【思考の補助線 #7】データ至上主義の時代に、福祉の現場から「第3の道」を語る
こんにちは。
最近、飲茶さんの名著『正義の教室』を読み返しながら、現代の哲学、そして自分が日々向き合っている「福祉の現場」について深く思考を巡らせています。
現代は、あらゆるものがデータやエビデンス、効率性で評価される「データ至上主義」の時代です。ビジネスの世界だけでなく、医療や福祉の現場にも「生産性」や「費用対効果」の波が押し寄せています。
しかし、現場で一人ひとりの利用者、特に障がいのある方たちの「生活」に伴走していると、どうしても割り切れない違和感が残ります。
「私たちの仕事の価値は、本当に数字だけで測れるのだろうか?」
今回は、マルクス・ガブリエルやヴィクトール・フランクルの思想、そして「現象学」という補助線を引きながら、この違和感の正体と、私たちが日々行っていることの本当の価値について言語化してみたいと思います。
ここで言う「第3の道」とは、かつて人間を縛り付けた「全体主義(第1の道)」でもなく、現代を覆う「正義なんて人それぞれ、市場に任せればいい」という冷徹な「相対主義・資本主義(第2の道)」でもない、新しい社会のあり方のことです。
1. 「生存(データ)」から「生活(尊厳)」へ
効率やデータを重視する立場から見れば、福祉は「コスト(費用)」や「再分配」の対象に見えるかもしれません。
しかし、現代思想の旗手であるマルクス・ガブリエルが提唱する「倫理的資本主義」の視点に立つと、見え方が真逆になります。ガブリエルは、これからの経済は「量」ではなく「質」の成長へ転換すべきだと説きます。
福祉の本質は、単なる生物的な「生存(延命やコスト管理)」のサポートではありません。その人がその人らしく在るための「生活(人間らしい営みと尊厳)」を守ることです。
ガブリエルの論理を借りるなら、「人間の尊厳が守られている状態」こそが、社会における最も高度なインフラであり、福祉従事者は日々、そのインフラという目に見えない価値を「生産」しているのです。
2. 日本的な「感性」を、「理性」の言葉に変える
福祉の現場にいると、「言葉にならないけれど、確かにいま、この人と私の間に通じ合うものがあった」という瞬間に出会います。障がいのある方が発するかすかなサイン、表情の揺らぎを感知する力。これは非常に日本的な、繊細な「感性(理性の外側にある正義)」だと言えます。
しかし、ただ「私の感性です」「愛着です」と言っているだけでは、データや効率を求める世間や行政を説得することはできません。
「感性」を説明するために、「理性・言語化」が必要なのです。
ここで大きなヒントになるのが、昔からある哲学の系譜「現象学」です。
現象学とは、一言で言えば「主観的な経験を、徹底的に精密に記述する技術」です。「なんとなく不機嫌だ」で終わらせず、その時の空間、音、身体の距離感をスローモーションのように言葉に落とし込んでいく。
自分の先入観を一旦脇に置く「エポケー(判断停止)」という手法を使うことで、「なぜかわからないが、こう感じた」という感性の正体を、「客観的な事実の記述」へと翻訳することができます。
私たちが感性を言語化しようとするのは、自分の直感を疑っているからではありません。むしろ、その感性で掴んだ「目の前の人の尊厳」という真実を、誰にも否定させないための「鎧」をまとう行為なのです。
3. 共にある「新たな意味の場」の共創
心理学者であり、アウシュヴィッツの生存者でもあるヴィクトール・フランクルは、「どんな極限状態であっても、人生には客観的な『意味』が存在し、人間はそれを見出すことができる」と説きました。
福祉の仕事は、社会が勝手に決めた「標準」という狭い枠組み(世界)からこぼれ落ちてしまいそうな個人の物語を、「もう一つの、等しく価値のある意味の場」として確立させる、極めてクリエイティブな営みです。
「助ける側/助けられる側」という固定的な関係を超えて、利用者の方と「新たな意味の場をいっしょに作る」。
データは解釈次第でなんとでも言えますが、現場で交わされる泥臭い「対話」と、そこにある「生活の事実」はごまかせません。
大きなデータや経済成長という「世界」に人間を無理やり合わせるのではなく、個々の「生活と意味」を事実として守るために、技術やデータを道具として使いこなすこと。
これこそが、私たちが現場から発信できる、これからの社会の「第3の道」なのではないでしょうか。
日々、現場で葛藤されている皆さんは、いま自分の「感性」をどう言葉にしていますか?
