歴代天皇と皇后/妃-6:景行天皇
垂仁天皇が崩御し、第三皇子大足彦尊が景行天皇として即位する。
翌年に、孝霊天皇の皇子若日子建吉備津日子命の娘針間之伊那毘能大郎女を皇后に迎え、景行四年に崇神天皇と尾張大海媛の皇子八坂入彦命の娘八尺之入日売命を妃に迎える。さらに、日向から三人の妃を迎える。
(*)ヘッダー画像は宮内庁HPに掲載された景行天皇陵(渋谷向山古墳)

皇后:針間之伊那毘能大郎女
孝霊天皇と淡路島出身とされる妃絙某弟の孫で景行天皇の皇后に迎えられ、妹の伊那毘若郎女は妃となる。それ以上の系譜は不明だが、吉備系が皇統に組み込まれるのは初めてではないだろうか。もっとも、孝霊天皇の妃となった倭国香媛(蠅伊呂泥)と絙某弟の姉妹は、淡路島を治めた和知都美命の皇女であり、淡路島が吉備の支配下にあったとすれば間接的に関係が始まっていたとも言えるが。
皇統の拡大
吉備系から皇后を迎えたことに加え、景行朝で画期と思えるのは(古事記にはないが)自ら熊襲征伐に赴き日向から妃を迎えたことだ。
系譜にあるように、大和で即位した神武天皇が三嶋溝杭命の娘を娶り、次代からは磯城県主を始め畿内の各有力豪族との婚姻を軸に同盟関係を広げ、続く歴代天皇も物部氏や淡路、丹波、尾張など畿内以外の勢力と婚姻を通じた同盟を拡大し、着実に力を蓄えたのだろう。そして、どちらかと言えばローカルだったヤマト同盟が(真偽は別として)九州親征や小碓命の西征・東征として表現されるような覇権行動により、大和を中心とする連合王権へと拡大したように思う。



景行天皇の親征
景行天皇の親征や小碓命の西征・東征は、雄略天皇に比定される倭王武の上表文(478年)にある「昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し…」といった事蹟そのもののように思える。しかし、それまでのように四道将軍といった臣下を派遣するのではなく天皇自ら九州まで赴くのかと驚かされる一方で、移動手段と率いた軍勢について疑問が残る。
歴代天皇の存在や在位期間について諸説あり判然としない上、古事記に景行天皇の九州親征は記されていない。仮に景行天皇の即位が四世紀初頭だとして、瀬戸内海から穴戸経由で豊前に上陸したとすると、数十人、数百人の軍勢を従えた(あるいは途中で同盟軍が合流した)のだろうが、それだけ大量の軍勢を運ぶ手段があったのだろうか。
「理系脳で紐解く日本の古代史」の著者斎藤茂樹氏は、五世紀より前に大船団で瀬戸内海を航行するのは不可能としている。小碓命は少数の従者と共に熊襲征伐に赴いたとあるが、天皇自らが少人数で九州に渡ったとは考えられない。しかも、豊前に着いて土蜘蛛一族を征伐し日向に向かい、熊襲征伐に備え行宮高屋宮を設け征伐後に六年間滞在したとある。再び熊襲征伐に小碓命を派遣したように完全に制圧したとも言えず、護衛を考えても少人数での親征とは考えられない。
しかし、そもそも景行天皇の実在性を疑えば親征の信憑性も揺らぐが、仮にそうだとしても日向から妃を三人も娶ったとされることや、西都原古墳群が四世紀初頭から築造されたことからすれば、いずれにしても何らかの形で大和王権の日向進出はあったのだろう。とは言え、日向は神倭伊波礼毘古命が東征に向かった出航の地だとすると、そもそも関係は継続していたとも考えられるが、そうなると堂々巡りで訳が分からなくなる… 😅
西都原古墳群
標高70mの西都原台地に四世紀初頭から七世紀までに築造された319基の古墳が現存し、中でも五世紀前半の築造とされる男狭穂塚古墳は日本最大の帆立貝形古墳で、被葬者は不明だが宮内庁の推定では瓊瓊杵尊とされる。また、同時期の築造とされる隣接の女狭穂塚古墳は九州最大の前方後円墳で、被葬者は不明ながら宮内庁の推定で木花開耶姫とされる。
しかし、被葬者を仁徳天皇の后日向髪長媛と媛の父諸県君牛諸とする説もあり、築造時期が五世紀前半だとすると神話とされる二人よりは説得力があるように思える。

男狭穂塚古墳が見えるかと思ったが
森が見えるだけだった😅(23/11/9)

小碓命(倭建命)の東征と西征
日本書紀と古事記で小碓命の事蹟内容にかなり違いがあるが、景行二十七年に熊襲が再び反旗を翻したため、肥後国と大隈国の首長である熊曾建兄弟の征伐の命を受け16歳の小碓命が現地に赴き、宴席で女装し熊襲建兄弟を討った(熊襲建の娘市乾鹿文が父を裏切ったとも)とされる。
それ以降、倭建命を名乗り山の神や河の神、穴戸の神を平定し出雲に入り、出雲建に大刀あわせを申し出た際に、出雲建の太刀を偽物と交換して殺め大和に戻る。
しかし、景行四十年に東国平定を命じられ赴く。途中で火攻めに遭うものの叔母の倭姫から授けられた天叢雲剣(草那藝剣)で草を薙ぎ倒し難を逃れ、上総、甲斐、科野(書紀では蝦夷を討つため陸奥まで)を経て尾張に戻り、美夜受比売を娶る。
そして、草那藝剣を美夜受比売に預けたまま伊吹山の神を討ちに行き病の身になるが、大和を目指す帰路の能褒野で力尽き(*)、埋葬された後に白鳥になり西に飛び立ったとされる。
(*)以前、Amazon Primeで観た映画「日本誕生(1959年、東宝)」では、都からの刺客が山中で迎え討ち最期を迎えたとする筋書きだった記憶があるが、そうした見解もあるのだろうか。
それにしても、天皇の期待に応え功績を上げた嫡男にも関わらず後継天皇に即位することがなかった何とも救いようのない存在だ。


治定されている「能褒野王塚古墳」

だが、気になるのは小碓命が騙し討ちで熊襲建を討ったとされることだ。
従者が少人数では面と向かって戦を仕掛けられなかったとすれば、女装するのも窮余の一策だったのだろうが、皇子の戦い方として非難されるようなことではないのだろうか。
さらに、続いて向かった出雲で出雲建を討ったとするが、垂仁朝で出雲振根が弟の飯入根の剣を木刀に変えて殺めたとされる内容と瓜二つだ。そして、東国平定の際に火攻めを逃れる故事も、葦原色許男神(大国主命)が須佐之男命から受けた野原での焼き討ちにも似ている。
そうなると創作の疑念を抱かせるものの、堂々と正史に載せることからすると、そうした行為を卑怯だと非難するような時代背景ではなかったのかも知れないが、何とも釈然としないところだ。
加えて、首長一人を討っただけで周りが帰順するものなのだろうかという疑問も残る。もっとも、中世では大将の首を討ち取れば戦が終わるようなこともあるので、古代の戦さはそんなものなのかも知れない。


古社「酒折宮」の鳥居(26/4/20)

皇后:八尺之入日売命
崇神天皇と尾張大海媛の皇子八坂入彦命の娘で、叔母には倭大國魂神を宮外奉斎した沼名木之入日売命がいる。景行四年に妃になるが、当初、景行天皇は妹の弟姫を見初めたものの、弟姫は固辞して姉の八尺之入日売命を推薦したとされる。
そして、景行五十二年に皇后の針間之伊那毘能大郎女が崩御すると皇后に立てられた。また、稚足彦尊(成務天皇)を始め13人の御子を産んだとされ驚かされるが、それどころか景行天皇に至っては10人の妃との間に80人もの御子がいたそうで想像を絶するものがある。
注目するのは、成務天皇の次弟五百城入彦皇子の孫娘三人が応神天皇の皇后と妃に迎えられたことだ。後継皇后の皇子が次代の天皇に就き曾孫が皇后と妃に就くということは、八尺之入日売命が前皇后針間之伊那毘能大郎女よりも寵愛を受けたということなのだろうか。
一方、針間之伊那毘能大郎女の御子倭建命と垂仁天皇の皇女石衝毘売命との御子帯中津日子命が仲哀天皇として即位したとされるので一概にそうとも言えないが、帯中津日子命は倭建命崩御の三十八年後に生まれたとされるようで、仲哀天皇の実在性にも疑問があり微妙なところだ。倭建命が天皇として即位できなかったのは、皇后と妃あるいは背後に控える勢力同士の確執にあったのも知れない。
こうして、大和王権は東から西まで俯瞰できる体制になってきたが、皇統は皇子の成務天皇と孫の仲哀天皇へと続く。
