルームミラーを調整することに夢中で、まだ樹の存在に気づいていない。

樹は、運転席のすぐ横まで進み出た。そして、汗でぐっしょりと濡れた手のひらを、懸命に開いた。握りしめていた、四十円。

「はかたえき、いく」

練習した言葉を、はっきりと、言った。

運転手の視線が、ミラーから、樹へと落ちた。その目は、丸く、そしてすぐに、面倒くさそうに細められた。

「…坊主、親は?」

声には、体温がなかった。日々の業務を阻害する、小さな「障害物」を見る目だ。

「いない。イツキ、ひとりでいく」

「はあ?」

運転手は、あからさまに舌打ちをした。

「あのな、坊主。四十円じゃ、博多駅どころか、次のバス停も無理だ。わかってるか?」

樹は、首を横に振った。そして、もう一度、四十円をぐいと突き出した。これが、彼が持つ世界のすべてだ。これで、行けるはずだ。

「はかたえき!」

運転手の眉間の皺が、さらに深くなった。

「だから、無理だっつってんだろ。降りろ、早く。後ろが詰まってる」

その声は、拒絶だった。世界の「常識」が、樹の「約束」を、ここで終わらせようとしていた。

樹の目に、涙が浮かびそうになった。ダメだ。ここで、ダメだ。

その、張り詰めた空気を破ったのは、ドアのすぐ近くの優先席から聞こえた、しゃがれた声だった。

「…何か事情があるんやろ」

白髪の老婦人が、財布から小銭を取り出していた。樹の顔を、値踏みするように、しかしどこか懐かしむように見ている。

「博多駅までね。私がこの子の分、払うわ」

チャリン、と無機質な音がして、正規の運賃が箱に落ちた。

運転手は、老婦人の顔と、樹の顔を、もう一度見比べた。その目に、一瞬の安堵が浮かんだ。これで、「規則」は守られた。「迷子」の可能性は残るが、それはもう、自分の直接の責任ではない。誰かが、介入したのだから。

彼は、深くため息をつくと、それ以上何も言わずにレバーを引いた。

「発車します。ご注意ください」

プシュー。ドアが閉まる。

樹は、四十円を受け取ってもらえなかったことに戸惑った。だが、バスは動き出した。車窓の景色が、後ろへ、後ろへと流れていく。「博多駅」という目的地に、世界は、樹の意図とは別の形で、彼を一歩進ませた。

樹は、一番前の、窓にかじりつくように座った。握りしめた四十円は、まだ手のひらにあった。それは、使われることのなかった、彼だけの「切符」だった。

第二部

第四章 博多駅の壁

博多駅は、音の洪水だった。あらゆる方向から押し寄せる、無数の音。キャリーケースの硬質な車輪が、床を叩きながら転がる音。甲高いアナウンスが、反響して意味を失う音。そして、何千もの足音が、一つの巨大な地響きとなって、樹の体を芯から揺さぶった。

ここは、バスの中とは違う。一つの目的地に向かう乗り物ではない。無数の意思が、無数の方向へ向かって交差し、衝突する、巨大な迷路だ。

樹の目線には、ただ、脚の森が広がっていた。まっすぐ前だけを見て、決して立ち止まらない、大人の脚。ぶつかりそうになり、樹は何度も体勢を立て直した。

だが、彼は迷わなかった。彼には、探すべき「印」が一つだけあった。『みどりの窓口』父親に、新幹線の絵が描かれた本で見せてもらった、緑色の、あのマーク。あれが、「約束」への入り口だ。

あった。森の向こうに、光る緑色の看板が見えた。樹は、脚と脚の間を、小さな獣のようにすり抜けて走った。

列の一番後ろに、ちょこんとつく。前の人の背中が、また「壁」になって、樹の姿を隠した。

五分、あるいは十分。列が、ゆっくりと進む。ようやく、樹の番が来た。

目の前に、ツルツルと光る、黒い御影石のカウンターがそびえ立っていた。樹の身長では、顔を出すのが精一杯だ。

カウンターの向こう側で、若い駅員が、気怠そうにキーボードを叩いている。その指が、止まった。目の前に、誰もいない。

「…次の方、どうぞ」

樹は、思い切り背伸びをした。そして、手のひらに握りしめていた、汗で湿った四十円を、石のカウンターに叩きつけるように置いた。

チリン、という、あまりにも小さく、頼りない音が響いた。

「なに?」

駅員が、訝しげに身を乗り出した。カウンターの下を覗き込む。そして、そこに、リュックを背負った小さな子供が立っているのを、発見した。

駅員の顔から、気怠さが消えた。代わりに、職業的な、薄い笑みが浮かんだ。

「迷子かな?お父さん、お母さんは?」

樹は、その「優しい」仮面を、まっすぐに見据えた。

「いない。ひとりでいく」

「…え?」

「ながの!おぶせ!いきます!」

樹は、石の上の四十円を、指でぐいと押した。

駅員の笑みが、完全に消えた。「長野…?」彼は、一瞬、冗談かと思った。だが、樹の目は、冗談を言っている目ではなかった。火傷しそうなほど、真剣だった。

これは、「迷子」ではない。「案件」だ。駅員は、マニュアル通りの行動に移った。

「わかった、わかったから。ちょっとこっちにおいで」

カウンターの横にある小さな扉から、彼が出てくる。そして、樹の手首を、冷たい指で、しかし強く掴んだ。

「事務所に行こう。ね?」

事務所。その言葉が、樹の最後の防衛線を、踏み越えた。そこは、「ダメ」と言われる場所だ。そこは、パパとママに連絡が行く場所だ。そこは、「約束」が、死ぬ場所だ。

「いや!」

樹は、全身のバネを使って、駅員の手を振り払おうとした。

「はなして!」

「おい、坊主、暴れるな!」

「はなして!イツキ、ひとりでいく!」

「だから、ダメなんだって!話を聞け!」

駅員が、その手を強引に引いた瞬間。樹の、我慢の限界が、来た。

「うたが!」

樹は、叫んだ。それは、泣き声ではなかった。魂が、喉から飛び出すような、絶叫だった。

「うたが、しんじゃう!!」

コンコースの雑踏が、一瞬、静止した。脚の森が、動きを止めた。無数の視線が、針のように、駅員と、その腕に掴まれた子供に突き刺さった。

「なんだ?」

「子供、泣かせてるぞ」

「誘拐か?」

ひそひそとした声が、波紋のように広がる。

駅員の顔から、血の気が引いた。違う。俺は、保護しようと。マニュアル通りに。だが、この状況は、マニュアルにはない。最悪だ。自分が、加害者として見られている。

「坊や、静かに…!」

焦れば焦るほど、樹は抵抗する。

「いやだ!はなして!ながの、いくの!」

まずい。このまま、この子供を、大勢の好奇の目に晒したまま、事務所まで引きずっていくことなど、不可能だ。それに、この抵抗は、尋常ではない。

駅員は、コンマ数秒で、決断した。彼は、樹の体を、無理やり脇に抱え上げた。

「わかった、わかったから!静かにしろ!」

彼は、事務所とは逆の方向に走った。人々の視線から逃れるように。目指したのは、『乗務員室』と書かれた、重い金属製のドアだった。

カードキーをかざし、乱暴にドアを開ける。樹の体を、室内に転がり込ませるように押し込み、自分も飛び込むと、背後で、ドアを閉めた。

ガチャン。

重いロック音が響き、あれほどの洪水だった雑踏の音が、嘘のように、遠く、くぐもったものになった。

駅員は、荒い息を吐きながら、ドアに背中をもたれて、ずるずるとしゃがみ込んだ。終わった。いや、始まってしまった。彼は、たった今、「迷子」を保護するのではなく、公の目から「隠蔽」した。もう、正規のルートには戻れない。彼は、規則を踏み越えた。

樹は、部屋の隅で、リュックを抱きしめ、警戒する獣のように、彼を睨みつけていた。

第五章 金木犀の匂い

乗務員室は、静かだった。無機質なスチールロッカー。使い古された長机。そして、微かな、濃いコーヒーの澱と、床のワックスの匂い。

駅員は、頭を抱えていた。

「…どうすんだよ、これ」

独り言だった。抱え上げた樹の体は、小さく、しかし驚くほど熱かった。熱病にでも、かかっているかのように。

「なあ、坊主。なんで長野なんだ。おばあちゃん家か?」

樹は、答えない。ただ、睨みつけている。ポケットからこぼれ落ちた四十円が、床で虚しく光っていた。

駅員は、立ち上がった。この「問題」を、処理しなくてはならない。だが、もう、事務所に突き出すことは、彼自身の「違反」を認めることになる。

彼は、自分のロッカーを開けた。その瞬間、ふわり、と、甘い香りが漂った。金木犀だ。ロッカーの隅に、小さな、紫色の匂い袋が吊るされていた。恋人が、お守りだと言って、無理やり入れたものだ。

その、場違いな、あまりにも日常的な匂いに、張り詰めていた樹の肩が、ピクリと震えた。知っている。家の庭の匂い。ママが好きな匂い。

(かえりたい)

その一瞬、樹の決意が、ぐらりと揺らいだ。ママに、会いたい。あの白い部屋は、嫌だ。家に、帰りたい。

涙が、あふれそうになる。樹は、ぐっと唇を噛み、首を激しく横に振った。ダメだ。帰ったら、ダメだ。帰ったら、「約束」が死ぬ。詩が、死んじゃう。

その、幼い葛藤の表情を、駅員は見逃さなかった。こいつは、家出じゃない。帰れない、明確な「理由」が、ある。

駅員は、腹を括った。自分の「違反」を、もみ消す方法は、一つしかない。この「問題」を、自分の管轄外へ、放り出すことだ。

彼は、スマートフォンを取り出し、電話帳を呼び出した。旧友の、名前。いま、まもなく発車する「のぞみ」に乗務しているはずの、男。

「…もしもし、俺だ」

『なんだよ、もうすぐ出るとこだぞ』

「頼む。助けてくれ」

『はあ?』

「訳ありなんだ。小さい荷物、一つ、名古屋まで運んでくれねえか」

『荷物?冗談じゃねえ。規則違反だぞ』

駅員は、床にうずくまる樹を見た。

「荷物は、生きてる。四歳だ」

『…お前、何考えてんだ!無理に決まってんだろ!』

「このままじゃ、俺がヤバいんだよ!」

駅員は、声を荒げた。

「頼む。お前の多目的室、空いてるだろ。あそこに乗せるだけだ。名古屋まででいい。名古屋で、誰かに押し付け…いや、引き継げばいい」

友情と、自分の保身と、そして、目の前の子供の、尋常ではない「熱」。それらが、電話の向こうの男を、沈黙させた。

『…チッ。博多を出たら、絶対、鍵かけとけよ』

「…!恩に着る!」

電話が、切れた。

駅員は、樹の腕を掴んだ。今度は、さっきより、ずっと、優しい手つきだった。もう、「迷子」ではない。「共犯者」の手だった。

「行くぞ。走れ!」

ホームへと続く、裏口。発車ベルが、けたたましく鳴り響いている。滑り込むように、新幹線に乗り込む。

「ここだ」

多目的室の、小さな部屋。

「いいか、絶対にここから出るな。声も出すな。名古屋までは、絶対だ」

そう言い残し、車掌は、慌ただしくドアを閉めていった。

ガタン、と、重い金属の塊が、揺れた。体が、後ろに引っ張られる。景色が、信じられない速さで、流れ始めた。

樹は、一人になった。薄暗く、狭い、密室。

(かえされる)

その恐怖が、再び、樹を襲った。樹は、部屋の隅にある、折り畳み式の椅子の下に、ダンゴムシのように、体を滑り込ませた。ここなら、見つからないかもしれない。

遠くで、楽しそうな車内アナウンスが聞こえる。ピッ、ピッ、という、病院の音は、ここにもない。

樹は、暗闇の中で、固く、固く、目を閉じた。リュックの中の栗が、まだ、ない。四十円は、駅の床に、置いてきた。

それでも、「約束」は、時速二百キロを超える速度で、長野へ向かって、走り出していた。

第六章 善意の連鎖

時間は、意味を失っていた。薄暗い密室の中で、樹はただ、鉄の塊が発する、絶え間ない振動を感じていた。ガタン、ゴトン。その一定のリズムが、子守唄のように、あるいは、死刑執行への秒読みのように、体に染み込んでくる。

(うた)

リュックから取り出したパンを、無心でかじった。パサパサして、味はしなかった。飲み込むたびに、喉がヒリヒリと痛んだ。

何度か、ドアの外で足音が止まった。車掌が、気配を殺して、中の様子を窺っている。樹は、息を止めた。椅子の下で、体を、石のように硬くした。

ドアは、開かなかった。彼は、この「荷物」が、無事であることを確認するだけで、その「中身」に、深く触れることを拒絶していた。

やがて、「――まもなく、名古屋です」地獄の底から響くような、くぐもったアナウンスが聞こえた。

振動が、ゆっくりと、その間隔を広げていく。止まる。

ドアが、乱暴に開かれた。

「出ろ!早く!」

車掌の顔は、博多で見た時よりも、さらに青ざめていた。彼は、樹の手首を掴むと、ホームへと引きずり出した。降りた瞬間、新幹線のドアは、まるで樹という「厄介事」を吐き出したかのように、素早く閉まった。

名古屋のホーム。博多とは違う、湿った、重い空気。人の流れも、どこか淀んでいるように見えた。

「いた!」

車掌が、駆け寄ったのは、ホームの端で、大きなゴミ袋をカートに乗せている、初老の清掃員の女性だった。

「頼む!この子を、長野行きの『しなの』に乗せてやってくれ!」

女性は、汚れたゴム手袋をはめたまま、怪訝な顔で二人を見た。

「はあ?あんた、何を…」

「時間がないんだ!頼む!」

車掌は、樹のリュックに、自分のカバンから取り出したペットボトルのお茶を、強引にねじ込んだ。博多の駅員が、彼にしたことと、ほとんど同じように。

「訳ありなんだ。理由は聞くな!」

彼は、女性の手に、樹の小さな手を押し付けた。

「あとのことは、知らん!」

まるで、爆弾の導火線に火をつけ、その場から逃げ出すように。車掌は、再び新幹線へと消えていった。

残されたのは、樹と、事態が飲み込めないままの、清掃員の女性だけだった。

「…まったく、どいつもこいつも、勝手なことを」

女性は、ゴム手袋で、溜まったため息をついた。その視線が、樹の顔に落ちる。椅子の下で、埃と油に汚れた、小さな顔。だが、その目は、まだ、死んでいなかった。必死に、何かを訴えている。

「…しなの、ね」

女性は、規則と、目の前の「熱」を、天秤にかけた。そして、その天秤は、あっけなく傾いた。

「こっちだよ。走んな」

彼女は、樹の手を引いた。その手は、ゴワゴワしていたが、不思議と、温かかった。

彼女は、正規の乗り換え通路を使わなかった。『関係者以外立入禁止』そう書かれた、薄暗いバックヤード。荷物用エレベーター。従業員だけが知っている、近道。

「しなの」の発車ベルが、鳴り響いていた。

ホームに駆け上がると、特急「しなの」の車掌が、ドアを閉めようとしているところだった。

「待って!」

女性が、叫んだ。

その車掌は、彼女の息子だった。いや、息子の同僚だったか、同じアパートの住人だったか。とにかく、見知った顔だった。

「この子!長野まで!」

「母さん!?何やって…、って、ダメだ、もう出る!」

「いいから、乗せて!この子の人生かかってんだよ!」

理屈ではなかった。ただの、叫びだった。

車掌は、一瞬、ためらった。だが、ベルは、もう止まらない。彼は、樹の体を、鳥の子をさらうように、ひょいと抱き上げた。そして、ホームにいる女性ごと、すべてを振り切るように、車内へと転がり込んだ。

プシュー。ドアが閉まる。

特急「しなの」が、ゆっくりと、名古屋のホームを離れていく。

車掌は、樹を床に降ろした。

「…ったく。何なんだよ、今日は」

彼は、樹の顔を見た。

「いいか、長野までだな。絶対に、席を動くな。わかったな」

樹は、小さく、頷いた。

誰もが、深くは聞かなかった。誰もが、「自分の区間だけ」という、限定的な責任を引き受けた。そして、この、ありえない「約束」という名のバトンは、確実に、北へ、北へと運ばれていく。

長野駅に着いた時、「しなの」の車掌は、疲れ果てた顔で、ホームの隅にいた、長野電鉄の老駅員に、樹を引き渡した。

「小布施だ。…ばあちゃんが、待ってるそうだ」

それは、その場でついた、優しい嘘だった。

老駅員は、何も言わず、樹の手を握った。その手は、栗の皮のように、硬く、節くれだっていた。

第七章 発覚

その日、福岡市早良区の山本家は、静寂から「地獄」へと突き落とされた。

「イツキがいないッ!」

病院から一時帰宅した由紀子の、甲高い悲鳴が家中に響き渡った。

テーブルの上には、樹が手をつけなかったはずのトーストが、一枚、消えている。そして、玄関のドアチェーンが、外されていた。開けっ放しのドアから、10月の冷たい風が、嘲笑うかのように吹き込んでいる。

夫の武は、妻のその声を聞いた瞬間、全身の血が、指先から引いていくのを感じた。スマートフォンが、汗ばんだ手から滑り落ちそうになる。震える指で、「110」を押した。

声が、うまく出なかった。

「…子供が、いないんです。四歳です。消えたんです」

数分が、数時間のように感じられた。遠くから近づいてくるサイレンの音が、現実感を奪っていく。

家の中は、見知らぬ男たちの、土足の靴音で満たされた。警察だった。

リビングは、「日常の空間」から、「事件現場」へと変貌した。

「最後に見た服装は?」

「心当たりは?」

「ご夫婦の関係は?」

無遠慮な質問が、矢のように飛んでくる。

「私の、せいで…」

由紀子は、床に泣き崩れていた。

「私が、あの子を、ちゃんと見ていなかったから…」

自責の念が、彼女の理性を壊していく。もう、まともに話せる状態ではなかった。

武は、こめかみを強く押さえながら、懸命に答えた。青い恐竜のリュック。いつも履いている、緑色のスニーカー。

「…心当たり、など」

あるはずがない。あの子が、一人で、どこへ行くというのか。最悪の想像が、脳裏を焼き切ろうとする。誘拐。事故。

「誘拐の線で、広域に手配します」

刑事が、低い声で言った。

「最近、ご家庭で何かトラブルは?」

武は、その言葉から逃れるように、ふらりと立ち上がった。

「…息子の部屋を、見てきます」

刑事たちの喧騒が、遠くなる。

樹の部屋のドアを開けた。そこは、時間が止まっていた。ミニカーが、床に転がっている。ブロックが、作りかけの、アンバランスな塔のまま、放置されている。昨日までの、日常。

武は、その「日常」の中に、決定的な「非日常」が隠されているのを感じた。

ガチャン。何かを、踏んだ。スリッパの裏に、硬い感触。

足元を見ると、ピンク色の、陶器の破片が散らばっていた。

「……!」

ブタの貯金箱だった。樹が、祖母からもらって以来、宝物のように大切にしていた、あの貯金箱。それが、無残に、粉砕されている。

そして、その残骸の周りに、1円玉や5円玉、50円玉、100円玉が、まるで、見捨てられたように、散らばっていた。

だが、よく見ると、10円玉だけが、異様に、少ない。

武は、床に落ちていた4枚の10円玉を、震える指で拾い上げた。

(まさか)

胸騒ぎが、冷たい刃物のように、背筋を駆け上がった。あいつ、これを、割ったのか。なぜ。

視線を、上げた。ベッドの上。一冊の絵本が、開かれたまま、放置されている。『やまのおいしいくり』詩が、入院する前、樹が、毎晩のように、妹に読んでやっていた絵本だ。

そして、その絵本の横。小さな机の上に、決定的な「証拠」が、置かれていた。

クレヨンで描かれた、一枚の、画用紙。デコボコの、三角屋根の家。その家の裏には、不格好に大きな木。木には、茶色い丸が、これでもかというほど、たくさん、描かれている。

力任せに塗りつぶされた、茶色の丸。

小布施の、祖母の家だ。栗の木だ。

武は、その場に立ち尽くした。

昨日の、病院での、記憶が蘇る。ガラスの向こうの、詩のかすかな声。

『…おぶせの、くり…たべたいな』

そして、樹が、ガラスに張り付いて、呟いた言葉。

『イツキが、もってくる。やくそく』

あの時は、四歳児の、意味のない、空約束だと思っていた。聞き流していた。いや、聞こうとしていなかった。

(あいつ…!)

全身の血が、今度は、後悔と、畏怖で、逆流した。あいつは、本気だった。あの子は、あの「約束」を、守るために、貯金箱を割り、なけなしの「切符代」を握りしめ、たった一人で、家を出たのだ。

武は、リビングに戻った。刑事たちが、まだ、深刻な顔で「誘拐」の線を議論している。

「違います」

武の、低い声が、響いた。

「…山本さん?」

「誘拐、じゃない。あいつは、一人で行ったんです」

刑事が、怪訝な顔をした。

「何を言ってるんですか。四歳の子が、福岡から、どこへ行くというんです」

武は、刑事の目を、まっすぐに見据えた。

「長野です」

「…長野?」

警官の目に、明らかな色が浮かんだ。(この父親は、動転している)(現実逃避だ)

武は、もう、それ以上、何も言わなかった。彼らに、この「約束」の重さは、理解できない。常識は、樹の「衝動」を、理解できない。

彼らが樹を見つければ、それは「保護」という名の「阻止」になる。樹の「約束」は、そこで、終わる。

武は、刑事たちの輪から、静かに離れた。ポケットの中で、スマートフォンを握りしめる。

俺が行く。樹の「真意」を理解する、世界でただ一人の人間として、俺が、あいつを、追いかける。

彼は、航空会社のサイトを開いた。長野・松本行きの、最終便。まだ、間に合う。

武は、妻に「警察に、あとは任せる」とだけ告げ、鍵を掴んで、家を飛び出した。警察官たちの、制止する声を、背中で振り切った。

第三部

第八章 小布施、栗の匂い

ガタン。揺れが、止まった。これまで乗ってきた、どの乗り物よりも、ゆっくりと、優しく、古い電車は終着駅のホームに滑り込んだ。

『小布施』

ひらがなで書かれた、木の駅名板。樹が、福岡の家で、クレヨンで、何度も、何度も、なぞって書いた、「約束」の地。

プシュー、と、気の抜けたような音でドアが開いた。

一歩、ホームに足を下ろす。その瞬間、空気が、変わった。ひんやりと、肌を撫ぜる、澄んだ空気。博多や名古屋の、湿った重さとは、まったく違う。

そして、匂いがした。あまい匂い。博多駅の乗務員室で嗅いだ、あの金木犀の、胸を締め付けるような甘さじゃない。もっと、ほくほくとした、湯気を含んだような、優しい甘さ。

町全体が、栗を蒸し、栗を煮詰めている。そんな匂いだった。

樹は、リュックの肩紐を握りしめた。あと、少し。

その時だった。

「イツキ!」

甲高い、聞き覚えのある声が、樹の名前を呼んだ。

改札の向こう側。夕暮れの光の中に、老婆が、立っていた。おばあちゃん。その顔は、安堵と、怒りと、そして、理解を超えたものを見た時の、恐怖のような感情で、ぐちゃぐちゃになっていた。

警察からの連絡だった。博多駅の防犯カメラ映像、そして、樹が握りしめていたという「四十円」の情報から、あの子が「誰か」に助けられながら、北へ向かった可能性。その「誰か」が、樹の口走った「ながの」という言葉。それが、警察の捜査網を、ここまで繋げたのだ。

「イツキ!まあ、こんな格好で…!」

おばあちゃんが、改札を飛び越えるような勢いで駆け寄ってきた。骨張った、節くれだった腕が、樹の、冷たくなった体を、息が詰まるほど、強く、抱きしめた。

「よかった、よかった、本当に…!」

だが、樹は、その腕の中で、もがいた。再会の喜びも、旅の疲れも、今は、邪魔なだけだった。彼には、まだ、成し遂げなければならない、最後の「使命」があった。

「おばあちゃん、ちがう!」

樹は、その体を、無理やり引き剥がした。

「くり!」

樹は叫んだ。声が、ひどく、かすれていた。

「うたの、くり!くりは、どこ!」

「イツキ、何を言ってるの、まず家に入って、お巡りさんに…」

「やくそくしたの!はやく!」

おばあちゃんは、孫の、そのただならぬ様子に、言葉を失った。目の前にいるのは、昨日まで知っていた、内気な孫ではなかった。埃に汚れ、油にまみれ、目の奥に、人間ではない、何か、執念のような、恐ろしい火を宿した、小さな獣だった。

第九章 泥だらけの手

樹は、おばあちゃんの手を振り払って、走り出した。駅を飛び出す。知っている道だ。去年、パパとママと、詩と、四人で歩いた道。栗のソフトクリームを食べた店。詩が、転んで泣いた、石畳。

「こら!待ちなさい!イツキ!」

おばあちゃんの、焦った声が、後ろから聞こえる。でも、樹は、もう、止まらなかった。

足が、もつれる。リュックが、重い。それでも、走った。

おばあちゃんの家が見えた。懐かしい、黒い瓦屋根。だが、樹は、玄関には目もくれなかった。家の角を曲がり、裏手にある、薄暗い、土の場所へ、一直線に、飛び込む。

栗林だ。

日が、暮れかかっていた。西の空が、血のような赤黒い色に染まり、栗の木々を、不気味なシルエットとして浮かび上がらせている。

足元の感触が、アスファルトから、湿った、冷たい土に変わった。

チクッ。スニーカーの薄い底を貫通して、何かが刺さった。イガだ。栗の、イガだ。

「……あった!」

樹は、地面に這いつくばった。あった。あった。あった。茶色くて、丸くて、泥にまみれた、「約束」の、かけら。

夢中だった。手袋もしていない、小さな手で、夢中で、栗を拾い始めた。

チクッ。チクチクッ。イガが、手のひらに、容赦なく突き刺さる。痛い。血が滲む。だが、そんなことは、どうでもよかった。

リュックを地面に放り出し、その、開いた口に、栗を、詰め込んでいく。

「うたの、くり」

「イツキ、もってきたよ」

「やくそく、まもるよ」

呪文のように、何度も、何度も、呟きながら、栗を、拾う。拾う。拾う。

手は、あっという間に、泥と、血と、土の汚れで、赤黒く染まっていった。

「…イツキ…」

追いついたおばあちゃんが、その場に、立ち尽くしていた。息が、切れていた。彼女の目に映っていたのは、孫の、無邪気な「栗拾い」ではなかった。

夕闇の中で、傷だらけになりながら、鬼気迫る形相で、泥をかき集める、小さな、何かの、儀式。

おばあちゃんは、かける言葉を、失っていた。ただ、わなわなと、震える唇を、押さえることしか、できなかった。

第十章 支援者

「イツキ!」

低い、地の底から響くような、男の声がした。おばあちゃんの声じゃない。

樹は、泥にまみれた栗を、一つ、胸に抱きしめたまま、錆びついたブリキの人形のように、ゆっくりと、ゆっくりと、振り返った。

闇の中に、仁王立ちの影が、あった。肩で、大きく息をしている。空港からタクシーを飛ばし、駅からここまで、死に物狂いで、走ってきたのだ。

パパだ。

樹の心臓が、氷の手で鷲掴みにされた。

(みつかった)

全身の血が、凍りつく。

(つれてかえられる)

(おわってしまう)

(やくそくが、やぶられる)

樹は、パンパンに栗が詰まった、泥だらけのリュックを、最後の力を振り絞って、体の前に、抱え込んだ。盾にするように。

そして、父親を、睨みつけた。

「いやだ!」

声が、かすれて、音にならなかった。

「イツキ…」

父親――武は、息を、のんだ。彼が、福岡空港から、必死で追いかけてきた、「迷子」の姿は、そこには、なかった。

目の前にいる、この、小さな、泥まみれの生き物は、何だ。

服は、裂け、顔は、土と涙の痕で、まだらに汚れ、なにより、その、両手――血に、まみれていた。イガで、赤黒く、腫れ上がっている。

それでも、その手で、必死に、栗のリュックを、守ろうとしている。

武は、自分が何を追いかけてきたのかを、ようやく、理解した。

福岡の部屋で見た、あの、クレヨンで描かれた、稚拙な、栗の絵。あれは、子供の「空想」ではなかった。「計画書」だった。

あの日、病院で聞き流した、「やくそく」という、ささやき。あれは、子供の「戯言」ではなかった。「契約」だった。

武は、叱責の言葉を、飲み込んだ。安堵の言葉も、出てこなかった。

この四歳の子は、たった一人で、「契約」を、履行したのだ。大人の「常識」や「規則」という、分厚い壁を、その、血まみれの小さな手で、こじ開け、乗り越え、目的地に、たどり着いた。

武は、父親として、「保護」し、「叱る」という、選択肢を、失った。この、小さな戦士の前で、大人の理屈は、あまりにも、無力だった。

武は、ゆっくりと、樹の前に、しゃがみ込んだ。泥のついたズボンの膝が、湿った土に、沈んだ。目線を、合わせた。

「…いやだ…」

樹が、うわ言のように、繰り返す。

「かえらない…」

「うたに、もっていくの…」

武は、そっと、手を伸ばした。そして、樹の、泥だらけの頬を、大きな、手のひらで、包んだ。

樹の体が、ビクリ、と震えた。

「…わかった」

武は、静かに、言った。

「行こう」

「え…」

樹の目から、睨みつけるような、警戒の色が、消えない。

「詩の手術は、終わった頃だ」

武は、息子の、血と泥にまみれた、小さな手を、見た。

「福岡に、」

武は、言葉を、続けた。

「届けるぞ」

彼は、樹が抱えている、あの、重そうなリュックを、取り上げようとは、しなかった。それは、樹が、自分で、届けなければ、意味がない、「約束」の、証だと、わかっていたから。

「立てるか、イツキ」

樹は、信じられない、という顔で、父親を、見つめたまま、こくん、と、小さく、頷いた。

「よし」

武は、立ち上がった。そして、息子の、血の滲む、小さな手を、力強く、握った。

「行くぞ」

武は、この瞬間、息子の「追跡者」であることを、やめた。彼は、樹の「約束」を完遂させるための、世界で、ただ一人の、「支援者」になった。

第四部

第十一章 空路

「武!あなた、何を言ってるの!」

栗林の闇の中、祖母の、金切り声のような、悲鳴が、響いた。

「この子は、怪我をしてるのよ!血が出てる!すぐに、家で、手当てを…!」

常識だった。大人の、正しい、論理だった。

だが、武は、その「正しさ」を、振り払った。

「母さん、ダメだ」

彼は、息子の手を握ったまま、振り向かずに、言った。

「これは、俺が、手当てしちゃ、いけないんだ」

「あなた、気が狂ったの!?」

「ああ、そうかもしれない」

武は、闇の中を、歩き出した。息子の小さな手を、強く、強く、引いて。

「でも、これは、この子が、自分で、終わらせなきゃ、ならないことだ」

祖母の、嗚咽とも、絶叫ともつかない声が、背後で、遠ざかっていく。

タクシーの中、樹は、一言も喋らなかった。ただ、泥だらけのリュックを、膝の上で、抱きしめていた。まるで、爆弾処理班が、信管を、抱えているかのように。

松本空港は、夜の闇に浮かぶ、不時着した、宇宙船のように、白く、まぶしかった。最終便。人の姿は、まばらだった。

武は、樹を、トイレに、連れて行った。一番奥の、洗面台。

「手を、出せ」

樹は、おずおずと、赤黒く染まった、両手を、差し出した。

武は、蛇口を、ひねった。生ぬるいお湯が、流れる。その、お湯が、樹の手に、かかった、瞬間。

「ッ…!」

樹の小さな体が、弓なりに跳ねた。声にならない悲鳴が、喉の奥で詰まった。

染みたのだ。無数の、イガの、刺し傷に。土と、血と、汗が、こびりついた、無数の、傷口に。

「…我慢しろ」

武は、自分の、ポケットから、ハンカチを取り出し、石鹸を泡立てた。そして、息子の、「戦場」だった、その手を洗い始めた。

お湯が、白からピンク色に、そして茶色く濁っていく。

武は、洗っていた。それは、息子の手であると、同時に、自分が、気づけなかった、「約束」の、重さだった。

(こんな、小さな手で)

(痛かっただろう)

(寒かっただろう)

(怖かっただろう)

武は、歯を食いしばった。涙が、こぼれそうになるのを、必死で、こらえた。今、自分が泣くわけにはいかなかった。

空港の小さな売店で、消毒液と、一番大きな絆創膏を、買った。

ロビーの冷たいベンチで、もう一度、樹の、手を取る。傷口を、消毒し、絆創膏を貼っていく。一つ、また、一つと。

「…勲章だ」

武が、そう呟いた。

樹は、包帯だらけになった、自分の手を、不思議そうに、見つめていた。そして、また、リュックを、強く、抱きしめた。

鉄の鳥が、轟音と共に、夜の、空へ、浮かび上がった。

機内は暗く、静かだった。ゴウ、という、低いエンジンの音だけが、響いている。

樹は、窓の外を、見ていた。もう、何にも、見えない、真っ暗な闇を。

やがて、その、まぶたが、重そうに、閉じていく。体が、こてん、と、武の、腕に、もたれかかった。眠ったのだ。

武は、息子の、寝顔を、見た。旅が、始まって、初めて、見る、安心しきった、寝顔。だが、その、眠る手は、まだ、リュックの、肩紐を、固く、固く、握りしめていた。決して、離さない、というように。

武は、思った。「強さ」とは、何だ。社会的な、地位か。金か。理屈で、相手を、言いまかすことか。

違う。今、自分の腕の中で、眠っている、この、小さな、生き物。たった、一つの、「約束」を、守るために、世界を、敵に回した、この、四歳の、意志。

これこそが、「強さ」だ。

武は、自分こそが、この、小さな、息子に、守られていたのだと、知った。冷え切った、大人の、理屈の世界から。

福岡空港には、由紀子が、待っていた。祖母からの、半狂乱の電話で、すべてを、察していた。その顔は、涙で、原型を、留めていなかった。

「イツキ!」

彼女は、眠っている、樹に、駆け寄った。そして、その、泥だらけの、姿と、包帯だらけの、痛々しい、両手を、見て、息を、のんだ。

「あなた…」

由紀子は、夫を、睨みつけた。

「何を、させたの…!この子に、何を…!」

責めていた。当然だった。母親として、当然の、反応だった。

武は、由紀子の、肩を、強く、抱いた。そして、眠る、息子の、汚れた、リュックを、見つめ、言った。

「俺じゃない」

「…え?」

「あいつが、やったんだ。由紀子」

「…なにを…」

「約束を、守ったんだ。あいつは」

武は、それ以上、何も、説明しなかった。説明できる、言葉を、持たなかった。

彼は、妻の、肩を、支えながら、到着ロビーを、歩き出した。

「行くぞ。まだ、終わってない」

病院の、白い、廊下へと、続く、最後の、道程を。

第十二章 枕元の土

病院の廊下は、夜という時間を、吸い尽くして、真っ白に、静まり返っていた。キュッ、キュッ、という、武のスニーカーの音だけが、不気味に、響く。

由紀子は、樹の、もう片方の手を、握りしめていた。その目は、まだ、恐怖と、後悔と、安堵の間を、激しく、行き来している。

『山本 詩 様』

個室の、プレートが、見えた。あの日、「ガラスの箱」だった、PICUではない。峠を、越えたのだ。

武は、ドアノブに、手をかける、直前で、止まった。そして、妻の、由紀子を見た。

「ここからは、」

武は、言った。

「あいつ、一人だ」

「…あなた」

由紀子の、声が、震えた。

「何を、言ってるの。イツキは、こんなに、疲れて…汚れて…手当ても、ちゃんと、しないと…」

「由紀子」

武は、妻の、言葉を、遮った。

「これは、俺たちの、仕事じゃない」

「……」

「俺たちは、ただ、見ていることしか、許されてない。…いや、それすら、本当は、許されてないのかもしれない」

彼は、樹の、前に、しゃがみ込んだ。空港のベンチで、したように。

「イツキ。着いたぞ。詩は、あの中に、いる」

樹の、眠たげな、まぶたが、ゆっくりと、持ち上がった。その、瞳の、奥に、最後の、火が、灯る。

「…うた」

「ああ。行ってこい。お前の、『約束』だ」

武は、樹の背中を、そっと、押した。

由紀子は、息を、のんだ。この、狂気を、止めたかった。息子を、抱きしめて、温かい、ベッドで、寝かせたかった。だが、できなかった。夫の、その、揺るぎない、横顔と、たった、一人で、重いドアを、押そうとしている、息子の、小さな、背中が、彼女の、「常識」や、「母性」を、拒絶していた。

ギイ、と、油の切れた、蝶番が、鳴った。樹の体は、その、隙間に、吸い込まれるように、消えた。

ドアが、閉まる。

由紀子は、夫の、腕に、すがりつくようにして、その場に、崩れ落ちた。

部屋の中は、暗かった。月の光だけが、床に、青白い、四角を、描いていた。

ピッ、ピッ、ピッ。あの、ガラスの箱で、聞いた音と、同じ音が、響いている。だが、あの時よりも、ずっと、穏やかで、力強い、リズムに、聞こえた。

ベッドに、詩が、眠っていた。顔色は、白い。でも、管は、ずっと、少なくなっている。胸のあたりが、白い包帯で、守られている。

樹は、ベッドの、脇に、立った。旅の、終着点。

リュックを、ゆっくりと、肩から、下ろす。床に、置く。チャックを、開ける。ジジジ、という、乾いた音が、静かな、病室に、不似合いに、響いた。

中には、小布施の、土の匂いと、栗が、詰まっていた。

樹は、その、栗を、一つ、取り出した。包帯だらけの、手で。まだ、湿った、土が、こびりついている。

それを、詩の、真っ白な、枕元に、そっと、置いた。

また、一つ。今度は、小さな、葉っぱが、ついている。

また、一つ。割れた、イガの、カケラも、一緒に。

(うた、もってきたよ。やくそく、まもったよ。ながの、いったんだよ。て、いたいよ。でも、もってきたよ)

呪文のように、心の中で、繰り返しながら、栗を、並べていく。

白い、シーツの上が、あっという間に、小布施の、栗林の、一部に、なった。聖域を、泥で、汚すように。あるいは、聖域に、命の、供物を、捧げるように。

リュックが、空になった。

その、瞬間。樹の、体を、支えていた、最後の、糸が、プツン、と、切れた。

急に、まぶたが、鉄のように、重くなる。立って、いられない。

樹は、椅子を、探すことも、しなかった。ただ、その場に、崩れるように、座り込んだ。ベッドの、冷たい、金属フレームに、汚れた、頬を、寄せた。

そのまま、動かなかった。

…麻酔から覚めた詩の枕元には、栗が、置かれていた。

「…イツキ、もってきたよ。やくそく、まもったよ」

疲れ果てて妹のベッドの脇で眠ってしまった樹の手には、まだ、泥と、栗のイガが、ついていた。

詩の、小さな、指先が、ゆっくりと、動いた。そして、白いシーツの上に転がる、その泥だらけの茶色い丸いものに、そっと、触れた。

第十三章 守り人

ドアの外は、無音の、真空だった。武は、壁に、背中を預けていた。由紀子は、夫の、腕に、すがりついたまま、動かない。二人とも、閉ざされたドアの向こう側で何が起きているのか、知る術もなかった。

ただ、時間が一秒、また一秒と刻まれていく。その一秒が、永遠のように長かった。

十分、あるいは、二十分。武は、もう、待てなかった。彼は、妻の、肩を、そっと、引き離した。

「…行くぞ」

由紀子は、怯えた目で、夫を、見上げた。この、ドアを、開けるのが、怖かった。何が、待っていても、怖い。

武は、その、恐怖を、振り払うように、ドアノブに、手を、かけた。金属の、冷たさが、汗ばんだ、手のひらを、刺す。

音を、立てないよう、ミリ単位で、ドアを、押した。

ギ、と、空気が擦れるかすかな音がして、隙間が、できた。そこから、光が、漏れてくる。部屋の中からではない。廊下の無機質な蛍光灯の光が、暗い病室の中へと、差し込んでいく。

そして、その光が情景を、切り取った。

武は息をのんだ。由紀子の指が、夫の服をわしづかみにする。

ピッ、ピッ、ピッ。心音を刻むモニターの音。それは、変わらない。だが、その音の意味が変わっていた。それは、もう「延命」の音ではなかった。「生」そのものの音だった。

詩が目を開けていた。ぼんやりと天井を見ている。その小さな手が、白いシーツの上にある。そして、そのか細い点滴の管に繋がれた手の中に、泥にまみれた茶色い栗が、一つ握られていた。

由紀子が口を押さえた。嗚咽が漏れそうになるのを、必死でこらえている。

枕元は惨状だった。清潔であるべき純白のシーツは、小布施の土と泥と葉のカケラで汚されていた。イガの破片すら落ちている。それは、病院という「無菌室」に対する、最も冒涜的な侵略だった。

そして、その供物の主は、ベッドの脇に倒れていた。樹が、泥だらけのリュックを放り出したまま、床に丸くなって眠っている。包帯だらけの小さな手が、まるで何かをまだ守るかのように、胸の前で固く組まれていた。

武は足が動かなかった。膝が笑っていた。

彼は、息子の「支援者」になったつもりだった。あの栗林で、息子の「強さ」を理解したつもりだった。だが、彼は何もわかっていなかった。彼が理解したつもりだった「強さ」は、そのほんのカケラに過ぎなかった。

この光景。この泥まみれのシーツ。この詩が握りしめている一個の栗。これこそが、あの四歳の小さな体が成し遂げた「約束」の重さ、そのものだった。

武は、自分がこの物語の「支援者」などではなかったことを知った。自分も駅員たちと同じ。ただ、圧倒され、巻き込まれ、その凄まじい意志の力にひれ伏した「傍観者」に過ぎなかった。

その時、ベッドの上で詩の頭がゆっくりと動いた。か細い首が回り、その虚ろな瞳が、ドアの隙間に立つ両親の姿を捉えた。

詩は何も言わなかった。ただ、二人を見た。そして、またゆっくりと顔を正面に戻し、自分の中にある栗を見つめた。その小さな指が栗を握る力が、ほんのわずか強くなった。

武はようやく一歩を踏み出した。彼は看護師を呼ぶこともなかった。シーツの汚れを叱ることもなかった。

部屋の隅にあったパイプ椅子を、音を立てないように持ち上げる。そして、床で眠る樹のすぐ脇に、それを置いた。

彼は、息子を抱き上げてベッドに寝かせることもしなかった。それは、この儀式を汚す行為だと思った。

武は、その椅子に深く腰掛けた。そして、眠る息子の頭にそっと手を置いた。守るように。

由紀子が、もう一つの椅子をベッドの反対側に置いた。彼女は、そこに座ると、両手で自分の口を覆った。涙が、その指の隙間からあふれ落ちていく。だが、声はなかった。

ピッ、ピッ、ピッ。モニターの音だけが響く。

栗を握りしめる妹。泥の中で眠る兄。そして、その二人をただ見つめる父と母。

誰も言葉を発しない。言葉など必要ない空間だった。

四歳の純粋な意志が完遂させた「約束」が、泥だらけのまま、この無菌室を満たしていた。

家族は、この瞬間、この壊れて汚れて、それでも完璧な儀式の中で、ようやくもう一度、一つになった。

(了)


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