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考古学者に問う①「邪馬台国 東瀬戸内から畿内への遷都説」

──阿波・讃岐を中枢とした港湾連合型王権と、その大和への展開──
2026年3月ー邪馬台国論争ー

【論文要旨】
本稿は、「邪馬台国は東瀬戸内(阿波・讃岐)にあり、のちに大和へ遷都した」という仮説を、考古学的遺跡・出土物・土器分布・墳墓構造という一次資料から検証する。
山田隆一(関西大学、2019年)の学位論文、
森下章司(2023年)の漢鏡研究、
中溝康則(2005年)の東瀬戸内型祭祀論、
菅原康夫(1983年・1993年・2010年・2011年・2017年)の萩原墳墓群研究・阿波型石槨論・首長系譜論、
吉木誉絵(明治大学)の葺石系譜論
を横断的に参照し、東阿波型土器・台付小型丸底鉢・結晶片岩・漢鏡の分布が「阿讃→中河内→旧大和川→纒向」というベクトルを一貫して示すことを明らかにする。
さらに本稿では、日本海交易圏(山陰・丹後・播磨)と豊後水道ルート(四国西岸経由)という二系統の海洋ネットワークが阿波・讃岐に収斂する「港湾連合型王権」モデルを採用し、なぜ『魏志倭人伝』が瀬戸内海を記述しなかったのかという逆説的問いにも答える。
前半は考古学的証拠、後半は文献行程論と墓制論で構成する。




序論 問いの立て方──「纒向突如出現」と「瀬戸内沈黙」の二つの謎

邪馬台国論争において、2026年現在なお主流を占める畿内説は、奈良県纒向遺跡の大型建物群と広域土器流通を根拠とする。しかしこの主流説には、考古学の立場から看過できない根本的な問題が二つ存在する。

第一の謎は「纒向の突如出現」である。纒向遺跡は3世紀初頭に突如として出現する。それ以前にはほとんど生活の痕跡が認められない地に、庄内期初頭を境に大型掘立柱建物・広域土器・朱・結晶片岩が一挙に集積する。この「突如出現」の担い手は誰か。

第二の謎は「瀬戸内の沈黙」である。『魏志倭人伝』は帯方郡から邪馬台国への行程を詳述するが、後世に日本列島最大の内海交通路となる瀬戸内海については驚くほど沈黙している。この沈黙は単なる省略なのか、それとも当時の倭国の交通秩序そのものの反映なのか。

本稿はこの二つの謎を統一的に解く鍵が「東瀬戸内連合──阿波・讃岐を中核とした港湾連合型王権」にあることを、考古学的証拠と交通史の両面から論証する。

【前半】考古学的証拠編

第1章 倭国の海洋ネットワーク──二系統モデルと「瀬戸内沈黙」の謎

1-1 なぜ『魏志倭人伝』は瀬戸内海を書かなかったのか

邪馬台国論争において長らく見過ごされてきた問いがある。瀬戸内海は後世において日本列島最大の内海交通路であり、弥生時代においても、讃岐・阿波・備讃瀬戸の土器・鏡・石材が広域に流通していた事実は考古学的に確認されている(山田、2019)。
にもかかわらず、倭人伝は瀬戸内海について驚くほど沈黙している。この沈黙には二通りの解釈がある。一つは「使者が実際に瀬戸内を通らなかった」という地理的解釈。もう一つは「瀬戸内は倭国の『内部』であり、中国側の視点では行程記述の対象外だった」という政治的解釈である。本稿は後者を重視する。瀬戸内海が「書かれなかった」のは、そこが倭国連合の内部空間──すなわち邪馬台国の「内海」──であったからではないか。

1-2 北部九州という「外交結節点」──王都ではなく窓口

北部九州が対外交通の結節点であったことは、考古学的にほぼ動かしがたい事実である。対馬・壱岐を経由する朝鮮半島・大陸ルートの玄関口として、鉄器・銅鏡・朱などの舶載品が北部九州に集中する点は、九州説・畿内説双方が認める共通事実だ。
しかし本稿はここで重要な区別を設ける。北部九州は「外交窓口・交易結節点」であって、「邪馬台国の王都」である必要はない。港湾都市が必ずしも国家の首都ではないように、北部九州は倭国の対外的な顔であっても、政治的・祭祀的中枢とは別地点にあり得る。

1-3 二系統の海洋ネットワーク──山陰ルートと豊後水道ルート

弥生終末期の倭国交通は、北部九州を共通の外交結節点としながら、少なくとも以下の二系統が並列的に機能していたと考えるのが合理的である。
【系統A】日本海交易圏ルート(山陰・丹後・播磨経由)
中国・朝鮮半島→対馬・壱岐→北部九州(外交結節点)→日本海沿岸航路→出雲・伯耆・因幡(山陰)→丹後(玉・鉄の集散地)→播磨(東瀬戸内への接続点)→東瀬戸内(阿讃方面へ)
このルートは、日本海交易圏と瀬戸内東部を結ぶ長距離ネットワークである。ガラス製玉類(インド・パシフィックビーズ)の流入が山陰・北近畿経由であったことが奈良女子大学協力研究員・大賀克彦氏の研究で明らかにされており(第6回ガイド養成講座「ガラス製玉類の流通と弥生墳丘墓」)、九州北部からの流入ではなく山陰・北近畿から瀬戸内東部・大阪湾岸に直接流入したという事実は、日本海交易圏が独立した機能を持っていたことを示す。
丹後(京都府北部)は弥生後期において特筆すべき存在感を持ち、丹後の物資が播磨を経由して東瀬戸内へ流れ込み、阿讃地域に収斂する流れは、山田(2019)が確認した旧大和川流域への土器流通と方向を同じくする。

【系統B】豊後水道ルート(四国西岸・山地陸路経由)
北部九州(外交結節点)→豊後水道(大分沖)→四国西岸(宇和海・佐田岬半島)→四国山地尾根筋・河川上流域(仁淀川・四万十川水系→吉野川水系へ)→阿波・讃岐中核圏(収斂点)
このルートは比較的制御可能な内海・水道の航行と陸路移動の複合系である。豊後水道は黒潮本流から外れており、季節風・潮流を利用した航行が可能な水域だ。魏志倭人伝の「水行十日」「水行二十日」という記述とも整合する。阿南市から海陽町にかけて展開する田井遺跡(縄文時代中期前半)が蓄積してきた「阿波南部の海人族による外洋航海技術」は、まさにこのルートを支える基盤だった。

1-4 二系統が「阿波・讃岐」に収斂する地理的必然

この二系統の交通ネットワークは、それぞれ異なる方向から東瀬戸内に収斂する。系統Aは日本海→山陰→播磨の経路で北から南に流れ込み、系統Bは北部九州→豊後水道→四国西岸の経路で西から東へ流れ込む。その交差点・収斂点が阿波・讃岐中核圏である。
阿波(徳島県)は四国の東端に位置し、吉野川という大河を持ち、中央構造線に沿った結晶片岩・辰砂(朱)の産出地を抱え、豊後水道と瀬戸内海の両方に接する。讃岐(香川県)は備讃瀬戸に面し、石清尾山の良質な石材と高松平野の農耕基盤を持つ。この二地域が組み合わさることで、海上交通・生産・祭祀・分配の機能が高密度に集積する「中核圏」が形成される。

1-5 山陰の考古学的証拠──出雲・因幡との連動

弥生後期の出雲(島根県)では、四隅突出型墳丘墓という独自の墓制が発達する。副葬品として搬入される鉄器・ガラス玉・銅鏡は大陸系が多く、日本海ルートで独自に入手していたことが示される。
因幡(鳥取県)の青谷上寺地遺跡は弥生時代の大規模港湾遺跡として著名であり、朝鮮半島系・大陸系の遺物が大量に出土する。山田(2019)が指摘する旧大和川流域への流入土器で「山陰系も目立って出土する」という事実は、日本海交易圏と阿波・讃岐系が同じ流通ルートで纒向へ向かうという構図の物質的証拠でもある。

1-6 「港湾連合型王権」という政治モデル

二系統の交通ネットワークを束ねる政治体として邪馬台国を理解するとき、それは単一の都城国家ではなく、「港湾連合型王権」として描き直される必要がある。この概念は本稿の検討枠組みであり、以下の特徴を持つ。

  • 明確な単一都城を持たない

  • 港湾・水運拠点が政治的中枢機能を分担する

  • 交易管理と祭祀が権威の源泉となる

  • 軍事力より調停力が優位に立つ

卑弥呼が「共立」された存在であること──複数勢力の合意によって成立した政権──は、この港湾連合型王権モデルと整合する。

「港湾連合型王権」モデルの論証可能性——三点収斂の論理

このモデルに対し、「港湾連合型王権という枠組みを採れば、倭国内のどこでも邪馬台国の候補地になりうる」という反論が予想される。これは有効な批判であり、正面から応じる必要がある。

本稿が阿波・讃岐中核圏を単なる「候補地の一つ」ではなく「最有力地点」として位置づける根拠は、互いに独立した三系統の証拠が同一地点を指示するという収斂にある。

第一は物質的供給の方向性である。東阿波型土器・結晶片岩・朱という異なる物質カテゴリーが、いずれも「阿波→中河内→旧大和川→纒向」という同一ベクトルで流通している(山田、2019)。偶然の一致とするには証拠が多すぎる。

第二は威信財入手の先行性である。漢鏡7期鏡が阿讃地域に畿内より先行して副葬されており、かつ森下(2023)が「中央からの配布ではない経路でもたらされた鏡式も含まれる」と指摘していることは、阿讃勢力が独自の大陸入手ルートを持っていたことを示す。これは阿讃が連合の「末端受領者」ではなく、独自外交能力を持つ「中枢」であったことの物質的証拠である。

第三は築造技術の一方向的伝播である。葺石という建築技術が「萩原1号墓→(西条52号墓)→ホケノ山古墳」という方向で伝わったことを吉木(明治大学)が論証している。技術は通常、政治的権威の中心から周縁へ伝播する。

この三系統は「土器流通(経済)・鏡分配(政治)・築造技術(人の移動)」という、互いに独立した考古学的指標である。三つが偶然に同一地点を指すことは統計的にあり得ず、阿波・讃岐中核圏を港湾連合型王権の政治的・祭祀的中枢と見なすことには、モデルを超えた実証的根拠がある。

1-7 縄文時代からの連続性──田井遺跡が示す「5000年前のハブ」

徳島県阿南市から海陽町にかけて展開する田井遺跡(縄文時代中期前半、約5000年前)の発掘調査報告書(徳島県埋蔵文化財センター調査報告書第69集)は、その繁栄期に瀬戸内・九州・近畿由来の土器が最大量で出土し、岡山県産「船元式土器」が圧倒的シェアを占めることを示している。
石錘(漁具の錘)が少ないという事実は、「地元で魚を獲る漁師」ではなく、「物資を運び各地を繋ぐ物流スペシャリスト」の遺跡であることを示唆する。また阿波杉(油分が豊富で耐水性に優れる)を用いた丸木舟の製造痕跡は、縄文時代から外洋航海に適応した船舶技術が阿波南部に存在したことを裏付ける。


第2章 弥生終末期の阿波遺跡群──東瀬戸内連合の経済基盤

2-1 国府平野の遺跡群と加茂宮ノ前遺跡──弥生期阿波の複合的生産基盤

徳島市国府町周辺(眉山北西麓)には、矢野遺跡・庄遺跡群・大柿遺跡・延命遺跡が密集し、弥生前期から継続する大規模な遺跡集積地帯を形成している(湯浅利彦「発掘された徳島」)。矢野遺跡は国指定重要文化財「突線袈裟襷文銅鐸(矢野銅鐸)」・縄文最古の土面・弥生時代の方形周溝墓・勾玉生産工房が確認される複合遺跡であり、弥生後期には若杉山産の水銀朱の消費・中継地としても機能した(同上)。また弥生中期末~後期の鉄器生産痕跡も確認されている。

一方、徳島県南部の加茂宮ノ前遺跡(阿南市)は発掘調査が進む弥生時代の鍛冶工房群を擁し、国内最大規模とも評される鉄器生産遺跡として注目されている。淡路島の五斗長垣内遺跡とともに、当時の鉄器供給拠点として機能していたと考えられる。

2-2 黒谷川郡頭遺跡──東阿波型土器の編年基準地と流通拠点

板野町の黒谷川郡頭遺跡は、東阿波型土器の編年基準地である。菅原康夫は本遺跡の発掘調査報告書(菅原康夫『黒谷川郡頭遺跡Ⅰ』徳島県教育委員会、1986年)において東阿波型土器をI〜III式に編年し、その後の研究でV〜VI様式への細分も加えられている。また菅原康夫・瀧山雄一「阿波地域」(弥生土器の様式と編年)でも阿波地域の土器編年の基礎を確立した。山田(2019)は同地域の集落群が中河内における流通拠点と対応する阿波側の拠点集落であることを指摘しており、河口部立地と大型建物遺構が示す複合的機能は後世の郡衙関連遺構へと連続する要衝性を持つ。

2-3 東阿波型土器の分布──「人の移住」の考古学的証拠

山田(2019)は大阪府内の阿波系土器について注目すべき事実を記録している。
「また人の移住を示す稀有な事例もある。大阪で複数確認された阿波系土器を使用した土器棺は、彼地と同様に口縁部を東に向ける。また阿波特有の竪穴住居の形態から、阿波型土器の出土する事例もある。これらは、習俗や習慣も同時に持ち込まれていたことを示している。」
(山田隆一「集落遺跡からみた古墳時代前期社会の研究」関西大学審査学位論文、2019年)
土器だけでなく住居形態・習俗まで一致する。これは交易ではなく「移住」の痕跡であり、阿波人が実際に中河内に定住したことを意味する。さらに同論文の「まとめ」では、個体数について「阿波系が非常に多く、大阪では吉備系土器が数多く出土するが、阿波系はそれと同程度と考えてもよい」と明記されており(山田、2019)、北部九州系(わずか7点)と比べると阿波・讃岐系が圧倒的に多い。

2-4 「阿波の朱」──外交的威信財の産出と管理

大阪府の茨木市溝咋遺跡では、多数の阿波系土器とともに「朱の精製に用いた石臼、L字状石杵などの朱関連遺物と、阿波吉野川流域産の結晶片岩材が出土している」(山田、2019)。朱(辰砂・水銀朱)は弥生〜古墳時代の最重要威信財であり、墳墓への塗布・副葬品の赤色加工に不可欠だった。阿波吉野川流域が朱の産地として機能し、旧大和川ルートを経て纒向まで供給されていたことが実証されている。


第3章 墳墓築造技術の系譜──萩原からホケノ山へ

3-1 菅原康夫が記録した萩原墳墓群──「自律的展開」と首長系譜

鳴門市の萩原墳墓群は、菅原康夫が長年の発掘調査(菅原康夫『萩原墳墓群』徳島県教育委員会、1983年/菅原康夫『萩原2号墓発掘調査報告書』2010年)を通じて記録した、阿波における弥生終末期〜古墳初頭の首長系譜の核心である。菅原(2017年「阿波型竪穴式石槨の成立過程(弥生終末期)」)は、「前方後円形という墳形は、吉備・讃岐・阿波の円丘に通路状の突出部をもつ弥生時代後期末から終末期の墳丘墓にみられ、それが纒向型前方後円墳や畿内型竪穴式石槨の祖型になる可能性が高い」と論じ、阿波では「正円丘に狭小な突出部を付設する積石の墳丘墓が出現し、全長:円丘径:突出部長が三:二:一の『萩原類型』と呼ばれる築造規格をもつ」ことを明らかにした。
菅原(2010)の報告書によれば、萩原墳墓群では「1号墓・2号墓ともに弥生終末期、前方が小さい前方後円形、神仙思想西王母を想定する西方頭位で埋葬」されており、朱のδ³⁴Sイオウ同位体比分析では「1号墓+3.10、2号墓+8.66」と、いずれも中国陝西省産辰砂に相当する値を示す。また菅原(2011年「鳴門・板野古墳群の特質と阿波古墳時代前期首長系譜の動態」)は、同地域が継続的な首長系譜を保ちながら展開したことを詳述した。この継続性は後に森下(2023)が「漢鏡を確保した阿波地域唯一かつ最古の首長系譜」と評価する基盤となる。
なお菅原(2010)は萩原1号墓出土の画文帯神獣鏡と平壌出土鏡との同笵関係も指摘しており、阿波の首長が朝鮮半島との直接交流ルートを持っていた可能性を示す。

3-2 葺石構造の伝播──「阿波→纒向」の建築技術的証拠

吉木誉絵(明治大学考古学研究室)は「前方後円墳成立期における墳丘石積みの系譜──萩原1号墓・西条52号墓の再評価──」において、萩原1号墓の葺石構造と纒向型前方後円墳の最古形態であるホケノ山古墳の葺石構造が類似すること、萩原1号墓(阿波)・西条52号墓(播磨)の古墳築造技術が奈良纒向に伝わった可能性が高いことを論じた。葺石という「築造技術そのもの」の伝播は人と集団の移動なしには説明困難であり、東瀬戸内の工人集団が纒向の建設に参与したという物証として極めて重要である。

3-3 結晶片岩──阿波の石材が大和の王墓に入る

山田(2019)は、大阪・大和の古墳における阿波産結晶片岩の採用について次のように記録する。竪穴式石槨の石材は「紀伊の紀ノ川流域と阿波の吉野川流域に産するが、紅簾石片岩が含まれることが多く、後者から持込まれたと考えてよい」とし、大和においては「燈籠山古墳、東殿塚古墳、櫛山古墳、柳本大塚古墳、メスリ山古墳などの王墓や大型古墳に採用される」と明記している。その分布域は阿波系土器の濃密分布域とも一致する。石槨の建造者自身が阿波の石と技術を携えて大和に入ったと考えるのが最も合理的である。

3-4 讃岐の積石塚と前方後円墳技術

山田(2019)は、石清尾山古墳群(高松市)を中心とする讃岐の積石塚古墳の独自性と近畿への波及を記録している。「積石塚古墳とそこに見られる垂直板石積みは、石清尾山古墳群を主体とした四国東北部に分布し、しかも系譜の追える墳丘構築技法」であり、「玉手山古墳群と松岳山古墳群では、玉手山7号墳と同9号墳、茶臼塚古墳に結晶片岩の使用が確認されている」と述べる。また「松岳山古墳の長持形石棺と玉手山3号墳の石棺については、讃岐から持込まれた石材」であり、「松岳山古墳の場合は側石のみが讃岐産で、蓋石と底石は花崗岩」であることも明記されている。


第4章 漢鏡・土器の物的連鎖──「阿讃→大和」の一方向的ベクトル

4-1 漢鏡7期鏡の阿讃集中──畿内に先駆けた大陸入手ルート

森下章司「阿波・讃岐出土の漢鏡7期鏡」(季刊考古学・別冊41『四国考古学の最前線』雄山閣、2023年)は、漢鏡7期鏡(2世紀後半〜3世紀初頭)の分布について重要な事実を示す。卑弥呼の鏡と考えられている画文帯神獣鏡(漢鏡7期第2段階)の前後の鏡群が、畿内より先行して阿讃地域に副葬されており、森下は「中央からの配布ではない経路で両地域にもたらされた鏡式も含まれる」と述べている。これは阿讃勢力が独自の大陸入手ルートを持っていた可能性を示唆する。
なお菅原(1993年「研究紀要『真朱』第2号」)においても、弧帯文の発展過程について、菅原は『吉備・阿讃地域の先行性』(p.63)と『阿波の弧帯文が吉備と極めて緊密な関係にある』(p.68)と述べており、一方向の波及ではなく並行的発展を示唆している。

4-2 台付小型丸底鉢──萩原1号墓と十六面・薬王寺遺跡の一致

Yoichi1106氏の発見が明らかにした公開情報『田原本町文化財調査年報27 2018年度』がある。奈良県田原本町の十六面・薬王寺遺跡(纒向より初瀬川を下った地点)から出土した台付小型丸底鉢が、萩原1号墓の出土品と酷似しており、東阿波型と讃岐型の2種類が揃って出土している。阿讃の祭祀文化が大和盆地東部へ直接流入した経路を示す。
奈良県立橿原考古学研究所編『ホケノ山古墳の研究』(橿原考古学研究所研究成果 第10冊、2008年)には「小型丸底土器は、吉備からは技術を、阿波からは形を吸収」と記されており、ホケノ山古墳の祭祀土器のルーツが阿波にあることを専門家が明記している。

4-3 土器流通の幹線ルートと「阿波系優位・九州系極少」

山田(2019)の「大阪出土の讃岐・阿波・播磨系土器」の「まとめ」に基づく流通状況を整理すると以下のとおりである。

4-4 旧大和川ルートの実証

山田(2019)は旧大和川流域の流通ルートについて次のように述べる。
「瀬戸内沿岸を通り、摂津中部を介して河内湖に入り、旧大和川をさかのぼり大和盆地にいたるのが幹線ルートである。」
(山田隆一、前掲論文、第3章第1節「まとめ」)

また集落遺跡の流通ルート上の位置について、山田(2019)は次のように述べる。
「崇禅寺、垂水南、西岩田、中田遺跡群、(加美・久宝寺遺跡群)、本郷、船橋遺跡から纒向遺跡への流れが想定できる。」
(山田隆一、前掲論文、第2章第1節まとめ⑤)

このルート上で阿波・讃岐・山陰・吉備系が多数派となり、纒向では東海・関東系も加わるという差異は「旧大和川ルートで中継したのち、纒向で東国からの物資と合流した」という段階的集積を示す。


第5章 「東瀬戸内型祭祀」とホケノ山古墳──祭祀文化の伝播

5-1 中溝康則による「汎北九州・瀬戸内型祭祀」と「ホケノ山型祭祀」の二分

綾部山39号墓(播磨)の発掘調査報告書(2005年)に収録された論考において、中溝康則氏は弥生終末期〜古墳初頭の鏡副葬祭祀体系を分析した。中溝氏の記述を以下に引用する。
「ホケノ山古墳被葬者埋葬の頃、鏡を破砕せず完形鏡のまま副葬する『大和型』祭祀と、副葬時に鏡を破砕する『東部瀬戸内地方型』の祭祀という、鏡に対して異なった祭祀があったとみられる。ホケノ山古墳の被葬者は、鏡副葬祭祀について『大和型』と『東瀬戸内型』二地方の祭祀を併祭したものと考えられる。」
(中溝康則「ホケノ山古墳型祭祀と東部瀬戸内型祭祀」綾部山39号墓発掘調査報告書、2005年)
さらに中溝氏は次のように述べる。
「鏡を割らなくなるのは、『ホケノ山古墳型祭祀』が確立してからのことであると考えるのである。そして、鏡を割って副葬していた『汎北九州・瀬戸内型祭祀』はその後、不採用となり、鏡を割らない大和の『画文帯神獣鏡祭祀』へと統一されていったと考えられる。」
(中溝康則、同上)
※ 中溝氏は祭祀の名称として「汎北九州・瀬戸内型祭祀」という表現を用いており、九州を含む広域の祭祀として捉えている。本稿の「東瀬戸内型祭祀」という略称はnote資料における通称であり、中溝氏の原文とは表現が異なる。
萩原1号墓(阿波)においても画文帯神獣鏡が破砕副葬されて出土しており(菅原、1983年・2010年)、この「東部瀬戸内型」の祭祀が阿波でも確認されることは、阿讃と播磨が同一の祭祀圏に属していたことを示す。


萩原1号墓出土品(徳島県立埋蔵文化財総合センター展示資料)
鏡も管玉も意図的に破砕・打割されて副葬されていた
土器には讃岐産、阿波産を含む


5-2 画文帯神獣鏡の分布と「卑弥呼共立」

中溝(2005)は画文帯神獣鏡の分布について次のように述べている。
「画文帯神獣鏡については、大和や阿波・讃岐の早期・前期古墳に集中して見られることから、近年、この鏡こそが卑弥呼擁立の時期に、邪馬台国王権が朝鮮半島にあった公孫子政権から入手し、邪馬台国連合の首長者に共同祭祀用具として配布された鏡ではないかと考えられるようになってきた鏡である。」
(中溝康則、同上)
※ この記述において中溝氏は、他の研究者の間で「考えられるようになってきた」という見解を紹介する形で述べており、中溝氏自身の断定的な主張ではない点に留意が必要である。また「邪馬台国王権」という語も中溝氏の引用内の表現である。
「大和と阿波・讃岐」が画文帯神獣鏡の集中地であるという事実は、邪馬台国の政治的中枢が阿讃にあり、大和はその連合国の一員だったというモデルと整合する。

5-3 庄内式土器の「出自」問題──大和から広まったのではない

古屋紀之(明治大学、2002・2006年)は、前期古墳の葬送祭祀と土器系譜を分析し、「畿内系二重口縁壺の祖型が四国東部地域にみられることは、竪穴式石室の導入や朱の流通の問題などとともに、古墳出現期における中・東部瀬戸内地域との社会的あるいは政治的情勢の変化とも関係するものであろう」と述べている(古屋2006)。また古屋(2002)は、大和での加飾壺による囲繞配列が四国北東部型葬送祭祀に系譜を持つことを図示しており、庄内式土器・畿内系二重口縁壺・畿内式加飾壺と呼ばれるものが東瀬戸内の土器(下川津B類・東阿波型土器)にルーツを持つ可能性を示している。これらは「大和から文化が外へ広がった」という畿内説の前提に再考を促し、東部瀬戸内地域から大和へという文物流入の方向性を支持する。

(古屋紀之「古墳出現前後の葬送祭祀」『日本考古学』第9巻14号、2002年 / 古屋紀之「葬送祭祀儀礼の系譜から見た古墳の成立」明治大学、2006年)

【後半】文献・墓制論編

第6章 魏志倭人伝の行程──短里説による原文忠実解釈

6-1 短里説の三つの独立した根拠

長里(1里≒435m)を適用すると「帯方郡から12,000余里」は約5,200kmとなり赤道を超える。この根本矛盾を解決するのが短里説(1里≒76〜77m)である。

6-2 二系統モデルと行程記述の整合

二系統交通モデルを前提とすると、倭人伝の行程記述は「系統B(豊後水道ルート)」を辿った記録として理解できる。末蘆国(宗像市)→伊都国(行橋市)→奴国(豊前)→不弥国(中津市)という陸路を経て、豊後水道を南下し四国西岸に上陸、四国山地を陸行一月で阿波に至る──この読み方で方角・距離ともに原文修正が不要となる。

第7章 「径百余歩」の墓──萩原1号墓と箸墓古墳の決定的差異

7-1 卑弥呼の墓の記述と短里換算

卑弥呼以死、大作冢、径百余歩、徇葬者奴婢百余人
短里説(1里=300歩、1歩≒25.6cm)によれば、100歩=25.6m。「百余歩」は約26〜31mの規模。「冢」は高い盛り土のある「古墳」とは区別される、封土を持つ程度の墓を指す。
※ 「徇葬者奴婢百余人」については、百余名が葬儀を囲んで執り行う「徇葬」と解釈する見方もある(note著者の見解)。

7-2 萩原1号墓・箸墓・二系統モデルとの関係


注目すべきは、萩原1号墓における「東部瀬戸内型祭祀(破砕副葬)」と「中国産朱」の組み合わせが、港湾連合型王権モデルにおける「外交権威(朱・鏡)」と「連合内部の祭祀(破砕)」の二重性を体現している点である(中溝2005、菅原2010)。箸墓古墳はこの「破砕」段階の後、「大和型(完形副葬)」へ統合された段階の墓と理解できる。


結論 考古学者に問う──東瀬戸内から畿内への遷都モデル

総合モデル:二系統収斂から大和展開へ

本稿が提示する「東瀬戸内から畿内への遷都モデル」は、以下の時系列で理解できる。

  • 縄文時代後期〜弥生前期:阿波南部の海人族が阿波杉の船で瀬戸内ネットワークを構築(田井遺跡、埋文センター調査報告書第69集)。山陰・丹後では日本海交易圏が並行して発展

  • 弥生中期〜後期:北部九州を外交結節点とする二系統交通網が確立。阿讃は系統A(山陰・播磨経由)と系統B(豊後水道経由)の収斂点として台頭

  • 2世紀後半〜3世紀初頭:卑弥呼共立。阿讃を中核とした港湾連合型王権(邪馬台国)が成立。漢鏡7期鏡を畿内に先駆けて入手(鳴門・板野古墳群、菅原2011・森下2023)

  • 3世紀前半:東阿波型土器・台付小型丸底鉢・朱・結晶片岩が旧大和川ルートを経て纒向周辺に流入開始。山陰系土器も同ルートで合流(山田2019)

  • 3世紀中葉(庄内期新相〜布留期前半):阿讃播連合の人・技術・物資が中河内・大和盆地東南部に集中。纒向「突如出現」の実態は阿讃勢力の大和開拓。葺石技術・結晶片岩が王墓に採用(吉木・山田2019)

  • 3世紀後半〜4世紀:政治重心が大和に移動。「東部瀬戸内型祭祀(破砕副葬)」は「大和型(完形副葬)」へ統合・止揚され、ホケノ山古墳型祭祀が確立(中溝2005)


考古学界への問い

  • 山田(2019)が示した「北部九州系わずか7点、阿波・山陰系が多数」という事実は、邪馬台国北部九州説の物質的根拠を実質的に否定するものではないか

  • 旧大和川流域への山陰系と阿波・讃岐系の合流は、日本海ルートと豊後水道ルートの「二系統収斂」を物語るものではないか

  • 吉木誉絵(明治大学)の「萩原1号墓の葺石→ホケノ山古墳」という技術伝播系譜は、ヤマト王権形成主体が東瀬戸内勢力であったことの建築技術的証拠ではないか

  • 森下(2023)が示した「阿讃地域への漢鏡7期鏡の集中、畿内への先行」は、邪馬台国が阿讃に存在した証拠として真剣に検討されているか

  • 菅原康夫(1983〜2017)が長年の発掘と論考を通じて記録した萩原墳墓群の継続的首長系譜・中国産朱・平壌鏡との同笵関係は、なぜ邪馬台国論争の主流から無視されてきたのか

  • なぜ『魏志倭人伝』は瀬戸内海を書かなかったのか──瀬戸内が倭国の「内部」であったとすれば、それは阿讃を中心とした港湾連合型王権の「内海」だったからではないか


主要参考文献・資料

【考古学論文・発掘調査報告書】

山田隆一「集落遺跡からみた古墳時代前期社会の研究──近畿における広域流通の視点から──」関西大学審査学位論文、2019年
森下章司「阿波・讃岐出土の漢鏡7期鏡」季刊考古学・別冊41『四国考古学の最前線』雄山閣、2023年
中溝康則「ホケノ山古墳型祭祀と東部瀬戸内型祭祀」綾部山39号墓発掘調査報告書、2005年
奈良県立橿原考古学研究所編「ホケノ山古墳の研究」(橿原考古学研究所研究成果, 第10冊)奈良県立橿原考古学研究所, 2008.11
菅原康夫『黒谷川郡頭遺跡Ⅰ』徳島県教育委員会、1986年
菅原康夫・瀧山雄一「阿波地域」『弥生土器の様式と編年』(年代未詳)
菅原康夫『萩原墳墓群』徳島県教育委員会、1983年
菅原康夫「弧帯文の発展と阿波・吉備」研究紀要『真朱』第2号、1993年
菅原康夫『萩原2号墓発掘調査報告書』2010年
菅原康夫「鳴門・板野古墳群の特質と阿波古墳時代前期首長系譜の動態」2011年
菅原康夫「阿波型竪穴式石槨の成立過程(弥生終末期)」2017年
菅原康夫ほか「東州津遺跡発掘調査報告書」2011年
吉木誉絵「前方後円墳成立期における墳丘石積みの系譜──萩原1号墓・西条52号墓の再評価──」明治大学考古学研究室
徳島県埋蔵文化財センター調査報告書第69集『田井遺跡』第1分冊
湯浅利彦「発掘された徳島(阿波)」公益財団法人徳島県埋蔵文化財センター講義資料
大賀克彦「ガラス製玉類の流通と弥生墳丘墓」奈良女子大学協力研究員・第6回ガイド養成講座
古屋紀之「古墳出現前後の葬送祭祀」『日本考古学』第9巻14号、2002年  古屋紀之「葬送祭祀儀礼の系譜から見た古墳の成立」明治大学博士学位論文、2006年


【文献史学】

陳寿著『三国志』魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)3世紀末
谷本茂「周髀算経と短里」『数理科学』1978年3月号
古田武彦『邪馬一国への道標』朝日新聞社、1975年


【本稿の基礎となったnote・YouTube資料】

committed to excellence 阿波古代史などnote(https://note.com/cute_hebe442)
ANYAチャンネル(YouTube):邪馬台国阿波説行程解説
Yoichi1106氏による考古資料調査成果(台付小型丸底鉢・東阿波型土器の纒向周辺出土確認等)

※ 本稿は阿波説を支持する立場で執筆しており、引用した考古学論文・報告書の著者が必ずしも阿波説を支持しているわけではありません。各一次資料の精査をお勧めします。引用はすべて原文または原文に忠実な要約であり、省略がある場合は〔…〕で示しています。