出雲は山陰ではなかった——天穂日命系国造の分布が示す海人族ネットワーク
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国津神は海人族だった——列島沿岸を行き来した広域集団と「いずも」の原像
序論:各地に残る「いづも」の謎
徳島市の沿岸部に、式内社・宅宮神社がある。この神社には古くから「いづも踊り(神踊り)」が伝わっており、今も受け継がれている。
郷土史家・飯田義資は『新しい阿波史』(徳島新聞出版部、1953年)に次のように記している。
「国中一帯には出雲族が住み、海岸の地にはあまべ族が居住しました」
「いづも」と「あまべ(海人族)」が並列して語られていることに注目したい。
一方、国造本紀を見ると、千葉県南部に「阿波」ないし「安房」と記される国造が存在し、その系譜は天穂日命系——出雲国造と同じ系統——に属している(写本による表記揺れあり)。「阿波」系の地名を持つ氏族が、出雲系の系譜を持って列島東端の房総に存在する。
なぜ「いずも」は列島各地に痕跡を残すのか。なぜ「阿波」と「いずも」はこれほど近い距離に現れるのか。
本稿は考古学的証拠と記紀神話の祖先神記述を照合することで、この問いに答えを探る。
第一章 考古学が示す列島沿岸の海人族
縄文期から続く広域海上ネットワーク
海上活動を担う沿岸集団の存在は、縄文時代まで遡ることができる。
その最も明確な証拠が、黒曜石とサヌカイトの広域流通である。伊豆・神津島産の黒曜石は北海道まで到達し、二上山・金山産のサヌカイトは近畿から東海に広く分布する。これらはいずれも海上輸送なくして説明できない分布を示す。
特定の「定住地」ではなく「ネットワーク」として機能していた集団の存在——これが縄文期から確認できる。
【確実】縄文期から長距離海上交易を担う沿岸集団が列島に存在していた。
弥生期の高地性集落——山と海の連続空間
弥生時代中期から後期にかけて、瀬戸内海沿岸を中心に「高地性集落」が出現する。
愛媛大学埋蔵文化財調査室の柴田昌児(2013年、2025年著作集)は、高地性集落を軍事的監視拠点と「山住みの集落」に区別し、瀬戸内海を自ら航行しながらその実態を解明した。彼の研究が示す核心は、山と海は二項対立ではなく連続した活動空間だったという点である。
高地性集落の多くは海を広く見渡せる位置にあり、焼け土を伴うことからのろし台機能が推定されている。つまり山上の集落は、海上交通を監視・制御するためのインフラだった。
この事実は重要な示唆を含む。山の神と海の神を截然と分けるという発想は、近代的な区分かもしれない。
【確実】弥生期の高地性集落は海路の監視機能を持ち、山と海は連続した活動空間として使われていた。
大山津見神の「和多志大神」——山の神が海の神格を持つ理由
記紀において「山の神」とされる大山津見神(大山祇神)は、愛媛県大三島の大山祇神社に祀られている。
伊予国風土記逸文はこの神に「和多志大神(わたしのおおかみ)」という別名を記す。「わた」は海を意味する古語である。山の神が、なぜ海の神格を持つのか。
その理由は立地だけでは説明しきれない。大山津見神が山岳神でありながら海との関係を持つことは、古代の自然観が山と海を截然と分離していなかったことを示している。柴田の「山と海は連続した活動空間」という考古学的知見は、この神話的事実と整合する。
【確実】大山津見神は伊予国風土記逸文に「和多志大神(海の神)」の別名を持つ。
記紀最古層の海人族——神知津彦命
松原弘宣『古代の地方豪族』(吉川弘文館、1988年)は、阿波国名方郡の地方豪族「海直氏」の祖神が神知津彦命であることを記録する。
神知津彦命は記紀において、神武天皇の東征の際に「速吸門」で天皇の船を先導した、海上交通を象徴する神格として登場する。松原氏が指摘するように、海直氏は「記紀神話の最古層に直接連なる系譜を持つ」氏族だった。
この氏族が阿波国名方郡——紀伊水道に面する海域——を本拠としていたことは偶然ではない。彼らの祖神が先導した「速吸門」と、その活動海域の地理的関係に注目する必要がある。
【確実】阿波国名方郡の海直氏は、神武東征伝承に登場する神知津彦命を祖神とする。
第二章 記紀の地名が示す海人族の活動域
イザナギの禊——神話の起点の地名
古事記の冒頭近く、イザナギが黄泉国から帰還した後に禊を行う場面がある。その場所として記されるのが「筑紫の日向の阿波岐原」である。
ここからアマテラス・ツクヨミ・スサノオという三貴子が生まれる。つまりこの禊の場は、記紀神話全体の分岐点——神話の起点のひとつとして機能している。
古事記が「阿波岐原」という地名を記す一方、日本書紀はより具体的な地名の連鎖を記す。
「イザナギはまず粟の門(あわのみなと)、**速吸名門(はやすいなと)**で禊をしようとしたが潮流が速いため、橘の小戸で禊をすることになった」(日本書紀神代第五段)
三つの地名——粟の門、速吸名門、橘の小戸——がひとつの場面に連続して登場する。
地名連鎖が示す航路
江戸末期の地誌「阿波志」(二次資料として留意が必要)は次のように記す。
「粟の門は阿波の水門で阿淡の海口なり」——小鳴門海峡のこと。 「速吸の門は鳴門海峡」

この比定に従えば、日本書紀の地名連鎖は小鳴門海峡から鳴門海峡を経て阿南市方面へと続く、紀伊水道北端の海岸線を北から南へ辿る航路として読める。
この航路は第一章で確認した海直氏(神知津彦命)の活動域と地理的に重なる。そして日本書紀の「速吸名門」は、神武東征で神知津彦命が先導した「速吸門」と同一地名である可能性が高い。
神話の起点とされた禊の場所の地名連鎖が、記紀最古層の海人族の活動域と一致する——これは単なる偶然ではないかもしれない。
【有力】日本書紀「粟の門→速吸名門」の地名連鎖は紀伊水道の海人族活動域と地理的に対応する。
【推測】これが阿波の海岸線を指すという解釈は阿波説の立場からのものであり、主流解釈(宮崎・筑紫説)との差異として明示しておく。
第三章 国津神の祭祀者=天穂日命系の全国展開
国譲り神話が示す構造
記紀の国譲り神話において、大国主神(オオクニヌシ)は天孫側の要求に応じて地上世界を譲り渡す。その際、大国主は条件を提示する。
「千木が高天原まで届くような高い宮を建てて祀ってくれるならば、従おう」
そしてこの大国主の祭祀を委ねられたのが**天穂日命(アメノホヒノミコト)**である。
天穂日命は誓約段においてスサノオの息吹から生まれた神——天神系譜に属しながら、大国主神祭祀を担う役割を与えられた点で、国津神祭祀との結びつきが最も強く表現された系統である。天神でありながら国津神の祭祀者として機能するという、この独特の位置づけが天穂日命系の特徴である。
天穂日命系国造の全国分布
国造本紀に記録された天穂日命系国造は9件である。その分布を地図的に整理すると、際立った特徴が浮かび上がる。

史料注: 国造本紀は平安期に成立した編纂史料であり、系譜の実録ではなく「8世紀時点での系譜認識の整理」として性格づけられる。したがって分布図は「実際の氏族移動の証明」ではなく、「当時の系譜認識が示すパターン」として読む必要がある。

※天穂日命系とは、国造本紀において天穂日命を直接の祖神とする、または天穂日命系の中間祖神(建比良鳥命・彌都呂岐命等)を経由する系譜群を含む。
山陰道2件に対し、東海道7件——太平洋岸に圧倒的に偏った分布を示す。
(上図:天穂日命系国造9件の分布模式図。赤=山陰道、青=東海道・太平洋岸、緑=表記揺れのある国造)
志摩から房総半島にかけての太平洋岸沿いに天穂日命系国造が連続して分布するこのパターンは、「出雲(山陰)から分派した」という解釈よりも、もともと太平洋沿岸を移動していた海人族集団が、各地に定着したという解釈の方がはるかに整合的である。
【確実】天穂日命系国造9件のうち7件が東海道(太平洋沿岸)に分布する。 【有力】この分布パターンは、天穂日命系譜が山陰地域に限定されたものではなく、列島沿岸に広域展開した政治・祭祀ネットワークの痕跡として解釈できる。
「阿波」国造の意味
特に注目すべきは、千葉県南部に「阿波国造」が存在し、その系譜が天穂日命系である点だ。
「阿波」という地名を持つ氏族が、出雲国造と同じ系統の系譜を持って房総に存在する。地名と氏族系譜が同時に移動したとすれば、それは海路による移動の痕跡として解釈できる。
「阿波」地名の全国分布と天穂日命系の全国沿岸分布が重なるこの事実は、海人族が地名と祖神を携えて列島沿岸を移動したという仮説を支持する。
史料注: 国造本紀(先代旧事本紀所収)の写本系統では、この国造の表記に「阿波」「安房」「阿婆」などの揺れが存在する。後世の「安房国」との関係も含め、原初表記の確定には写本系統の比較検討が必要であり、現時点では【要検証】の論拠として位置づける。ただし天穂日命系の系譜自体は複数写本で一致しており、「この地域の国造が天穂日命系とされていた」という事実は変わらない。
【有力】千葉県南部の国造(表記「阿波」ないし「安房」)は天穂日命系の系譜を持つ。
【推測】地名と系譜の同時移動は海路による広域展開の痕跡である可能性がある。
第四章 「出雲神話」というラベリングの問題
前提:「出雲」という地名の問題
本章に入る前に、一点整理しておく必要がある。
「出雲といえば島根県」——これは現代人の常識である。しかしこの常識は、8世紀の律令制度が確定した後の地名認識を、それ以前の神話テキストに遡及して適用したものである。
「出雲国」という律令制の行政地名が確定するのは、古事記(712年)・日本書紀(720年)の編纂とほぼ同時期である。つまり神話テキスト中の「出雲」と、律令制の「出雲国(現・島根県)」が同一であることは、編纂者がそう意図したという前提を置かない限り自明ではない。
記紀以前に「出雲」という地名・概念がどこを指していたのか——これ自体が検証されるべき問いである。本章はこの問いを出発点として、「出雲神話」というラベリングの成立過程を検討する。その答えは結論において、阿波国名方郡の祭祀伝承とともに提示する。
古事記原文が示すもの
「出雲神話」という言葉は広く使われているが、古事記の原文を精読すると、注意すべき点がある。
スサノオが高天原を追放された後に降り立つ場面、古事記の原文は「出雲の肥の河上、鳥髪山の地」と記す。「出雲国」と明示しているわけではなく、「出雲の」という修飾語で示されているにすぎない。
さらに重要なのは、出雲国風土記(733年)と古事記「出雲神話」の関係である。出雲国風土記にもオオクニヌシ・スサノオ系の伝承は存在するが、古事記が「出雲」を舞台として描くドラマチックな神話体系——ヤマタノオロチ退治・国作り・国譲りの一連の物語群——とは明らかに異なる伝承構造を持っている。
地元の史料が古事記型の「出雲神話」と異なる伝承体系を持つ——これは、古事記・日本書紀の出雲神話が、出雲地域の伝承のみを記録したものではなく、8世紀編纂の過程で複数地域の神話要素を統合・固定化した結果である可能性を示唆する。
8世紀編纂の政治的文脈
古事記(712年)・日本書紀(720年)が編纂された8世紀初頭は、律令国家が「国」という行政単位を確立した時代でもある。
全国各地に伝わっていた海人族の神話群——国津神の物語——が、「出雲国」という行政地名と結びつけられ「出雲神話」としてラベリングされた可能性がある。
第三章で確認した天穂日命系国造の太平洋岸分布は、「出雲=山陰」という固定観念とは整合しない。国津神の祭祀担い手が列島沿岸に広域展開していたとすれば、その神話もまた本来は広域的なものだったはずである。
特定の「国」の神話として固定されることで、広域海人族の神話はひとつの地点に収束した——という仮説は、以上の証拠群から導くことができる。
【推測】「出雲神話」というラベリングと山陰への地名固定は、8世紀律令編纂期に生じた可能性がある。
【有力】天穂日命系国造の分布パターンは「山陰出雲起源」説と整合しない。
結論:「いずも」は広域海人族の神話だった
本稿が示してきた証拠を整理する。
考古学的事実として、縄文期から列島沿岸を結ぶ広域海上ネットワークが存在し(黒曜石・サヌカイトの流通)、弥生期には高地性集落が海路の監視・制御機能を果たしていた(柴田昌児)。山と海は連続した活動空間だった。
記紀祖先神の記述として、阿波国名方郡の海直氏は神武東征伝承の「速吸門」に登場する神知津彦命を祖神とし(松原弘宣1988年)、国津神の代表・大国主の祭祀者として天穂日命が位置づけられている。
国造本紀のデータとして、天穂日命系国造は山陰2件・太平洋岸7件という非対称な分布を示し、「山陰出雲起源」説と整合しない。
神話テキストの精査として、古事記原文は「出雲の肥の河上」と記すだけで場所を特定せず、日本書紀の禊場面は「粟の門→速吸名門」という海人族活動域に対応する地名連鎖を持つ。出雲風土記は古事記「出雲神話」の主要な物語を知らない。
これらの証拠が示す像は一致している。
国津神は列島沿岸を広域に行き来した海人族の神話的投影であり、その祭祀担い手(天穂日命系)は太平洋岸を中心に全国沿岸に展開していた。8世紀の律令編纂期に、この広域的な神話群は「出雲国」という行政地名に固定され「出雲神話」となった。
各地に残る「いづも」の記憶——その最も具体的な例が、序論で紹介した宅宮神社(徳島市上八万町)のいづも踊りである。この神社は延喜式神名帳「阿波国名方郡」に記載された式内社であり、本稿第一章で確認した海直氏(神知津彦命系統)の本拠地と同一の郡内に位置する。さらに同社には「伊豆毛の国の伯母御の宗女」という社内伝承が残っており、名方郡と「いづも」の結びつきを神社自身が記録している。この伝承が古代段階まで遡るかは別途検討を要するが、少なくとも近世以前から「いづも」との関係を意識した祭祀伝承が名方郡に存在したことを示す【伝承資料として確認できる】。
「いずも」は山陰の地名ではなく、列島沿岸を行き来した海上活動集団の神話が各地に刻んだ痕跡だったのではないか。
各論点の確実性表示

主要参考文献
松原弘宣『古代の地方豪族』吉川弘文館、1988年
柴田昌児「中・西部瀬戸内の高地性集落と山住みの集落」(弥生時代高地性集落研究プロジェクト収録)
柴田昌児『弥生・古墳時代の瀬戸内海と海上交通』愛媛大学関係者編、2025年
飯田義資『新しい阿波史』徳島新聞出版部(新生文庫)、1953年
『国造本紀』(先代旧事本紀所収)
『古事記』(712年)
『日本書紀』(720年)
伊予国風土記逸文(大山津見神「和多志大神」記事)
本稿の作成にあたりAIによる資料調査・論証構造の検討支援を受けた。
