いい人の「一生懸命」が、知らないうちにミサイルになる話―私たちは誰のゲームをプレイしているのか
「自分は悪いことなんてしていない」
そう思っている人ほど、自分の行動が何を生み出しているのか、見えなくなることがある。
少し怖い話をします。
スマホを眺めていたら、日本の大学研究者と海外の大学との共同研究について、気になるニュースが目に入りました。
日本の大学研究者が、軍事分野との関係が指摘されている海外の大学や研究機関と共同で発表した論文が、10年間で大きく増えているという話です。
このニュースを見て、最初は「大学の研究が軍事利用されるのは危ないのではないか」と思いました。
実際、ネット上でも、「日本の大学は平和ボケしている」「日本の技術が海外に流れているのではないか」といった批判が出ています。
でも、少し考えてみると、もっと怖い問題が見えてきます。
それは、「悪い人が悪いことをした」という話ではないかもしれない、ということです。
研究者たちは、ただ研究をしていた。
もっと良い研究成果を出したい。
世界中の研究者と協力したい。
自分たちだけではできない実験をしたい。
そのために、一生懸命だった。
むしろ、研究者としては真面目だったのかもしれません。
では、なぜそんな「一生懸命」が、怖いものになり得るのでしょうか。
真面目にゲームをクリアしているだけなのに
大学の研究者には、ある種の「ゲームのルール」があります。
新しい発見をする。
論文を書く。
研究成果を発表する。
優れた研究者と共同研究する。
そして、より大きな成果を残していく。
これは、決して悪いことではありません。
むしろ研究を進めるためには、とても重要なことです。
海外の大学に、自分たちより優れた設備がある。
豊富な研究資金がある。
自分にはない技術を持った研究者がいる。
そんな相手から「一緒に研究しませんか」と誘われたら、研究者として魅力を感じるのは当然でしょう。
「一緒にやれば、もっとすごい研究ができるかもしれない」
そう考えて、共同研究を始める。
そこに悪意があるとは限りません。
むしろ、「もっと良い研究をしたい」という純粋な動機から始まっている可能性があります。
だからこそ、難しい。
人間は、悪意によって動かされるときだけ危険なのではありません。
善意によって動いているときにも、危険な場所へ進んでしまうことがあるからです。
スパイはいらない。「パズルのピース」を集めればいい
たとえば、ある研究者が「飛行機をより安全にするための新素材」を研究していたとします。
非常に高い温度に耐えられる素材を開発し、その製造方法を論文として公開した。
研究者にとって、それは人間の移動をより安全にするための研究です。
ところが、その技術を別の角度から見ると、違った価値が生まれる可能性があります。
航空機だけではなく、ロケットやミサイルなど、軍事技術に応用できるかもしれない。
ここで重要なのは、研究者が「ミサイルを作ろう」と考えていたわけではないことです。
本人の目的と、技術を利用する側の目的は、必ずしも一致しません。
そして現代の科学技術では、一つの研究だけですべてが完成するとは限りません。
素材の研究。
画像認識の研究。
通信技術。
人工知能。
制御技術。
それぞれ単独で見れば、平和的な研究に見えるものもあります。
しかし、それらが組み合わさったとき、まったく別の技術になる可能性がある。
だから、スパイが研究室に忍び込んで秘密を盗む必要すらない。
公開された論文を読む。
必要な技術を探す。
別の研究成果と組み合わせる。
そうやって、巨大なパズルが完成していく。
研究者が善意で置いた一つのピースが、本人の知らない場所で別の絵を完成させることがある。
「自分は真面目にやっている」が、なぜ怖いのか
ここで、少しだけ話を身近なところまで戻したいと思います。
「自分はルールを守っている」
「言われたことをきちんとやっている」
「誰かを傷つけようとしているわけではない」
こうした感覚は、私たちの日常にもあります。
会社では、上司から頼まれた仕事を一生懸命こなす。
学校では、先生や先輩の指示に従う。
チームでは、決められた役割を果たす。
それ自体は悪いことではありません。
問題は、自分の行動が「全体として何を生み出しているのか」を考えなくなったときです。
たとえば、誰か一人を仲間外れにすることを、最初は「みんながやっているから」と受け入れる。
仕事で無理な要求をされても、「自分の担当だから」と黙って処理する。
組織の中で疑問を感じても、「決まりだから」と考えることをやめる。
一人ひとりは、ただ目の前の仕事をこなしているだけかもしれません。
でも、その小さな行動が積み重なった先に、誰かを傷つける仕組みが完成していることがあります。
怖いのは「悪い人」ではなく、「普通の人たち」かもしれない
私たちは、悪いことが起きると、その原因を「悪い人」に求めたくなります。
悪い人がいた。
悪い命令を出した人がいた。
だから問題が起きた。
そう考えるほうが、理解しやすいからです。
けれど、本当に怖いのは別のケースかもしれません。
誰も自分を悪人だと思っていない。
みんな、それぞれの仕事を真面目にやっている。
それぞれが「自分の役割を果たしている」と思っている。
それなのに、全員の行動をつなげてみると、誰も望んでいなかった結果が生まれている。
そこには、現代社会の難しさがあります。
システムが大きくなればなるほど、一人の人間が全体像を見ることは難しくなるからです。
自分が見ているのは、巨大な仕組みのほんの一部分だけ。
だから、「自分は悪いことをしていない」という感覚だけでは、十分ではないのかもしれません。
私たちは、誰のゲームをプレイしているのか
ゲームをしているとき、目の前のクエストに集中します。
敵を倒す。
経験値を稼ぐ。
アイテムを集める。
次のステージへ進む。
ゲームのルールに慣れてくるほど、プレイヤーは効率を考えるようになります。
どうすれば早くクリアできるのか。
どうすれば強くなれるのか。
どうすれば無駄を減らせるのか。
でも、ときどき思うことがあります。
「そもそも、このゲームは何のために存在しているんだろう」
現実の社会でも、似たことが起きているのではないでしょうか。
研究者は論文を書く。
会社員は成果を出す。
学生は成績を上げる。
企業は利益を増やす。
国家は技術力を高める。
それぞれの「ゲーム」には、明確なルールがあります。
だからこそ、そのルールを上手にプレイすることが評価されます。
しかし、ゲームを効率よく進めることと、そのゲーム自体が良いものであることは、同じではありません。
「一生懸命」の外側に立ってみる
「一生懸命やること」は、大切です。
真面目に努力することも、誰かと協力することも、本来は素晴らしいことです。
だから、一生懸命になることを否定したいわけではありません。
むしろ必要なのは、その途中で一度だけ立ち止まることなのだと思います。
「いま自分が頑張っていることは、何につながっているのだろう」
「この努力によって、誰が得をするのだろう」
「自分が作っているものは、最後に誰が使うのだろう」
「このゲームをクリアした先には、何が待っているのだろう」
そう問い直してみる。
答えがすぐに出なくてもいい。
大切なのは、問いを持ったままゲームを続けることなのかもしれません。
善意にも、ブレーキは必要なのかもしれない
科学技術は、善意だけでは進む方向を決められません。
仕事も、学校も、組織も同じです。
「自分は悪いことをしていない」
その感覚だけでは、自分の行動が生み出す結果までは見えないことがあります。
だからこそ、ときにはゲームの画面から目を離す。
自分が立っている場所を、少し遠くから眺めてみる。
そして問い直す。
「私はいま、誰のために、このゲームをプレイしているのか」
その問いを持てることが、もしかすると、真面目な人が自分を守るための小さなブレーキになるのかもしれません。
一生懸命であることは、きっと悪くない。
ただ、一生懸命であることだけでは、正しい場所にいるとは限らない。
だからこそ、ときどき立ち止まる。
その「一歩引く」という行為に、私たちが知らないうちに巨大な仕組みの部品になることを防ぐ、もう一つの知恵があるのではないでしょうか。
