見出し画像

見抜かれちゃってた?!SNS…

《画像はイメージです。記事の内容とは関係ありません(C)「ファンタスティック・プラネット」より》 

 現在ほどSNSが普及/発達していなかったおよそ20年ほど前のこと、ミュージシャン兼文筆家である菊地成孔(キクチナルヨシ)氏が自身のラジオ番組にて、当時はまだ海の物とも山の物ともつかないw?! “SNS”というものに対し次のように明言していたのをリスナーだった私は未だによく覚えている。 彼はこう言った 「SNSは『称賛(讚)“Cheer”』か『批判“Judge”』のどちらかしかない」と。 しかし当時の私は菊地氏のその指摘に全くといっていい程 ピンときていなかった(ということを正直に申し上げておく)、、何故なら当時の私にとってSNSはまさに天啓というか救済というかまぁどちらにせよかなり大袈裟な言い方になるが…とにもかくにもそれくらいの大発明だと私には感じられていたからだ。 というのも、SNS登場以前は今こうして【自分の思うことや考えたことを言葉にかえて自分なりに文章化したもの】を誰かに読んでもらう←ということが決して当たり前では無かったからだ。  その頃は文通をしている、あるいは学校での発表等でなければ、誰かに自分の書いたものを読んで貰うことは→コンクールや投稿またはラブレター/ファンレターなどがそうであったがだからといって「あなたの文をしかと受けとりましたよ!」というリアクションを相手から受けとることは殆ど稀であった。逆に言うと私の書いたものが相手の要望と一致したときだけ→コンクールであれば「入賞作品」として、投稿なら「掲載」という形で、ファンレター/ラブレターであれば返事が届くことによって「自分の書いたものが確かに読まれたんだ…相手に届いていたんだ…」という確証を得られるが、そうでなかった場合 果たして読まれたかどうか…イヤそもそも届いていたかどうかすら実際こちらは知らないまま… ということになるわけで、、 といった体験を私はイヤになるほど経てきたからこそSNSというシステム?に真底驚いたのだ。 私がSNSを【大発明だ】と感じたのはそこのところの葛藤をあっちう間にかっさらうが如く解消していった点にあった。 菊地成孔氏が述べた称賛か批判かにそこまでピンとこなかったのも…私の願望がそもそも…伝えたい内容などでは無く【自分の書いたものが読まれたか読まれなかったか】がちゃんと掌握できる(確認することが可能となった)という点のみにフォーカスされていたからだ。 「ちゃんと届いてるんだ」という確信ほど安心感は無かった、ていうか安定といったほうがいいだろうか。 大切だったのは、思いが叶うかどうかではなく、届いているかどうかそれだけだ。 そこにある、という事実を相互に確かめられればそれがもう答えだ。 それがたった一人であれそれはすでに全人類と同じ( *´艸`)。 私如き私自身がそれをそう感じられるということは、大きく解釈すると→創造主はなおさら我々人間をひとりひとりちゃんとご覧になられている、ということにつながる。 つまりそれが信仰心と呼ばれているものらしい。 信仰は決して大げさなものではなくこんな辺鄙な、取るに足らないひとりの人間のそばに転がっているのだ。 っ おおっと、、“SNS”やら称賛か批判かやら大発明やら信仰やらと大きな切り口で書いてしまったが たとえこのような独りよがりの仮説ともつかない自己満足の文章もこうしていけしゃあしゃあと投稿しちゃえるこのシステムに対する感謝と同時に大きなお世話感まんさいのおはなしも一方的といえば一方的に公開できるんだもんな……ウン、怖いっちゃぁ怖い。 しかしちっぽけなほんとにごくちっぽけなほんの些細なSNS上での出会いが何かを救ったり救われたりするそんな1ミクロンの可能性は確かにあるのだ。 そんな些細な出会いのために できればSNSはあって欲しい。とはいってもすべてのことは相対という関係性。 科学は再現性だと言われているがそこには、浮かんでは消え、消えうべく永遠に浮かび上がる感情という不可思議なあらわれの普遍性をツンデレで受けとめるのもまた一種の科学かもしれないという笑い話もある、いや、それはさすがに無理やりか?! ともあれ、このSNSのことについても結局は人間について掘り進めていけば自ずと露わになる“人間の正体は所詮こういうもんですワ”という「諦め」の類いなのか。 それとも… 未知なるものがいつしか身近になりすぎると人間はリスペクトやイマジネーションを忘れて「つまらなさ」の濁流に流されがちよね~というこの現実をさぁどうしてゆこうかしら?!といういわばアイデアのひとつなのか。 ともあれ現在人間は、SNSをつかって賞賛と批判を行ったり来たりする段階に長居しては『共感』をシェアしあうことを貪りあっている状態だがこれから先いったいどうなっていくのか私にわかるはずもない。 AIの発達によって我々人間の生活がどうなっていくかも当然私にはわからない。 ただ、私にわかるのは「私は私を楽しむ一番の娯楽者になるよう工夫をこらし浮かんだアイデアを自分のポテンシャルを開花させるのにつかいまくっていこう!どこまでも拾いまくっていこう!そしてその展開をいちばんいい席で見ていってやろう!」という気持ちを忘れない私がいる、ということだけだ。 言葉ってやつはそのための薪 のようなもので 私はその薪を燃やして 文章という炎(ひ)にする。 寒い季節はなおさら 炎が、必要になる。 空腹には炎に鍋をかけよう。 自分以外の誰かがそこであたたまる可能性もある。 SNSが誰かをあたため 誰かの空腹をみたす炎 になれればいいのに “炎上”の最適化( *´艸`) 炎の本来的使い方( *´艸`) 祈りをこめて。 なんつって(/ω\*) ほなまた

いいなと思ったら応援しよう!