自分のうんこは、いつから「汚いもの」になるのか?
自分のうんこって、いつから「汚いもの」になるんやろ。
お腹の中にあるとき、誰も「うわ、汚いもんが入っとる」なんて思わへん。せやのに、トイレで出した瞬間、便器の中を見て「うわ、汚っ」ってなる。
おかしないか、これ。
さっきまで、自分の身体の中にあったもの。材料のほとんどは、自分が食べたもの。なのに、身体の外に出た瞬間、「自分」から「汚物」へと一気に格下げされる。
この一瞬の切り替わり。ここに、けっこう深いもんが隠れてる。
唾でも、同じことが起こってる
口の中の唾は、普通に飲み込める。何の抵抗もない。
せやのに、それをグラスにペッと吐き出してみ。
「……いや、これは無理」ってなる。
口の中にある唾と、グラスの中の唾。中身はほぼ同じもの。変わったのは、身体の内側にあるか、外側にあるかだけ。それだけで、扱いがまるで別物になる。
髪の毛も、爪も、血も
頭に生えてる髪の毛は自分の身体。床に落ちた瞬間、それはゴミ。
指についてる爪は自分の身体。切り落とした瞬間、それは捨てるもの。
身体の中を流れてる血は自分の身体。外に出た瞬間、それはただの体液。
こうやって並べてみると、「自分」と「自分以外」を分けてる境界線、思てたよりずっと頼りない。
「自分」の境界線は、物理的な線やない
身体の内側は自分、身体の外側は自分以外。
普段、そう感じて生きてる。せやけどその境界線は、壁みたいにガチッと固定されてるわけやない。
髪の毛一本。爪一枚。唾。うんこ。血液。
身体から外に出ただけで、「自分」から「自分以外」へと、頭の中の扱いがパッと切り替わる。
つまり「自分」という感覚は、物質そのものやなくて、脳が勝手に作ってる線引きなんちゃうか。
「自分」は、身体の外にも広がってる
ここからが、ほんまの本題。
自分の部屋。自分の机。自分の車。自分のスマホ。自分のお金。自分の時間。
どれも身体やない。せやのに、勝手に触られたら嫌やろ。
なんでか。脳の中では、それらもある程度「自分の領域」として扱われてるから。線は皮膚の外側まで、ちゃんと伸びてる。
人間関係まで、その領域は広がってる
もっと面白いのはここから。
自分の家族が褒められたら、自分まで嬉しい。
自分の大切な人が傷つけられたら、自分が傷つけられたように感じる。
自分の仕事を否定されたら、自分自身を否定されたような気がする。
もう、「自分」の境界線は皮膚だけやない。大切やと思ってるもの全部を、自分の領域として抱え込んでる。
せやから、人間関係で疲れる
「なんであの人は、私の思い通りに動かへんの」
この怒り、よう見ると「相手の行動まで、自分の領域やと思い込んでる」だけかもしれへん。
「あの人に嫌われた。だから私には価値がない」
この悩みも、「他人の評価」を自分の領域に取り込んでしまってるだけかもしれへん。
人間関係のしんどさの正体って、案外、「自分の領域」と「他人の領域」の境界線がぼやけたところから生まれてる。
境界線を消すんやなく、気づくこと
「全部他人事や、関係ない」って割り切る話やない。
大事なんは、自分と他人の境界線を、柔らかく見られるようになること。
誰かが怒ってる。相手が怒ることは相手の領域。自分がどう対応するかは自分の領域。
誰かに嫌われた。相手がどう感じるかは相手の領域。自分がどう生きるかは自分の領域。
「これ、誰の領域なんやろ」
一回、そう考えてみるだけで、しんどさの重さが変わってくる。
今日からモヤッとしたとき、頭の中でこの三つを聞いてみてほしい。
これは誰の問題なんか。自分か、相手か。
自分はどこまで責任を持つべきなんか。全部か、一部か。
どこから先は、相手の領域なんか。
そして最後に、もう一回自分に聞く。
「私は今、どこまでを『自分』やと思ってるんやろ」
「私」という境界線は、思てるほど固定されてない
自分のうんこ。自分の唾。自分の髪の毛。自分の爪。
どれも、もともとは自分の身体の一部やった。せやのに身体の外に出た瞬間、「自分」から「自分以外」へと変わっていく。
同じことが、持ち物にも、空間にも、人間関係にも起きてる。
便器の中のうんこを見ながら、「自我とは何か」を考える。
一見アホみたいな話やけど、これがけっこう深いところにつながってる。
あなたが今しんどいと感じてるその境界線、ほんまに全部「自分」のもんか?
