潮境第三部『道ヲ辿レ24』
安曇野から戻った翌日、宗介は久世に呼び出された。
駅前の喫茶店へ入ると、橘もいた。
「奈良にいたんじゃ?」
「この人に呼ばれました」
橘が久世を見る。
「急に『来てください』とだけ」
「来たんですね」
「来てしまいました」
久世は二人の前に紙を置いた。
「小県さん。最初に私に話した日本の歴史、覚えてます?」
宗介は嫌な予感がした。
「また言わせるんですか」
「いいえ」
久世は笑った。
「今なら、どう話します?」
宗介は紙を見る。
以前なら簡単だった。
ヤマトの王権が成立する。
東には毛野、西との結節には尾張がある。
壬申の乱で尾張氏が大海人皇子と毛野を結び、三者の関係が形を変える。
毛野は安曇の助けを得て海へ出る。
その後、日本は海洋国家として発展する。
「四百字で?」
「それくらい」
宗介は考えた。
そして書き始めた。
何度か消した。
安曇を「毛野を助けた一族」と書いて、消した。
毛野を「東国で成立した勢力」と書いて、その前に人々の移動があったことを加えようとして、やめた。
「無理ですよ」
「何が?」
「四百字じゃ足りない」
久世が笑う。
「前はできたでしょう」
「知らなかったからです」
橘が口を挟んだ。
「でも四百字にしてください」
「先生まで?」
「歴史を書くとは、何かを捨てることでもあります」
宗介は二人を睨んだ。
それでも書いた。
しばらくして、紙を読み上げる。
「列島には古くから海、川、山を越えて人と物が行き来する道があり、その中から各地の政治的、文化的なまとまりが形づくられた。東国では毛野、中央ではヤマト、伊勢湾周辺では尾張が有力となった――」
宗介は続けた。
大噴火と毛野の離散、再建。
壬申の乱。
尾張氏の仲介。
海へ広がる交易。
最後まで読んで、紙を置いた。
久世が訊いた。
「安曇は?」
宗介は黙った。
また消えていた。
「入らなかった」
「なぜ?」
「四百字だから」
「それです」
久世が言った。
宗介は顔を上げる。
「歴史から消えたんじゃない。あなたが四百字にしたときに消した」
橘がすぐ補った。
「ただし、それ自体が悪いわけではありません。要約しなければ歴史は語れない」
「じゃあどうすれば?」
「何を捨てたか忘れないことです」
橘の答えは短かった。
宗介は紙を見た。
そこに書かれた歴史は間違っていない。
だが、美和はいない。
小県家の裏を通る道もない。
噴火後、榛名へ戻らなかった人々もいない。
名も残らなかった人々は、最初から書きようがない。
「正しい歴史って、ずいぶん小さいんですね」
宗介が言った。
橘は首を振った。
「逆でしょう」
「え?」
「歴史の方が大きすぎるんです。文章に入らない」
久世が嬉しそうに頷いた。
宗介はもう一度、自分の四百字を読んだ。
外国人に聞かれた問いを思い出す。
――毛野とは何ですか。
あのとき答えられなかった。
今なら答えられる気がする。
だが、それは四百字ではなかった。
宗介は紙を折った。
「榛名へ行きます」
久世が訊いた。
「また?」
「今度は冬嗣さんに、僕から聞きたいことがあります」
「何を?」
宗介は立ち上がった。
「毛野宗家は、何を捨ててきたのか」
橘と久世が同時に顔を上げた。
