凡人
今朝の日経に凡人として生きる覚悟、が書いてあった。仏教学者で花園大学の特別教授の佐々木閑氏の話が書いてあった。浄土真宗の伝統ある寺院のひとり息子に生まれた高橋氏が、幼少時から自分は特別なんだという呪縛から逃れられなかった自らの半生から、70才を超えた今、いわゆる平凡についての考えを披露している。
約30万年もの長い間万物の長として、お山の大将を続けていた人類が、今後とも万物の長として君臨することが可能なのかどうか、もしその地位を引きずり下ろされる場面において、人類が平凡な生物化したときに何が起こるのか。
自分が平凡ではないと思っている間は、とにかく自分が頑張って周囲を今より良い所に引っ張って行く気概が自らを追い込み、苦しみをもたらしているのかもしれない。
こうした自らに苦しみをもたらし続ける平凡じゃないという感覚が、人類の上位になろうとしているAIの登場以降は和らいで行くのではないかと話す。
AIをあくまで人類のサポート機能として位置づけるとか、その発想力に於いてはまだまだAIは人間に勝てないんだとかの意見もあるものの、人類はAIにその場を追われるのはほぼ間違いのないことであろうから、今後は大将ではなく平凡な市民として生きる幸せを享受したらどうかという提言だ。
確かに平凡に生きるということは心が和らぐこともあるし、お山の大将よりもそのプレッシャーが弱いとも思われるが、平凡がそんなに簡単かと言うと、そうじゃないだろうという見方も当然出てくる。
ただ、人が平凡に人生を過ごしていくのはそんなに簡単なことでは無い。一般市民は平凡に暮らすということがどんなに大変かを知っている。平凡な生物はそれはそれとして、一般市民のような大変な努力をして自らの生活を守っていく努力を求められる。
AIにトップを取られてしまうのは、致し方ないとして、人類は引き続き自らの生存を賭けて、生存の平凡化を求め右往左往していくしか、道は残されていないのかも知れない。
