ミステリー小説『遠き山に日が落ちて』-仕事は〇〇がなくてはならない-
あらすじ
アルバイトの面接に落ち続け、人生に行き詰まった大学生の結人は、不気味な男・矢島から「交通事故の当たり屋」という危険で高収入な闇バイトに誘われる。最初は戸惑うものの、提示された大金に目がくらみ、犯罪の世界に足を踏み入れてしまう。
矢島の指示に従い、高級車ばかりを狙って次々と金を巻き上げる結人。しかし、ある晩、彼は矢島の意外な姿を目撃する。暴力団を名乗る矢島の正体、そして彼の当たり屋稼業に隠された真の目的とは?
これは、社会の不条理と個人の正義が交錯する、若者の成長と再生の物語。
登場人物紹介
結人(ゆいと) 金髪を脱色した、どこか社会に馴染めない大学生。アルバイトの面接に落ち続け、金に困っている。矢島との出会いをきっかけに、善悪の境界線で揺れ動くことになる。
矢島(やじま) 縦縞のスーツにサングラス、パンチパーマという威圧的な風貌の男。暴力団を名乗るが、その行動には不可解な謎が多い。当たり屋稼業を仕切る、この物語のキーパーソン。
第一章:金の匂い
「またか…」
梅雨明け間近の蒸し暑い午後、アスファルトの熱が陽炎となって揺らいでいた。蝉の声が耳朶に貼り付くように響く中、大学生の結人は、駅前の雑居ビルから力なく出てきた。今日で3度目のアルバイト面接不合格。金髪に脱色した自分の髪が、まるで社会の扉を固く閉ざす鎖のように感じられた。
結人は、照りつける日差しを避け、ガードレールに腰を下ろした。アスファルトの熱がジーンズ越しにじりじりと伝わってくる。目の前を、疲れた顔のサラリーマンや、イヤホンで音楽を聴きながら足早に通り過ぎる女子高生が行き交う。社会のレールから外れた自分だけが、その熱波の中に取り残されているようだった。
「いいバイトないかなあ…」
使い古された求人誌を力なくめくる指が止まった瞬間、背後からねっとりとした声が降ってきた。
「おい」
結人はびくりと肩を跳ね上げ、振り返った。そこに立っていたのは、時代錯誤な男だった。深紫色の縦縞スーツに歪んだサングラス、刈り上げられた頭頂部にはパンチパーマ。安物の香水の匂いが、じめっとした空気に溶け込んでいる。
男は、脂ぎった笑みを浮かべ、調子のいい口ぶりで言った。「いい仕事があるんだが、若い衆。どうだい?」
警戒しながらも、結人は曖昧に頷いた。男は得意げに、けばけばしい名刺を差し出す。黒地に金色の縁取り。奇妙な書体でほとんど読めないが、一番下に辛うじて**「山西組」**の三文字が目に飛び込んできた。
「え…暴力団…?」
男はニヤリと笑い、低い声で言った。「まあ、堅苦しいことは抜きだ。簡単に大金が稼げる。あんたなら、すぐにコツを掴めると思うぜ」
「どんな仕事、ですか?」
男は周囲を気にするように小さい声で囁いた。「ちょっとな、車のところに行って、かすってくるだけでいいんだ」
「かすってくる?」
「まあ、そうだな」男はサングラスの奥で目を細めた。「いわゆる、当たり屋だ」
結人は、背筋が凍るのを感じた。「嫌です!そんな危ないこと、絶対にしたくありません!」
きっぱりと拒否すると、男は肩をすくめて立ち去ろうとした。その分厚い唇から、悪魔の囁きが滑り落ちた。「そうかい。まあ、一回当たれば100万円なんだけどな」
夕暮れが迫り、オレンジ色の光が街を染め始める中、その金額はあまりにも非現実的で、魅力的だった。喉の奥が渇き、心臓が早鐘のように打ち始める。
「ちょ、ちょっと待ってください!」結人は、反射的に叫んでいた。
第二章:歪んだ達成感
実際にやってみると、それは予想外にあっけなかった。
矢島と名乗る男の指示は単純だった。交通量の少ない裏道を選び、ターゲットの車が減速した瞬間を見計らって飛び出す。ただし、本当にぶつかる直前で、大げさに転がる。あくまで**「事故」に見せかけ、怪我をした被害者を演じるのだ**。
最初のターゲットは、運転手が若い女性の乗る高級外車だった。矢島の合図で、結人は飛び出した。迫りくる金属の塊に恐怖を感じたが、直前で体を丸めて地面に倒れ込んだ。鈍い衝撃が腕を掠めたが、大した痛みではない。
「痛い!痛い!」
苦悶の表情を浮かべ、地面をのたうち回ると、案の定、運転席から慌てた若い女性が飛び出してきた。そこからは、矢島の独壇場だった。あの威圧的な風貌で近づき、低い声で何かを囁くと、女性は蒼白な顔で震えながら、財布から札束を取り出した。
「これで…どうか穏便に…」
矢島は、札束を数えることもなく受け取ると、「まあ、今回はこれで勘弁してやる」と捨て台詞を残し、結人を引き連れてその場を後にした。
受け取った札束は、信じられないほど分厚かった。2人で分け、結人の手元には200万円が残った。衝撃的な金額に、手の震えが止まらない。しかし、その高揚感はどこか薄っぺらで、まるで自分の人生ではないような、奇妙な虚しさが胸の奥に広がっていた。
その後も、同じような手口が繰り返された。ターゲットは、高級車に乗る、どこか焦っているような人間が多かった。医者、地方議員、羽振りの良さそうな中小企業の社長…。彼らは皆、矢島の凄みに恐れをなし、警察沙汰になるのを何よりも恐れていた。
一日が終わる頃には、2人の手元にはざっと1000万円を超える金が集まっていた。
「よくやったな、若造。飲み込みが早い。大したもんだ」
薄暗い倉庫のような場所に積まれた札束を眺めながら、矢島は満足そうに頷いた。バイトの面接に落ち続け、社会から爪弾きにされているような気分だった結人は、一夜にして高額を手に入れた高揚感に包まれていた。自分がまばゆいばかりの金色の光を浴びているような錯覚を覚えた。
その時、矢島はふと、寂しげな表情で夕焼け空を見上げた。工場の隙間から見える空は、深いオレンジ色に染まっている。
「遠き山に日は落ちて、星は空をちりばめぬ、今日のわざを成し終えて」
低い声で、矢島は子守唄のように歌い始めた。
「若造、仕事ってのはな、こうして達成感がなくっちゃ駄目なんだ」
「ああ」結人は、まだ現実感が湧かないまま、ぼんやりと答えた。
「これ、お前の分け前だ。しっかり持っとけ」
矢島は、さらに分厚い札束を結人に手渡した。昨日の200万円に加えて、今日稼いだ分の分け前だという。ずしりとした重みが、非現実的な富を実感させた。
「名刺に電話番号書いてあるから、また金に困ったら連絡してこい」
そう言い残して、矢島は倉庫の奥へと消えていった。
第三章:真実の顔
生まれて初めての大金を手に、結人は足取りも軽く街へ繰り出した。向かった先は、近所の場末のラーメン屋だった。カウンターに座り、餃子にチャーハン、そして一番高い特製チャーシュー麺を注文した。冷えたビールを煽りながら、一人で祝杯をあげる。
満腹になり、爪楊枝を咥えながら店の外に出ると、夕闇が降り始めていた。オレンジと紫が混ざり合う空の下、結人はあてもなく路地裏を歩いた。
すると、薄暗い道の先に、見慣れた男の後ろ姿が見えた。矢島だ。その前に、背中を丸めた老婆が立っている。何かを受け取ったのか、老婆は何度も深々と頭を下げ、震える声で感謝の言葉を述べていた。
「ありがとう…本当にありがとう。これで、娘の入院費が…」
老婆の皴だらけの手には、まさしく、さっき矢島が隠し持っていた札束が握られていた。
結人は、息をのんで物陰に隠れた。
路地裏の薄暗がり。老婆の震える手には、間違いなく、あの札束が握られていた。矢島が俺に手渡した、あの分厚い札束。
「本当に…ありがとうございました。これで、娘の入院費が…」
「もういい、婆さん。気にすんな」
矢島はそう言って、優しく老婆の肩を叩いた。サングラスの奥の目は見えないが、その声にはいつもの威圧感はなく、心底からの温かさが滲み出ていた。
矢島は、自分の分け前を、そのまま老婆に渡していたのだ。
結人の頭の中は、激しく混乱していた。暴力団員。当たり屋。そして、その金で難病の娘を持つ老婆を助ける。あまりにも矛盾した事実が、彼の常識を根底から揺るがす。
矢島は、老婆と別れると、再びあのサングラスをかけ、夜の闇の中に消えていった。後に残された結人は、地面に足が張り付いたように、その場から動けなかった。
(あの人は…一体何なんだ?)
ラーメンの熱気も、手の中の札束の感触も、すべてが遠い世界の出来事のように感じられた。
翌日、結人はいてもたってもいられず、矢島に電話をかけた。昨日の老婆のこと、そして彼のやっていることの本当の意味を知りたいと思った。
「あの…昨日の婆さんのことなんですけど…あれは一体…」
電話の向こうで、矢島はしばらく沈黙した後、低い声で答えた。「ああ、あれか。あの婆さんはな、難病の娘さんの入院費に困ってたんだ」
「それで…あの金を…」
「世の中にはな、若造。法じゃどうにもならねえ悪党がたくさんいるんだ。そして、そういう奴らに踏みにじられて、誰にも助けを求められない人間もな」矢島の声には、かすかな怒りが混じっていた。「俺が当たり屋をやってるのは、そういう悪党どもから巻き上げた金で、本当に困ってる奴らを助けるためだ。世間から見りゃ犯罪者だろうよ。だがな、俺は俺のやり方で、この腐った世の中を少しでもマシにしてやりたいんだ」
結人は息を呑んだ。矢島が狙っていたのは、皆、裏で汚いことをやっている人間ばかりだった。高利貸し、悪徳企業の経営者、汚職政治家…。彼らは皆、弱者を食い物にし、法を都合よく利用して私腹を肥やしている。矢島は、そういう人間たちから「示談金」という名目で金を奪い、それを本当に困っている人々に分け与えていたのだ。
「あんた…まさか…現代の石川五右衛門…みたいな…?」
結人の問いに、矢島は乾いた笑いを返した。「五右衛門は最後は釜茹でだ。俺も、いつかそうなるかもしれんな。だが、それまで、少しでも多くの人間を助けられたら、それでいいんだ」
電話を切った後、結人は自室のベッドに倒れ込んだ。天井のシミを見つめながら、昨夜の光景を思い出していた。老婆の涙、矢島の優しい眼差し、そして、彼が語った社会の闇。
当たり屋は犯罪だ。それは紛れもない事実だ。しかし、その裏に隠された矢島の孤独な戦いを知ってしまった今、結人の心は激しく揺れていた。
第四章:それぞれの正義
数日後、結人は矢島に再び連絡を取った。「あの…俺も、あんたと一緒に…」
矢島は、電話口で少し考え込んだ後、言った。「お前はまだ若い。こんな危ない橋を渡る必要はない。それに、お前にはもっと別の生き方があるはずだ」
だが、結人の決意は固かった。彼は、矢島の傍で、彼の「仕事」を手伝うことを決めた。それは、単なる金儲けではなく、彼なりの正義を貫くための戦いだった。
しかし、ある晩、いつものように「仕事」を終え、アジトに戻った矢島と結人を、見慣れない男たちが取り囲んだ。彼らは、矢島が過去に「当たった」大企業の息がかかった連中だった。
「お前らが、うちの社長に恥をかかせたな!」
凄む男たちに、矢島は冷静に言った。「あんたらが、弱者から搾り取った金だろうが。少しばかり、分けてもらっただけだ」
激しい乱闘の末、矢島は深手を負い、警察に連行された。結人も捕らえられたが、未成年だったことと、矢島の指示に従っていたという供述から、比較的軽い処分で済んだ。
終章:遠き山に日が落ちて
刑期を終えて出所した結人は、かつての金髪を黒く染め、真面目にアルバイトを探し始めた。矢島との日々は、彼に「仕事」に対する価値観を大きく変えさせていた。
**「今日のわざを成し終えて、心軽く安らえば」**という矢島の言葉が、いつも心の中にあった。
以前のように、楽してお金を稼ぐことばかり考えるのではなく、彼は、誰かの役に立つ仕事、自分が誇れる仕事を見つけたいと強く思うようになった。
数ヶ月後、結人は小さなカフェのアルバイトとして働き始めていた。毎日、丁寧にコーヒーを淹れ、笑顔で客を迎える。決して楽な仕事ではないが、客の「ありがとう」という言葉や、店長の「助かるよ」という言葉が、かつての当たり屋稼業では決して味わえなかった、温かい達成感を彼の胸に運んでくる。
夕暮れ時、仕事終わりに一人で帰る道すがら、結人はふと空を見上げた。西の空は赤く染まり、遠くの山影がぼんやりと浮かんでいる。彼は、あの時、矢島が寂しそうに歌っていた歌を、小さく口ずさんだ。
毎日、必ず、何かを達成して生きる。遠き山に日が落ちるころ、その達成感を味わいながら、この歌を歌う。
遠き山に 日は落ちて 星は空を ちりばめぬ きょうのわざを なし終えて 心軽く 安らえば 風は涼し この夕べ いざや 楽しき まどいせん まどいせん
やみに燃えし かがり火は 炎今は 鎮(しず)まりて 眠れ安く いこえよと さそうごとく 消えゆけば 安き御手(みて)に 守られて いざや 楽しき 夢を見ん 夢を見ん
彼は、まだ小さな一歩を踏み出したばかりだ。しかし、その一歩は、彼にとって人生の方向を変える、大きな一歩だった。
『遠き山に日が落ちて』
完
