巨大前方後円墳群を築造して回ったのは誰だったのか?——水田開発ゼネコン集団がいたという仮説——(更新:2026.6.22)
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本稿は仮説的読み物である。
古市・津堂城山古墳の報告書を読んで、「空白の4世紀」を考えてみた
—水田開発ゼネコン集団が日本列島を動かしていたという仮説—
前方後円墳の巨大化は、単純な首長権力の誇示ではなく、低湿地開発・灌漑・治水という公共土木事業を遂行できた組織力・技術力・政治的合意形成能力を象徴した可能性が高い。
その技術的基盤について本稿では、吉野川下流域で早くから大規模灌漑農業を展開した阿讃地域が、治水技術と農業祭祀を一体化した知識体系を畿内へ供給した中心勢力の一つであった可能性を検討する。
※本稿は仮説的読み物である。
報告書を読んで思った。
藤井寺市文化財報告第33集「津堂城山古墳」。
古市古墳群の最北端に位置するこの前方後円墳は、墳丘長210m。4世紀後半(360〜380年頃)に築造された、古市古墳群で最初に現れた大型前方後円墳だ。仁徳天皇陵や応神天皇陵より古い。つまり百舌鳥・古市巨大古墳群の「はじまり」に位置する古墳である。
話題の富雄丸山古墳とほぼ同時代・4世紀後半。

の資料図に筆者が追記
「空白の4世紀」とは何か
3世紀後半、奈良盆地の纒向に巨大な前方後円墳(箸墓古墳)が出現する。この時代、卑弥呼の邪馬台国がどうとか、魏志倭人伝がどうとか、考古学者たちが大騒ぎしている時代だ。
ところがその後、4世紀になると奈良盆地にはそれを超える規模の古墳が現れない。日本列島は中国・朝鮮の歴史書にもほとんど登場しなくなる。この「空白の4世紀」に日本列島で何が起きていたか——それが古代史最大の謎のひとつだ。
そして5世紀になると突然、河内平野に空前絶後の巨大古墳群が爆発的に出現する。仁徳天皇陵(大仙古墳、墳丘長486m)。応神天皇陵(誉田御廟山古墳、425m)。世界最大級の墳墓だ。
3世紀の纒向→4世紀の空白→5世紀の河内爆発。
転々と移動する巨大古墳群。
この「空白と跳躍」を説明する理論が、実はまだ確立していない。
報告書を読んで気づいたこと
津堂城山古墳の報告書には、自然科学的分析のページがある。出土した朱の硫黄同位体比分析だ。
結果:三重県丹生鉱山産の可能性が高い。
国産朱だ。中国産ではない。
そしてこんな記述もある。竪穴式石槨の天井石(7枚)は竜山石——播磨(兵庫県高砂市周辺)でしか採れない石だ。
石棺の素材が播磨。天井石が播磨。朱が三重。
さらに報告書の考察章を読むと、天野幸弘氏はさらりとこう書いている。
「古市古墳群の造営と密接に関係するような大規模な居館址や古墳造営に従事した多数の人々が集住したようなキャンプサイトのような痕跡は現在のところ知られていない」
造営集団が河内に住んでいない。
外から来て、造って、帰った。
では誰が来たのか
ここで別の一次資料が登場する。
山田隆一(関西大学、2019年)の博士論文は、大阪府74遺跡の土器を網羅的に集成した。その結果:
阿波系土器が267点、大阪の遺跡に分布している
徳島の吉野川流域で産出する結晶片岩が、玉手山・松岳山など前期河内古墳の石槨に使われている
松岳山古墳の埴輪を作った工人と紫金山古墳(茨木、阿波産結晶片岩製石室)の埴輪工人が、胎土分析から同一人物または同一集団と判定された
埴輪工人が移動している。石材が移動している。そして——
「小阪合遺跡住居865は、阿波固有の燃焼施設を持ち、阿波系土器が出土し、埋没後に阿波系土器棺が設置されている。阿波の人の住居であった可能性が高い」(山田2019)
阿波の人が河内に住んでいた。
『10型中央土坑』を持つ竪穴住居は播磨で発達し、阿波・讃岐にも波及した住居形式である(森岡ほか2011)。播磨・鳥棲遺跡での確認例はこの播磨在地の住居形式そのものであり、これ単体は阿讃系集団の播磨定住を示す証拠にはならない。一方、同じく播磨の綾部山39号墳では阿讃系の墓制要素が確認されている(中溝2005)。
阿讃(阿波・讃岐)と播磨の間には、住居様式の伝播や墓制要素の共有という形で、断続的ながら継続的な交流の痕跡が認められる。(修正:2026.7.6)
「水田開発ゼネコン集団」という仮説
ここで農業土木技術者・田久保晃氏の仕事が面白い。
なお「ゼネコン集団」という比喩は、組織的に連携した単一の集団がいたという意味ではない。結果として同じ技術を持ち、同じ仕事を各地でしていた人々の総体を、便宜的に呼んでいる。
田久保氏は著書『水田と前方後円墳』で、こう論じる。
「前方後円墳の周濠は灌漑用の溜池だった」
前方後円墳を造るとき、周囲の濠を掘った土で墳丘を盛る。掘れば掘るほど大きな溜池ができる。その溜池が周辺の水田に水を供給した。白石太一郎(国立歴史民俗博物館)も1983年に「前方後円墳は首長の灌漑王的性格を象徴するもの」と書いている。
そして田久保氏が気づいた重要な事実——前方後円墳の立地が、奈良盆地東南部(箸墓)→奈良盆地北部(佐紀古墳群)→河内平野(百舌鳥・古市)と反時計回りに移動している。
これを農業開発フロンティアの移動として読み解くとどうなるか。
箸墓:奈良盆地東南部の扇状地末端。最初に開発できる乾田地帯。
佐紀古墳群:奈良盆地北部。より大規模な溜池が必要な地帯。
百舌鳥・古市:大和川と石川の合流部。列島最大規模の水田開発可能地。
巨大古墳群の立地移動は、農業開発フロンティアの移動そのものだったという解釈が成立する。
一本の筋として読んでみる
阿波(徳島)の吉野川下流域は、日本最大規模の沖積平野のひとつだ。木原克司(2002年)の研究によれば、この地域では条里制(古代の土地区画制度)の施行が奈良よりも早かった可能性がある——まだ仮説の段階だが、大規模水田開発の技術的蓄積がここにあったことは確かだ。
その吉野川流域の技術者集団が——
石材・技法・人員を持って、農業開発フロンティアを移動しながら、各地に前方後円墳を「造って回った」。
纒向への流入(3世紀)、前期河内古墳への流入(3〜4世紀前半)、播磨への定住(4世紀)、そして津堂城山古墳(4世紀後半)・古市古墳群への参画。この流れは一本の筋として読める。ただしこの連続性を示す直接証拠はまだ確認されていない——それが今後の実証課題だ。
前方後円墳を造ることは、同時に周濠という溜池を造ることだった。墳丘という堤防を造ることだった。水田開発インフラを整備することだった。
単なる権力者の墓ではない。古代最大の公共事業だった。
ここで一点断っておく。「溜池としての周濠」という田久保説と、「阿讃播の技術者が造った」という本稿の仮説は、独立した二つの仮説だ。溜池説が正しくても間違っていても、阿讃播の技術者が河内に現れていたという物質的証拠は揺るがない。
そしてその公共事業を担う技術者集団が、阿波・讃岐・播磨の人たちだったのではないか。
「空白の4世紀」への一つの読み方
奈良盆地で巨大古墳が「空白」になった4世紀。その間、阿讃播のネットワークは河内平野という次のフロンティアに向けて動いていた。
讃岐型前方後円墳が列島各地で爆発的に増加する4世紀前半——これは技術者集団が全国に展開していた時代として読める。
4世紀後半、大和川・石川の合流部という「日本列島最大の水田開発地点」で、初めて巨大大王墳・津堂城山古墳が姿を現す。そこには播磨産の石材、阿讃系の技法、讃岐系の祭祀具が揃っていた。
5世紀の百舌鳥・古市の爆発的巨大化は、その蓄積の上に成立した。
「空白の4世紀」は、空白ではなかった。
阿讃播の技術者集団が、水田開発という実用的な仕事をしながら、列島各地を動き回っていた時代だった。
讃岐では、古墳中期5世紀のみ数が減る不思議
阿波では、古墳中期後半~後期前半の「首長墳」の空白
・・・過去の報告書に書かれていることだ。
最後に——なぜ前方後円墳は消えたのか
田久保氏の仮説には続きがある。
7世紀初頭、大阪府大阪狭山市に「狭山池」が完成する。日本最古の谷池形式の溜池とされる。谷を堤で締め切るこの技術は、巨大な前方後円墳を造るよりはるかに少ない労力で大きな溜池を作れる。
より効率的な農業インフラ技術の登場。
前方後円墳の造営が7世紀初頭に終わる理由の一つがここにあるかもしれない。
古代最大の土木集団は、新技術の登場とともに、その仕事の形を変えた。
本稿は仮説的読み物である。
主要参照一次資料:藤井寺市教育委員会『津堂城山古墳』(藤井寺市文化財報告第33集、2013年)/山田隆一「大阪出土の讃岐・阿波・播磨系土器と製塩土器」(関西大学、2019年)/森岡ほか編『邪馬台国時代の阿波・讃岐・播磨と大和』(香芝市二上山博物館、2011年)/田久保晃『水田と前方後円墳』;JAGREE97号(2019年)/白石太一郎「古墳の周濠」(1983年)
なお、「古墳の規模=権力の大きさ」という前提そのものについては、別の論考で検証している。
→「古墳の大きさは『権力の証』だったのか——土木技術と祭祀から見る初期王権の成立」
