羊水のような【波の音】 #シロクマ文芸部
波の音聞くと、思い出す、
何年も前――あの音に抱かれに行った夜のことを。
あれはもう薄手のコートが恋しい季節。
繁華街で行われた友人たちとの飲み会の帰り、終電ギリギリの時間で乗り込んだ電車は家路を辿る電車とは違う路線の電車だった。
あの時どうして自分が違う路線の改札をぬけたのか、記憶は定かではない。
酔っていて間違えたのか……否、それはない。
何故なら、僕はノンアルコールの飲み物しか口にしていなかったのだ。
それは酔いではなく、衝動。
ただ、海へ行きたい、と。
そう思っただけ。
乗り継いだ電車は終点に近付くにつれ、どんどんと人が少なくなっていく?
実際、終点で降りた乗客は僕を含めて数人だけだった。
その数人も、皆改札を出ると左に曲がって行った。
右に曲がったのは、僕だけ。
記憶だけを頼りに、街灯の少ない道を歩いた。
とぼとぼと足跡を残しながら歩いた夜道。
ようやっと海岸線に出た瞬間鼓膜を揺らしたのは、ザン、ザザン――という静かで、でも重たい波の音だった。
オフシーズンに突入した海岸線に人の影はなくて。
僕はこれまたとぼとぼと、今度はオレンジ色を含んだ街灯の斜め下に色濃い足影を残しながら歩いた。
ザァア……ザン、ザザン――
その音が大きくなるにつれて、頬を撫でる風がほんの少しだけベタつき始める。
匂いもほんのり湿り気のあるものに変わり、鼻腔の奥に絡み付くようになった。
どれだけ歩いたか。それま胸程の高さまであったコンクリートの堤防が途切れ、音が大きくなる方へと近づける階段を見付けた。
たん、たん、たっ、たたっ、たん。
階段をおりる足音が不揃いになったのは、階段の高さが一段一段不均等だったから。
たたらを踏むようにして降りた階段。
さく、と。コンクリートとは違う感情を靴底が捉えた瞬間、僕の口端には淡い笑みが乗っていただろう。
堪らず僕は靴を、靴下を脱いだ。
ふくらはぎまでジーンズの裾を捲り上げ、丸めた靴下をスニーカーに詰め込んで左手の指先に引っ掛ける。
ザァア……ザン、ザザン――
どんどんと鼓膜の揺れが大きくなる。
サラサラとした足元がしっとりとし始め、ちゃぷ、と爪先に触れたそれは、ザァア……という音と共にまたすぐ離れていった。
その感触に心が踊った僕はもう二歩、三歩と歩んで、足首までひたりと包まれる。
少しばかりひんやりとはしたが、冷たくはなかった。
足首までを寄せては引いていく波に遊ばせながら、湿った砂浜を見えない水平線と平行にゆっくりと歩き出す。
パチャ、ザン、ザザン……ザァア、ザン、ザザン……。
人の声はない。自分の息遣いすら聞こえない。
鼓膜を震わせ聴覚が拾うのは、ただただ波の音と、時爪先が水を跳ねる音だけ。
蒸しんで波打ち儀わを歩んでいたら、いつの間にか遊泳可能な範囲を示すネット際まで来てしまった。
その距離が短かったのか、それとも長かったのか。
時計を見ていなかった僕には知れないことだった。
また半分くらい、波打ち際を引き返す。
前も後ろも端っこが分からなくなった辺りで立ち止まる僕。
ふと見上げた夜色の天鵞絨には絶対王者のように真ん丸のオパールが鎮座していて、その周囲をチラチラと数多の銀砂が付き従うように瞬いていた。
ザァア……ザン、ザザン。
ザァア……ザン、ザザン。
規則的な音はどこか心音にも似ている。
僕はその心地好い音の深くへと誘われるよう、ゆっくりと……今度は、見えない水平線に向かって足を動かし始めた。
ひた、ひたり。境界線が少しずつ上がってくる。
不思議と冷たさは感じない。
寧ろ、頬を撫でる風よりもあたたかい。
ふうわり、シャツの裾が浮いたところで、僕は足を止めた。
あたたかい。やわらかい。その感覚に驚いた。
僕は本来海を好かない性質だったのに。
秋の夜の海の中は、まるで羊水の記憶を呼び起こすかのようにやさしく僕を包み込んでくれた。
堪らず、膝を折って座り込む。首の辺りまで浸るといよいよ心地好さにうっとりとしてしまった。
あたたかい。やわらかい。やさしい。
今この身を沈めても、肺呼吸なんか必要ないような錯覚さえ抱く程だった。
海は母なる大地、と云われる所以が分かった気がした。
母体のよう、良しも悪しも関係なくすべてを無罪とばかりにやさしく包み込んでくれる水の中。
そこは、この世界で唯一僕が僕のままで良いんだと肯定してくれるような穏やかさだった。
こんなことをしているところを誰かに見られたら咎められるかも知れない。
でもそんな無粋な人間はこの夜現れなかった。
僕は別にこの身を捨てに行った訳じゃない。
だから、一頻りあのあたたくやわらかなシェルターを味わった後。僕は朝を待ってちゃんと家路に着いた。
あの夜、一人で海の中に身を浸したことは誰にも明かしていない。
気狂いだと云われることよりも。
下らないことを……と馬鹿にされるのが嫌だったからだ。
実際、あれが一般的に下らないことだった自覚はある。
それでもあの時の僕には必要だったのだ。
何も、誰も信じられない世界で生きていた日々の中で、自分をただただ全肯定しながら抱いてくれる『場所』が。
そんなことをしたのはそれっきり。
海に近付くこともしていなかった。
だけど……だからこそ、か。
時折街中で耳にする波音を聞くと、鼓膜の内側にあの低くやさしい海鳴りが蘇るのは――。
