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1689年第二ロンドン・バプテスト信仰告白 第5章 『摂理について』——緒論

Of Divine Providence

Chapter 5


世界は造られた。では、造られたその後、世界はどうなっているのか。神は世界を造り終えて、後は放っておかれたのだろうか、それとも今この瞬間も、世界の一つひとつの出来事に関わり続けておられるのだろうか。第5章「摂理について」は、この問いに七つの項を費やして答えようとする。

見取り図——この章はどこに位置するのか

第4章が「世界と人間はどのように造られたか」という、いわば一回限りの出来事を扱ったのに対し、第5章はその後、世界がどのように治められ続けているかという、継続する出来事を扱う。第3章の「聖定」が神の心の中の永遠の計画であり、第4章の「創造」がその計画の最初の実行であったとすれば、第5章の「摂理」は、その計画が世界の歴史全体を通じてどのように貫かれ続けているかを語る章である。この章のすぐ後には第6章「人間の堕落について」が続くため、第5章は特に重要な役割を担っている——なぜなら、堕落という悪の出来事さえも、神の摂理の外にあるのではなく、その内側で扱われなければならないからである。

第5章という章題が指す「摂理」という言葉の範囲は、単に「神が奇跡を行われる」といった特別な介入だけを指すのではない。星の運行から日々のささやかな出来事に至るまで、被造世界のあらゆる次元にわたる神の継続的な統治全体を指している。この章が扱う範囲の広さは、七つという項の多さ(前章の創造の三項に比べて倍以上である)にも表れている。

歴史的な背景として、この教理が確定された1640年代のイングランドは、内戦と政治的混乱のただ中にあった。世界が神の御手の外で偶然や無秩序に支配されているのではなく、たとえ人間の目には混沌として映る出来事の中にも、神の知恵ある統治が貫かれているという告白は、この時代状況と無関係ではなかったと考えられる。

この章を読み進める上で、あらかじめ軽く触れておきたい言葉が一つある。「第一原因・第二原因」という言葉である。これは、神ご自身の意志を「第一の原因」とし、被造物同士の間で実際に働く自然の法則や人間の選択を「第二の原因」として区別する考え方であり、神の主権と被造物の自由な行為とが、どのように両立するのかを説明するための鍵となる概念である。この概念が本文の中でどう用いられているかは、後の分析で詳しく扱う。

なぜ、今この章を読む価値があるのか

この章の教理は、告白全体の中で、堕落論が成り立つための土台を用意している。もし神の摂理が世界の善いことだけに及び、悪や罪の出来事には及ばないとすれば、堕落や、その後の歴史における様々な悪は、神の統治の外で起きた「例外」になってしまう。この章は、悪の出来事さえも——それを神が引き起こされたのではなく、あくまで被造物自身の側から生じたものとしながらも——神の統治の内側で理解しようとする、微妙で緊張感のある教理を含んでいる。

歴史的に見ても、神の摂理と人間の自由な意志、あるいは偶然に見える出来事との関係は、当時の神学において簡単に片づけられる問題ではなかった。「すべてはあらかじめ定められている」という主張と、「人間は自由に、あるいは偶然に行動しているように見える」という経験との間に、どう整合性をつけるかという課題に、この章は正面から取り組んでいる。

そして、この教理は現代の私たちにとっても切実である。人生の思いがけない出来事、説明のつかない苦難、あるいは逆に予期せぬ恵みに直面したとき、それらが本当に「意味のないもの」なのか、それとも何らかの導きの中にあるのか、という問いは、信仰を持つ人にとって避けて通れない。この章がその問いにどう答えるかの具体的な中身は、各項の分析、および章全体の総括に譲りたい。

この章の構成——七つの項

第1項は、「そもそも神の摂理とは何であり、何のために行われるのか」という問いに答える。この項が扱うのは摂理全体の総論であり、まだ個別の困難な論点——罪との関係や、選民と悪人それぞれへの扱いの違い——には踏み込んでいない。一見すると単純な定義のように見えるが、その定義に含まれる語の一つ一つに、実は緻密な神学的判断が込められている。

第2項は、「神の永遠の定めと、被造物の自由な行為とは、どう両立するのか」という問いに移る。ここで登場するのが、先に触れた「第一原因・第二原因」という考え方である。この項が扱う範囲は、摂理の一般的な仕組みという、やや抽象度の高い理論的な部分に限られる。この項の背後には、当時の哲学的な議論との接点があり、その接点がどこまで意識されていたのかは、注意深く見る価値のある論点である。

第3項は、「神は、定められたことを実現するのに、どのような方法を用いられるのか」という問いを扱う。第2項が理論的な枠組みを示したのに対し、この項は、神が「通常は」手段を用いて働かれるが、その手段に縛られない自由を持つという、より実践的な側面に焦点を絞る。短い項でありながら、奇跡や祈りの意味をどう理解するかに関わる、意外に大きな含みを持つ項である。

第4項は、「悪や罪は、神の摂理の中でどう位置づけられるのか」という、この章で最も緊張感のある問いに答える。この項が扱う範囲は、天使と人間の堕落そのもの、およびそれ以降のあらゆる罪の行為である。神の統治が罪にまで及ぶと言いながら、同時に神を罪の作者としない、という一見矛盾するように見える主張がどう成り立っているのかは、細心の注意を払って読む必要がある論点である。

第5項は、「神は、ご自身の民(信仰者)に対して、摂理をどのように働かせられるのか」という問いに移る。この項が扱う範囲は、悪人一般ではなく、神との特別な関係にある人々に限定される。信仰者が経験する試練や懲らしめが、見捨てられたことのしるしではなく、むしろ特別な配慮の一形態として描かれている点は、牧会的に重要な含みを持つ。

第6項は、対照的に「神は、神を信じない者たちに対して、摂理をどのように働かせられるのか」という問いを扱う。第5項が信仰者への配慮を語ったのに対し、この項は、神に背を向ける者たちへの、より厳しい扱い——恵みが差し控えられ、心が頑なにされていく様——を描く。この項の内容は、読む人によっては重く感じられるかもしれない、覚悟を要する論点を含んでいる。

第7項は、「神の摂理は、教会に対して、他とは違う特別な仕方で働くのか」という問いで章を締めくくる。この最後の項は、それまでの一般的な摂理論を、信仰共同体という具体的な場に着地させる役割を担っている。短い項だが、この章全体がなぜこれほど詳しく書かれる必要があったのかという問いへの、一つの答えがここに凝縮されている。

この後の読み方について

この後に続く分析は、各項について、本文そのものの読み方、聖書的な根拠の検証、ウェストミンスター信仰告白(1646年)・サヴォイ宣言(1658年)との照合、当時の歴史的背景、告白全体の教理体系の中での位置づけ、そして現代への含意という、複数の観点を順番に辿っていく構成を取る。

七つの項は、前半(第1〜3項、摂理の仕組みそのもの)と後半(第4〜7項、摂理と罪・信仰者・悪人・教会との関係)とで、性格がやや異なる。理論的な枠組みに関心がある場合は前半を、日々の信仰生活への具体的な意味に関心がある場合は後半——特に第5項・第6項——を重点的に読むとよい。特に第4項は、この章全体の中で最も難解で、かつ最も重要な論点を含んでいるため、他の項より時間をかけて読むことをお勧めする。

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高木高正 TAKAGI Takayuki|東松山バプテスト教会 代表・伝道師 皆様のサポートに心から感謝します。信仰と福祉の架け橋として、障がい者支援や高齢者介護の現場で得た経験を活かし、希望の光を灯す活動を続けています。あなたの支えが、この使命をさらに広げる力となります。共に、より良い社会を築いていきましょう。