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正しさとは、うまく忘れることの名前

2026年6月4日 395日目
スーパーで卵のパックを手に取り、値段を見て、棚に戻す。

この動作を、何百回繰り返しただろう。
348円。
高い、という感覚がある。
根拠を問われると答えに詰まる。
昔はもっと安かった気がする、という以上のことは言えない。

三十年分の価格感覚が体のどこかに刻まれているはずなのに、いざ問われると何も出てこない。
記憶というのは、案外いい加減なものらしい。

慣れ。
30年のデフレが体に刻んだ感覚。
それがいつの間にか、正しさの基準になった。


今年、食料品の値上げ品目は2万点を超えるとも言われている。
中東情勢の長期化がサプライチェーンを圧迫し、輸入コストを押し上げた。
にもかかわらず「値上げは悪い」という感覚が消えない。
企業は「誠に申し訳ありませんが」と書いた広告を出し、深く頭を下げながら価格を改定する。
この国では、値上げは謝罪を必要とする行為だ。
謝罪することで、「値上げ=悪い」という記憶を社会の中で更新し続ける。
慣習の維持とは、ある種の忘却の管理だ。

高くすることは、なぜ罪なのか。
誰もその問いに答えない。
ただ慣例として、謝り続けている。

同じ日、国会では皇位継承のあり方をめぐる議論が続いている。
「男系男子という千年の慣習」という言葉が飛び交う。
千年という重さは本物だ。
だがエリック・ホブズボームは、「伝統」と呼ばれるものの多くは近代に意図的に作り上げられたフィクションだと論じた。
英国王室の儀礼が19世紀に整備されたように、慣習には必ず起源がある。
起源があるということは、誰かが決めたということだ。

正確に言えば千年ではない。
明治22年、伊藤博文が主導した皇室典範が「男系男子」を初めて法的に規定した。
「千年の慣習」の実態は、140年前に特定の人物が下した政治判断だ。
そしてその事実を、僕たちはきれいに忘れた。

今日は6月4日だ。

天安門事件から37年。
米国務長官は「中国はいくら検閲しても、歴史を抹消できない」と声明を出した。
一方で北京当局は、遺族団体「天安門の母」の祭祀を禁じた。
37年という時間をかけて、記憶を消す慣習が形成されつつある。
知らない若者が育ち、知らないことが「普通」になっていく。
普通が慣習になり、慣習が倫理になる。


ミラン・クンデラは1979年に書いた。「権力との闘いは、記憶と忘却の闘いだ」と。

今日という一日に、三つの忘却が同時進行している。
30年の低価格体験の記憶、皇位継承を定めた140年前の政治判断の記憶、そして弾圧された若者たちの記憶。
それぞれまったく違う理由で、同じことが起きている。
忘却が、倫理を作っている。

1882年、フランスの思想家エルネスト・ルナンはソルボンヌの壇上でこう言った。
「忘却、そして歴史的誤謬でさえも、国民形成の本質的要素だ」と。

共同体は、共有された記憶の上に立つのではない。
共有された忘却の上に立つ。
何を一緒に覚えているかではなく、何を一緒に忘れてきたかが、その社会の倫理の輪郭を描く。


起源が見えなくなったとき、慣習は倫理に昇格する。

「なぜ」が消えた場所に、「こうあるべき」が生まれる。

なるほど、どちらも正しい。

天安門では「記憶すること」が倫理的な抵抗だ。
しかし値上げの問題では、「忘れること」こそが必要になる。
30年の低価格記憶を手放せなければ、経済はこれ以上前に進まない。
記憶することが正義である場面と、忘れることが正義である場面が、同じ一日に同時に起きている。
どちらも「倫理的」を名乗っている。

倫理は、何に根拠を持つのか。

今「正しい」と感じているものの多くは、誰かに忘れさせられた結果かもしれない。
忘却に抵抗することは難しい。
だが、忘却の上に建てられた「正しさ」を疑い続けることは、できる。
その疑いを手放さないことが、今の僕にできる唯一の誠実さだと思っている。


カゴに卵のパックを入れた。高いと思いながら、買った。

昔から、誰が、そうしてきたのだろう。


出典:
・食料品値上がり加速、今年の値上げ品目が2万点超の可能性(Japan Times)/2026年6月4日
・皇位継承案を議長・副議長が8日に提示方針(NHKニュース)/2026年6月4日
・天安門事件から37年 米「検閲しても歴史は消せない」(産経新聞)/2026年6月4日

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