潮境第三部『道ヲ辿レ7』
社を出たあとも、久世は安曇野を歩き回った。
古い渡し場の跡。山へ向かう道。水路の脇に残る小さな祠。
宗介には、それぞれがどうつながるのかまだ分からなかった。
午後、二人は小さな資料館に入った。
久世が出してもらった古地図を机に広げる。
「ここが今朝の社です」
久世の指が動いた。
「この道を北へ。こっちは川沿い。こちらは峠を越えて小県へ」
「つながってる」
「道ですから」
「日本海まで?」
「いくつか経路があります」
久世は別の図を重ねた。
海から塩や魚が入り、山から木材や鉱物が下りる。途中で馬に積み替え、川を使える場所では舟を使う。
「安曇が作った道ですか」
「分かりません」
「安曇が支配してた?」
「それも分かりません」
宗介は笑った。
「本当に何も断言しませんね」
「断言できることならしますよ」
久世は地図の一点を指した。
「分かるのは、安曇と呼ばれた人々がこの辺りにいて、海と内陸を行き来する人や物があった。それだけです」
夕方、二人は街道沿いの食堂に入った。
注文を済ませると、久世が水を飲みながら言った。
「小県さん」
「はい」
「この前の日本史、もう一回お願いします」
宗介は顔をしかめた。
「また?」
「お願いします」
宗介は仕方なく始めた。
「古代、列島にはいくつもの勢力があって、西のヤマト、東の毛野、交易を押さえた尾張が――」
久世は黙っている。
「争ったり結んだりしながら列島の統合が進んだ。毛野は東国を基盤に勢力を保ち、やがて海へ――」
「待った」
久世が手を上げた。
「今のところ、もう一度」
「毛野は東国を基盤に?」
「その次」
「やがて海へ出た」
「それです」
宗介は久世を見る。
「何か変ですか」
「今日見たものも、そう見えました?」
宗介は答えなかった。
朝の舟が浮かぶ。
海から来たものを山へ送る祭り。
山を越える道。
小県まで続く線。
「毛野が海へ出る前から、道があった」
「可能性はあります」
「安曇がいた」
「それは分かっています」
「じゃあ……」
宗介はテーブルの上で指を動かした。
海から山へ。
山から川へ。
川から平野へ。
「毛野が海へ出たんじゃなくて、海まで続いていた道に毛野が入った?」
久世の目が輝いた。
「そうだったとは言ってませんよ」
「せっかく言ったのに」
「でも、別の言い方ができた」
料理が運ばれてきた。
久世は箸を割った。
「歴史って、主語を大きくすると便利なんです。ヤマトが統一した。毛野が海へ出た。尾張が交易した」
「間違いではないでしょう」
「間違いとは言ってません」
久世は魚を一口食べた。
「でも、その文章では道を歩いた人が消える」
宗介は黙った。
塩を運んだ人。
馬を引いた人。
川舟を操った人。
山の向こうへ嫁いだ人。
彼らは毛野だったのか。安曇だったのか。それとも、そのどちらでもなかったのか。
「久世さん」
「はい」
「安曇は、いつ毛野に同化したんでしょう」
久世は箸を止めた。
「それ、面白いですね」
「答えは?」
「明日、もう少し北へ行きましょう」
「また歩くんですか」
「嫌ですか」
宗介は少し考えた。
「いや」
久世が笑った。
「じゃあ海まで行きましょう」
「海?」
「安曇を海の一族だと思ってるんでしょう」
「思ってます」
「なら、反対側から道を見てみないと」
窓の外では、山が夕暮れに沈み始めていた。
宗介は初めて、その山の向こうにある海を意識した。
