「雨上がりの三日月」
その日は土砂降りの雨だった。
病室には、雨音をかき消すような赤ん坊の泣き声がこだましていた。
「優実さん、お疲れ様。元気な男の子ですよ」
助産師の言葉に、瓜田優実は力なく笑った。「ありがとうございます……先生のおかげです」
名古屋市緑区で産声を上げたその子は、優太と名付けられた。母方の祖母が、もし男の子ならと願っていた名前だった。
「そういえば、お相手の方は……」
先生の問いに、優実の表情が凍りついた。
「あの人は来ません。この子にも、私にも興味なんてないですから」
病室が静まり返る。優太の泣き声だけが止まらない。優実は一呼吸おき、無理に笑顔を作って「体調は大丈夫です」と伝えたが、その瞳の奥は決して笑っていなかった。
優実が優太を産んだのは二十歳の時だった。高校を中退したいわゆる「不良」だった彼女は、同じような境遇の男と共同生活を始めた。しかし、待っていたのは凄惨な暴力の日々だった。
妊娠に気づいた時、優実は歓喜よりも先に恐怖を覚えた。この男に知られたら、この子はどうなってしまうのか。
逃げ場を失った彼女の脳裏に浮かんだのは、絶縁状態だった母・由紀子の顔だった。
「お母さん……」
二年間、自分から連絡を絶っていた。それでも、お腹の子を守りたい一心で震える指でボタンを押した。
『はい、瓜田です。……優実かしら?』
懐かしい声を聞いた瞬間、涙が溢れた。母はすべてを察したように、「戻ってきなさい」と言ってくれた。男に知られないよう細心の注意を払い、優実は実家の「瓜田おかず店」へと逃げ帰ったのだった。
実家での生活の中で、優実は不思議な夢を見た。
霧の中にテーブルがあり、誰かが座っている。顔は見えないが、その人物は一言だけこう問うた。
「ねぇ、なんで生きてるの?」
答えようとしても声が出ない。その問いだけが、雨粒の音と共に耳に残った。
出産後、事態は急変した。
病室に現れた児童相談所の片岡は、重い口調で告げた。
「優太くんの父親が、重大な事件を起こしました。彼と一緒にいるのはもちろん、この場所に留まることも、あなたたち母子にとって非常に危険です」
男から逃げるために実家へ戻ったが、それでは足りない。優実は決意した。「優太を連れて、もっと遠くへ逃げよう」
ある夜、優実は誰にも告げず、優太を抱いて病院を抜け出した。
雲一つない夜空には、鋭くも美しい三日月が浮かんでいた。目指すは、かつて自分を慕ってくれた後輩がいる神奈川県。しかし、駅へ向かう道中で、最悪の影が立ちはだかった。
「優実か?」
冷酷な声。かつての男だった。
「ずっと探してたんだぞ。そのガキは何だ?」
男の手が優実の肩に食い込む。恐怖で全身が震え、視界が歪む。殺される――そう悟った瞬間だった。
「おい、そこで何をしている!」
通りがかった男性が声を荒らげて駆け寄ってきた。男は「チッ」と舌打ちし、闇の中へ逃げ去った。
極限の緊張が解け、優実はその場に崩れ落ちた。見知らぬ男性が優太を抱きかかえてくれるのを確認し、彼女の意識は途切れた。
目が覚めた時、優実は見知らぬ家のベッドにいた。
助けてくれたのは、田村太陽・百合という夫婦だった。彼らは事情を深く詮索せず、行き場のない母子を温かく迎え入れてくれた。
「優実さん、あなたは本当によく頑張ったわ」
百合の言葉は、実の母のように温かかった。
翌日、太陽と百合は優実を最寄りの駅まで送り届けてくれることになった。
「神奈川へ行くんだね。自分の信じた道を、自信を持って進みなさい」
太陽の言葉に、優実は真っ直ぐな瞳で頷いた。
「はい。ありがとうございます」
駅のホームに立つ優実の腕の中で、優太が元気な声を上げた。
かつて夢の中で問われた「なんで生きてるの?」という問いの答えが、今はわかる気がした。この子を守るため、そして、この子と共に新しい光の中を歩くためだ。
列車が滑り込んでくる。
長く深い眠りから覚めたような清々しい朝の光の中で、優実は一歩、未来へと足を踏み出した。
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