ミステリー小説『嘘つきなマドンナ』第9話
千回目の嘘
釜場は、一瞬にして戦場と化した。 影山が率いる男たちが、土足で聖域を踏み荒らす。静香は源司に叫んだ。 「源司さん、凪ちゃんを連れて地下へ!」 「お前さんはどうする!」 「時間を稼ぎます!早く!」
源司は一瞬ためらったが、凪の怯えた顔を見て、決意を固めた。彼は凪の手を引き、北斗七星のひび割れがある壁へと走る。静香は、男たちを引きつけるため、手元にあった石炭のスコップを力任せに投げつけた。金属が床にぶつかる甲高い音が、男たちの注意を引く。
「女を捕えろ!だが殺すな!」 影山の冷たい声が響く。
源司と凪が偽装扉から地下通路へと消えるのを確認し、静香も後を追った。彼女が扉を内側から閉ざした直後、分厚い扉に鈍い衝撃が何度も叩きつけられる。
地下通路は、逃げ場のない鼠の道だった。 湿った壁を伝いながら、三人は闇の奥へと進む。源司はこの通路の構造を知り尽くしていた。 「こっちだ!」 源司は、壁に設置された古いバルブを捻った。ゴオッという音と共に、壁のパイプから高温の蒸気が噴き出し、追ってくる男たちの視界を奪う。それは、この銭湯を知り尽くした者だけができる、知恵の罠だった。
しかし、敵の数は多い。蒸気を突っ切ってきた男たちに、三人は通路の最深部、行き止まりの空間へと追い詰められた。そこは、かつて救護室として使われていた場所らしかった。
「袋の鼠だな」 懐中電灯の光が、三人の絶望した顔を照らし出す。影山が、ゆっくりと暗闇から姿を現した。
「源司さん、あんたほどの男が、こんな女に騙されるとはな。ファイルを渡せば、孫娘の命だけは助けてやろう」 源司は、凪を背後にかばい、レンチを固く握りしめた。 「汚ねえ手で、孫に触るんじゃねえ!」
その言葉を合図に、影山の部下たちが源司に襲い掛かる。老いた職人の抵抗は、数の暴力の前ではあまりにも無力だった。源司は床にねじ伏せられ、レンチが乾いた音を立てて転がった。
「やめて!」 静香が叫ぶ。影山は、勝ち誇ったように笑みを浮かべると、震える凪の腕を掴み、その首筋に冷たいナイフの刃を当てた。 「さあ、女。お前の番だ。ファイルはどこだ?」
静香の頭の中を、無数の思考が稲妻のように駆け巡った。暴力では勝てない。逃げ場もない。残された武器は、もはや彼女の「舌」だけ。銀座で培った、人の心を操るための、嘘だけ。 しかし、嘘をつけば、呪いが完成する。愛した人の記憶が、完全に消滅する。
(いいえ…もう、構わない)
静香は、震える凪を見た。この子の未来を守れるなら。 彼女は、凪にだけ聞こえるように、優しく、しかしはっきりと囁いた。 「凪ちゃん、大丈夫。これはね、ママのお芝居だから」
そして、静香は影山に向き直った。恐怖に怯えるか弱い女の仮面を被り、涙を浮かべて懇願する。 「わ、分かりました!お渡しします!だから、その子だけは…!」
それは、彼女の人生における、999回目の嘘だった。
静香は、わざと震える足取りで、通路の隅にある古い木箱へと向かった。そして、中から油紙に包まれた古い経営書類の束を取り出す。 「…これです」
影山が部下に目配せし、男がファイルを奪い取る。中身を確認した男が、影山に頷いた。 影山が、満足げに口の端を吊り上げた、その瞬間。
静香は、全ての演技を捨てた。 彼女の目に、銀座の夜を支配した「マドンナ」の、冷たく、そして絶対的な光が宿る。
「影山さん。あなた、それで満足なの?」
声の調子が、一変した。影山が、怪訝な顔で静香を見る。
「そのファイルは、確かに本物。でもね、それは私が『あなたに』渡すために用意したもの。…あなたを出し抜こうとしている、あなたのボスには、別のものを渡す契約になっているのよ」
「……何だと?」
「恩田さんと私は、あなたのボスとも裏で繋がっていた。彼が本当に欲しがっているのは、この土地の権利書なんかじゃない。この地下通路の先に眠る、もっと大きな『何か』。そのデータが、本物のファイル。私たちは、あなたをここで切り捨てて、ボスと直接取引する手筈だったの」
静香の言葉は、完璧な虚構だった。しかし、それは組織の末端で常に上役を疑い、出し抜く機会を窺っている影山の猜疑心という名の火薬庫に、見事に火をつけた。 彼の脳裏に、ボスの冷酷な顔と、自分を駒のように扱う数々の仕打ちが蘇る。
「……本物のファイルは、どこにある」 影山の声が、欲望と疑念でかすれていた。
「あなた次第よ。ここで私を殺せば、あなたは一生ボスの駒のまま。でも、私と組めば…」
これが、静香の人生における、千回目の嘘だった。 影山の仲間割れを誘発させ、彼の判断をコンマ数秒でも遅らせるための、魂を賭けた心理的な罠。
その嘘を吐ききった瞬間、静香の頭の中で、何かがぷつりと切れる音がした。 愛した人の、最後の面影が、陽炎のように揺らめき、完全に消滅した。温かい記憶があった場所には、ただ、がらんどうの空虚だけが残った。
しかし、彼女の目に涙はなかった。 影山が、仲間の制止を振り切り、静香に歩み寄ろうとした、その刹那。
ドォォン!! 地下通路の入り口があった釜場の方から、巨大な破壊音が響き渡った。続いて、閃光弾の眩い光と、男たちの怒号が闇を切り裂く。
「警察だ!動くな!」
静香が、高村を逆利用してリークさせた情報に基づき、警察隊が突入してきたのだ。 影山たちの顔が、驚愕と絶望に染まる。
静香は、その光景を、まるで遠い世界の出来事のように、静かに見つめていた。 彼女の心は、空っぽだった。 しかし、その空っぽの心で、彼女は確かに、愛する者たちを守り抜いたのだ。
