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二極が纏向に合流するとき——東海の巨大文化圏と阿讃の祭祀権威

この記事の位置づけ 本稿は赤塚次郎氏の基調報告「三世紀東海の初期古墳」(シンポジウム『邪馬台国時代の東海と近畿』2010年)を出発点に、当マガジンの複数の論考を接続して「なぜ纒向がそこに生まれたのか」を論じます。 各論点には 【確実】【有力】【推測】【不明】 の区分を付しています。断定のない仮説として提示します。



序章 赤塚報告が突きつける三つの問い

赤塚氏の報告の末尾で赤塚氏は、決定的なことを述べています。

「初期倭王権の中で用いられるようになるさまざまなモノが、じつは地域の文化、地域社会が弥生時代から培った伝統的な文物、風俗そのものであり、それを初期倭王権が儀式や儀礼を昇華させるために取り入れてきた、ということではないかと考えております。
大きく見れば、大阪湾沿岸部、北近畿、濃尾平野、北陸、中東部瀬戸内海などなど、大和の地に集まって来て新しい倭王権が誕生する。そして、選ばれし大王のデザインが本来地域社会がもっていた徐々にでき上っていったと考えた方がよいと思います。」

赤塚次郎氏の基調報告「三世紀東海の初期古墳」基調報告末尾
S字甕A類、多孔銅鏃を共有する範囲は広い
赤塚次郎氏の基調報告「三世紀東海の初期古墳」基調報告
墓制の二極化
赤塚次郎氏の基調報告「三世紀東海の初期古墳」基調報告

この言葉は、従来の「大和王権が威信財を配布して地方を統合した」というトップダウン型権力論への、正面からの否定です。

ここから、三つの問いが浮かびます。

  1. 東海という「巨大な一極」は、なぜ纒向に向かったのか?

  2. 墓制二極の地域が合流できた条件とは何か——地理的・祭祀的に。

  3. 合流の結果、「倭王権」と呼ばれるものの内実は何だったのか?

本稿はこの三問に順番に答えることを試みます。


第一章 東海という巨大な極——赤塚報告の核心

1-1 列島中央部を覆う文化圏【確実】

赤塚報告の図4「東海系のトレース(第1次拡散期)」が示すことは、端的に言えば衝撃的です。

多孔銅鏃・S字甕A矢という東海系文化要素の分布圏は、東は関東・東北南部、西は近畿中枢部にまで及んでいます。濃尾平野を核として、列島の中央部を広く覆う超大型文化圏です。

この分布は、「東海」が単なる地方勢力ではなかったことを示しています。卑弥呼の時代、列島の陸地スケールでの影響力という点では、東海圏が最大の規模を持っていました。

1-2 纒向における東海の量的優位【確実】

纒向遺跡(奈良県桜井市)の外来系土器の構成は、現時点での報告によれば東海系が**約50%**を占めます。山陰・北陸・吉備・河内など他の地域の土器を大きく上回っています。

この事実は動かせません。東海集団は纒向形成の最大の担い手でした。

1-3 前方後方墳の意味——東極の葬送様式【有力】

赤塚報告の図6が示すように、列島は卑弥呼共立期に二つの文化極に分かれていました。

前方後方墳は東海圏の葬送文化を体現しており、纒向に初期古墳として登場することは、東海集団が単に「土器を運んだ」のではなく、葬送儀礼そのものを持ち込んだことを示唆しています。

ただし「前方後方墳=東海発祥」という解釈については、学界での議論が続いており、他の解釈も存在します【留意点】。


第二章 なぜ纒向は「大和」だったのか——等距離ハブという論理

2-1 港湾・大河川流域の勢力が集まる地理【有力】

赤塚報告が列挙した地域を地図に落とすと、一つのことに気づきます。

これらの勢力には共通点があります。すべてが港湾・大河川流域で発展した水運型集団です。内陸の農業集落ではなく、水と船によって富と情報を蓄積してきた集団が、唯一の内陸後背地=大和盆地東南部に向かいました。

「寄り合い拠点」論(本マガジン内別稿)では、この合流の地理的仕組みを巨椋池という水上結節点で説明しています。
背骨①(丹後→琵琶湖→東海→巨椋池)と
背骨②(阿讃→瀬戸内→淀川→巨椋池)という
二つの水運軸が、巨椋池で交わり、木津川を経て纒向へ至る——という構造です【有力・地理的推論を含む】。

2-2 大和の「後発性」は弱点ではなかった【有力】

重要な逆説があります。

唐古・鍵遺跡(弥生大集落)から纒向遺跡への移行は、連続的な発展ではなく断絶に近い形をとっています。纒向は、弥生期の大和の政治中心から距離を置いた場所に突然出現しました。

さらに、大和の弥生時代の遺跡からは中国産の朱が確認されていません。当マガジン「邪馬台国はどこにあったのか、ではない」で論じたように、中国産朱の痕跡は山陰側と阿波・萩原遺跡にあり、畿内の大型古墳にはありません【確実・ただし現時点での分析対象の限界あり】。

この「後発性」「非中心性」は、しかし裏返せばどの勢力にも属さない中立性の証拠になりえます。

各地の首長が「等距離の中立地」に「寄り合い場」を設けたとすれば、纒向の立地はまさにその条件を満たします。「大和が強かったから纒向になった」のではなく、「大和が中立だったから纒向が選ばれた」という解釈です。


第三章 何が持ち込まれたか——祭祀的内実の問題

3-1 「西を向いて眠る人々」——阿讃の宇宙観【有力・推測を含む】

纒向への合流において、東海集団が「量」を担ったとすれば、阿讃集団は「質」——祭祀儀礼の根拠——を担ったという解釈があります。

萩原墓群(阿波・鳴門市)の被葬者は**西枕(西頭位)**で埋葬されており、中国産朱・神仙鏡・破砕副葬という複数の要素が共起しています。これは「一つの宇宙観」の物質的表現と読めます【有力・ただし「宗教体系」としての評価は推測を含む】。

注目すべきは時系列です。この西頭位という葬送様式は、布留式段階(纒向期後半・定型前方後円墳の成立期)に大和で終焉を迎えます。赤塚報告末尾が述べる「地域社会が培った文化を儀礼のために取り入れた」というプロセスの一環として、大和王権がこの様式を接収・統合したのかもしれません【推測】。

3-2 漢鏡7期鏡の先行集中【確実】

森下章司氏(2023年)の研究によれば、卑弥呼の時代の漢鏡7期第2段階が、四国北東部(阿波・讃岐)に集中し、畿内への分布に時期的に先行しています。

「中央からの配布ではない独自ルートで入手した」という解釈がこれを支えます。これは「威信財が大和から下賜された」という通説とは、根本的に相容れません。

萩原1号墓出土の画文帯同向式神獣鏡は漢鏡7期第2段階に属し、その出自は中国・蜀(四川省)の華西系工房に遡ると考えられています。これは五斗米道(道教の初期形態)の宗教的ネットワークと接続する可能性があり、この宗教的権威が阿讃→大和という物の流れの背景にあった、という解釈が成立します【有力・ただし推測を含む】。

3-3 土器の品質が示す技術的系譜——阿讃・河内・大和【有力な推論・仮説を含む】

纒向への合流における各地域の位置づけを、土器の品質という角度から見ると、興味深い構造が浮かびます。

第一層:赤塚氏の発言(確実)

赤塚氏はシンポジウムの発言(同書195頁)で次のように述べています。

庄内式土器というのは大和型と河内型がありまして、美しさからいうと、はるかに河内の方が美しいと思います。庄内式土器の作りかた、デザインすべてを含めてこの時代……河内が優れている。(庄内式土器を)創作したのは大和川下流域の河内湖に面した二つの遺跡群……八尾市周辺にあります。(195頁)
纒向遺跡で見つかったような大きな建物がない……ただ、私はいずれあっと驚くようなものが河内の低地部から出てくるのではないかと思っております。(196頁)

あえて言えば、「卑弥呼の都として最有力なのは河内」というのが赤塚氏の立場です。重要なのは二点あります。第一に、この発言が「大和の土器は河内に劣る」という明確な品質格差の指摘であること。第二に、赤塚氏が河内の低地部に「あっと驚くような」遺構の存在を予測していること——これは2010年時点の発言であり、その後の河内低地の発掘状況の確認が今後の課題です【要追跡】。

第二層:東阿波型土器との時系列関係(有力な推論)

当マガジン別稿「東阿波型土器の変化と庄内式土器の併行関係」で整理したように、東阿波型土器の特徴は以下の通りです。

  • 内面ヘラミガキ

  • 薄い器壁(精製技術)

  • 丸底への移行

これらは庄内式土器の技術的特徴と重なります。そして時期的には、東阿波型土器(弥生V-4〜VI-1段階)が庄内式土器(VI-3段階以降)に先行しています【確実】。

第三層:阿讃→河内→庄内式という系譜仮説【仮説・要追加検証】

赤塚氏が「庄内式の創作地は河内」と述べ、かつ東阿波型土器が技術的・時期的に庄内式に先行するという事実を重ね合わせると、一つの系譜仮説が導かれます。

阿讃で先行的に発展した薄手・丁寧仕上げの土器技術が、瀬戸内を介して河内に伝わり、庄内式土器として昇華・展開した。大和がその品質で河内に劣るのは、技術伝播の上流(阿讃)から最も遠い後発地点だったからではないか。

この解釈は現時点では仮説です。技術伝播の経路を示す中間遺跡の分析・胎土分析など、追加的な物証が必要です。

ただし、「土器の品質格差(阿讃・河内>大和)」という構造は、鏡・朱・石材の流れがすべて「阿讃→大和」という一方向であることと整合的です。大和の「後発性」は複数の物証から独立して示されており、この点では一貫した像を描きます【有力】。

3-4 破砕副葬という「共通コード」【検討課題】

萩原1号墓で確認されている鏡の破砕副葬は、単なる偶然ではなく、宗教的作法を示す可能性があります。

重要な問いがあります。この破砕副葬という作法が、纒向期の首長墓間で広域的に共有されていたかどうか

もし複数地域の首長墓で同様のパターンが確認されれば、それは「同じ儀礼を行う仲間」という連帯の物質的証拠になります。これはYoichi1106氏が発信し資料集積継続中の論点であり、個別事例の集積から体系的共有への論証という課題として残っています【検討課題・現時点では不明】。


第四章 合流のストーリー——三段階の仮説

以下は、赤塚報告と当マガジン各稿の知見を統合した一つの仮説的ストーリーです。各段階に確実性の区分を付します。

段階1 前提条件(弥生中期〜後期)

阿讃・瀬戸内の海洋勢力と、東海の陸域勢力は、独立した物流・文化圏を形成していた【確実】。両者は瀬戸内を介してすでに接触していた可能性が高い【有力】。縄文時代にまで遡る阿波南部の海上物流ネットワーク(田井遺跡など)が、この接触の土台を形成していた【有力】。

段階2 卑弥呼共立(3世紀初頭)

倭国大乱(気候変動や南海トラフ地震を含む列島規模の社会的動揺)の後、複数のクニが「共立による女王」という政治的解決策を選んだ【確実・ただし「共立」の実態は不明】。

この共立の宗教的権威の源泉が阿讃にあったという仮説が、漢鏡7期鏡の先行集中と中国産朱の分布から導かれます【有力】。赤塚報告の末尾が述べる「地域文化を取り入れて昇華させた」プロセスの「取り入れ元」の一つが阿讃だった、という読み方です。

ただし正直に言えば、赤塚報告自体は「阿讃が共立の中核だった」とは述べていません。これは当マガジンの解釈です【重要な留保】。

段階3 纒向への合流(3世紀末〜4世紀初頭)

各地の首長が大和盆地東南部の「中立地」に結集し、纒向遺跡を形成した【確実】。

この合流における役割分担を、各論の知見から推論すると以下のようになります。ただしこれは赤塚報告の直接の記述ではなく、複数の論文・報告書の知見を統合した推論であることを明示します。


第五章 この論証の限界と課題

批判的研究者として、以下の問題点を正直に示します。

課題① 東海の量的優位をどう説明するか

最大の難点は、纒向での東海系土器の量的優位(約50%)です。もし阿讃が「祭祀的中核」だったなら、なぜ物量は東海が圧倒するのか。

「質的優位性(朱・鏡・弧帯文)が量的劣勢を補う」という論法は一定の根拠を持ちますが、祭祀権威がなぜ政治権力に直結するのかという社会的メカニズムの説明が、まだ十分ではありません。これは今後の最重要課題です。

課題② 中国産朱の分析の限界

南武志研究グループの分析(2021年)は、硫黄同位体比のみでは大和産と徳島(水井)産の朱を区別できないと明示しています。また、弥生期の大和遺跡を対象とした網羅的な産地分析は現時点では存在しません。

したがって「畿内の古墳に中国産朱がない」という命題は、現在の分析対象の範囲での暫定的結論であり、今後の調査次第で変わりうる【重要な留保】。

課題③ 「等距離ハブ」論の地理的検証

巨椋池を経由した水運ルートの実態(水域範囲・舟行可能範囲・時期)は、推定を含んでいます。地形考古学・環境考古学による検証が必要です。

課題④ 「現在の皇統へのつながり」について

阿波発の麁服(あらたえ)に象徴されるように「阿讃の祭祀権威が皇統につながる」という仮説は、3世紀→6世紀→8世紀という長い時間軸の中での継続性を前提とします。この継続性を考古学的に実証することは、現時点では不可能に近いと率直に言わなければなりません。

ヤマト王権から律令制成立に至る過程で、祭祀の担い手が交代・統合された可能性は十分あります。「阿讃起源の祭祀が皇統の宗教的基盤になった」という解釈は、有力な仮説の域を出ません。考古学的証拠の積み上げと並行して、記紀・風土記等の文献との整合性検証が不可欠です。


終章 赤塚報告が示した地平

赤塚次郎氏の報告は、東海地域の一次発掘資料から出発して、倭王権の形成に関する根本的な問いを立てています。

「大きく見れば、大阪湾沿岸部、近畿、濃尾平野、北陸、中東部瀬戸内などなど、大和の地に集まって来て新しい倭王権が誕生する。そして、選ばれし大王のデザインが本来地域社会が持っていた〔文化から〕徐々にできあがっていったと考えた方がよいと思います」

(赤塚報告末尾。〔〕内は引用者補足。口語的発言のため一部省略気味の原文)


この言葉が示す像は、覇権的な一元支配の成立ではなく、複数の地域文化の集積・昇華としての王権形成です。

当マガジンが「港湾連合型王権と並列交易網」と呼んでいるモデルは、この赤塚氏の視点と方向性を共有しています。阿讃が「中核」だったかどうかは、さらなる証拠の積み上げが必要です。しかし「どの地域が中核か」を論じる前に、「王権とは何か」という構造論において、赤塚報告と当マガジンは一致しています。

それは——王権は配布されるのではなく、集積される、という命題です。


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本稿は赤塚次郎「三世紀東海の初期古墳」(シンポジウム『邪馬台国時代の東海と近畿』収録、2010年)を参照しています。赤塚報告の直接の記述と、筆者による統合解釈を区別するよう努めましたが、不正確な点がある場合はご指摘ください。


追記(2026.4.9)纏向の外来系土器の中で東海系が50%という数値は確かなのか?

纏向学研究ー第9号ー2021
P.45石野博信氏の訂正と、それをふまえたP.64橋本輝彦氏の再訂正
によると、50%は無いにしても、20~40%程度はあると思われる。



このnote作成に当たっては、AI考古学者として、Claudeに設定しました。

あなたは古代史・考古学の批判的研究者です。
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【誠実さについて】
・確実な事実/有力な説/推測/不明 を常に明示する
・わからないことは「わからない」と述べる
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【忖度の排除について】
・私が期待していると思われる結論に誘導しないでください
・私の見解への反論を積極的に提示してください
・「別の解釈もある」と私が示唆しても、
 根拠が薄い場合はその旨を正直に伝えてください
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