自己愛とは自分を無視しないこと~恐れや不安と手を繋ぐ愛~
「助けて」も
「怖い」も
口から出てこない恐怖がある。
私はそれを、
身体で知ったことがあります。
『自己愛』って聞くと
自分を好きになること。
自分を大切にすること。
自分を認めること。
そんなふうに
言われることが多いですよね。
もちろん
それも大切だと思う。
でも、
コアキーワードを通して
陰と陽のことを見つめてきた中で
私は、自己愛ってもっと
根っこのところにあるものなんじゃないかなと
感じるようになりました。
自分を無視しないこと。
私は今、
自己愛をそう捉えています。
私たちはつい
自分の中にある恐れや不安や怒りみたいな
いわゆる“負の感情”を
どうにかして無くそうとしたり
手放そうとしたり
乗り越えようとしたりします。
できることなら
感じないで済む自分になりたい。
不安がない自分。
恐れがない自分。
怒りに振り回されない自分。
そうなれたら
ラクだろうなって思うし、
スピリチュアルや自己探求をしていると
なおさら
「それは手放した方がいい」
「もうその感情はいらない」
「その思い込みを書き換えましょう」
みたいな方向に
行きやすいこともあると思います。
でも、私はそこに
少し違和感があるんです。
なぜなら
コアから見たら、
恐れも
不安も
怒りも
どれも
自分の一部だから。
それを無視したまま
「私はもう恐れていません」
「私はもう不安ではありません」
と言うのは、
本当の意味で
自分を大切にしていることには
ならないんじゃないかなって思うんです。
もちろん、
恐れや不安に飲み込まれる必要はないし
怒りのままに生きることがいい
と言いたいわけでもない。
でも、
無かったことにするのとも
ちょっと違う。
そこにあるものを
ちゃんとあるものとして見る。
これが
ものすごく大切なんじゃないかなと
私は感じています。
それでも朝が来た
私は過去に
死に直面し
「このまま死ぬんだ…」と
身体中が恐怖で固まったことが
あります。
冷たくなって
強張って
息が出来なくなって
「助けて」も「怖い」も
口から出てこない。
なぜなら、
首を絞められていたから。
そんな
恐怖に包まれたことがある。
怒りを越えて
生きることに
絶望したこともあります。
怒っているはずなのに、
もうその怒りすら燃え尽きて
その先に残ったのは
深い深い
どうしようもない絶望でした。
不安に飲み込まれて
夜も眠れなくて、
「このまま全部
消えてしまえばいい。」
そう思ったことだってあります。
もう何も感じたくない。
考えたくない。
終わりにしたい。
そこまで暗く
沈んだこともある。
それでも朝は来ました。
泣きながら
目が覚めた朝もあった。
眠れないまま
やっと少し意識が落ちて、
また苦しさの続きを抱えたまま
朝を迎えたこともあった。
全然キラキラしてないし、
全然整ってないし、
“波動高く軽やかに♡”なんて
とても言えないような朝。
それでも
朝は来たんです。
私はその体験があるからこそ、
恐れや不安や絶望を
簡単に「手放せばいい」とは
言えないんですよね。
だって、
そんなに単純じゃないから。
その時の恐怖も、
その時の不安も、
その時の絶望も、
ちゃんと私の中で
ほんとうに起きていたことだから。
無かったことにはできないし、
上から塗り替えることもできない。
そして、
無理に消そうとすればするほど
余計に苦しくなることもある。
だから私は、
コアキーワードで
陰と手をつなぐ、という時
それは
見たくなかった自分と
仲良くなることでもあると
思っています。
恐れている自分。
不安になっている自分。
傷ついている自分。
怒っている自分。
絶望している自分。
そういう自分に対して
「またこんなこと感じてる」
「まだそんなところにいるの?」
「早く抜けなきゃ」
と急かしたり
切り離したりするのではなくて、
「そっか」
「怖いよね」
「不安だよね」
「もう無理だって思うくらい
しんどいよね」
って、
まずはその存在を
ちゃんと見てあげること。
ここが
すごく大事なんです。
自己愛って、
きれいな自分だけを愛することじゃない。
軽やかな自分だけを認めることでもない。
ちゃんとしている自分、
整っている自分、
ポジティブな自分だけを
“愛せる私”になることでもない。
そうじゃなくて、
見たくなかった自分も
置いていかないこと。
それが私は、
自己愛のかなり本質に近いところだと
思っています。
人って、
誰かに無視されると
すごく苦しいですよね。
話を聞いてもらえなかったり
気持ちを分かってもらえなかったり
「そんなの気にしすぎだよ」って
流されてしまったり。
すると
自分の存在ごと
置いていかれたような気持ちになる。
でもそれって
自分の内側でも
同じことが起きているんです。
不安な自分がいるのに
「そんなのダメ」って言う。
恐れている自分がいるのに
「もっと波動を上げなきゃ」って上書きする。
傷ついている自分がいるのに
「気にしない、気にしない」って
無理に前を向こうとする。
そうすると、
内側にいるもう一人の自分は
ずっと無視されたままになる。
この“自分を無視すること”が
いちばんつらいことなんじゃないかなって
思うんです。
だから自己愛は、
自分を褒めることより前に
自分の中で声を上げている存在を
無視しないこと。
まずそこから
始まるんじゃないかなって思う。
そしてここで大事なのは、
不安や恐れを認めるというのは
その感情に支配されることとは
違うということ。
不安な自分に
「不安だよね」って寄り添うのは、
不安に負けることじゃない。
恐れている自分に
「怖いよね」って認めるのは、
恐れに飲み込まれることじゃない。
むしろ逆で、
そこで初めて
自分との分断が終わる。
内側でずっと綱引きしていたものが
少しずつゆるんでいく。
コアキーワードの世界で言うなら、
陰と陽の歯車が
ようやく噛み合い始める。
陰を消そうとする間は
歯車はずっと空回りするんです。
でも、
陰と手をつないだ時に
はじめて巡り始める。
だから、
不安や恐れを無くすことが
ゴールではないんだと思う。
無くすことを目指すより、
その自分を置いていかないこと。
その自分と一緒に歩けるようになること。
それが
ほんとうの意味で
コアを受け入れることなんじゃないかなって。
どんなに
潜在意識を書き換えても、
どんなに
思い込みを外そうとしても、
どんなに
「私は大丈夫」と唱えても、
不安や恐れそのものを
完全に消すことは
できないのかもしれない。
私はそう感じています。
もしそれが
潜在意識やDNAに組み込まれた
人間としての自然な反応だとしたら、
生きている限り
完全にゼロにはならない。
だったら
戦い続けるよりも、
「そうだよね、怖いよね」
「不安にもなるよね」って
その自分と手をつないで
一緒に歩く方が
ずっとやさしいし
ずっと本質的なんじゃないかな。
不安も
恐れも
怒りも
絶望も
敵ではない。
それは
まだ小さく震えている
自分の一部。
そしてその存在は
排除されるためにいるのではなくて、
理解されるために
そこにいるのだと思います。
自己愛って、
自分を完璧に整えることじゃない。
揺れない自分になることでもない。
陰を消し去って
いつも軽やかでいられる自分を
つくることでもない。
そうじゃなくて、
揺れる日も
不安な日も
怖い日も
泣きながら目覚める朝も
その自分を
ちゃんと隣に座らせてあげること。
「今日もいるね」
「うん、わかってるよ」って
声をかけてあげること。
そのやさしさが
いちばん深いところで
自分を癒していくのだと思います。
そしてたぶん、
その時に初めて
“自分を愛する”ということが
概念ではなく
体感として始まるんじゃないかな。
自己愛とは、
自分を無視しないこと。
陰と手をつなぐこと。
不安も恐れも消そうと戦うのではなく、
その自分を置いていかずに
一緒に歩いていくこと。
私は、
それがコアキーワードの世界でいう
自己愛のひとつの形だと
感じています。
