AIの時代、伝統宗教は選ばれるのか
・AIによって暮らしが豊かになっても、仕事や評価を通じて得ていた「自分は必要とされている」という感覚が揺らぐ可能性がある。
・浄土真宗の教えには、能力や成果を救いの条件とせず、認められたい思いを捨てられない自分も含めて、見捨てられてはいないと聞く安心がある。
・宗教の役割が大きくなっても、伝統宗教の教えが自然に届くとは限らない。変わりゆく社会を共に生きる人に何を担えるのか、今から考える必要がある。
AIが社会を大きく変えていく中で、宗教は、今より大きな役割を果たすのではないかと僕は思っている。
ただし、だから伝統宗教のところに、自然と人が戻ってくるという話ではない。むしろ、そのときにも、伝統宗教は選ばれないかもしれない。
長く受け継いできた教えに、これからの人間を支えるものがあるとしても、それが、必要としている人に届くとは限らないからである。
だからこそ、今、考えておく必要があるのではないか。社会の変化がもっとはっきりしてからではなく、今の段階で、伝統宗教はどのように人に手を差し伸べていくのか。
僕はお寺にいるので、これは自分自身への問いでもある。
普通に頑張ることで、得られていたもの
僕は、AIにかなり期待している。
Codexを使って、いろいろなものを作るのも面白い。以前なら、やってみたいと思っても、技術や時間の問題で諦めていたことが、できるようになる。それは素直にすごいことだと思う。
ただ、それによって、これからも自分の仕事や役割が確保されるのかというと、そう簡単でもない。
僕にできるということは、ほかの人にもできるということである。みんなが作れるようになれば、似たようなものは、あっという間にあふれるだろう。
作られたものに使い道がなくなるわけではない。けれども、「これが作れる」ということ自体は、特別ではなくなる。何かを作れるようになることと、それによって仕事を得たり、人に必要とされたりすることは、別の話なのである。
そして、この変化は、ものづくりに限らないだろう。
これまでは、特別な才能がなくても、勉強して、仕事を覚えて、きちんと取り組むことで、社会の中にある程度の役割を持つことができた。もちろん、それが誰にでも保障されていたわけではない。それでも、世界一でなくても、その仕事を引き受ける人は必要だった。
そのことが、収入だけでなく、「自分も誰かの役に立っている」という感覚を支えていたのだと思う。
AIが多くの仕事を引き受けるようになると、そこが変わる可能性がある。
どの仕事が、どの程度なくなるかは、まだわからない。ただ、普通に努力し、普通に仕事をしてきた人が、それまでのやり方では必要とされなくなる社会は、考えておかなければならないと思う。
そのときに、「人間にはまだ素晴らしい才能がある」と言われても、僕は少し困る。
並外れた身体能力や、特別な魅力を持つ人には、活躍の場があるのかもしれない。けれども、そういうものが特にない人は、どうなるのだろう。
「あなたにも、まだ見つかっていない才能があるはずです」という励ましも、少し苦しい。どこかに特別なものがあると信じて、いつまでも探し続けなければならないのだろうか。
特別な才能がある人の話ではなく、普通に頑張ることで、何とか生きてきた自分の話をしたいのである。
豊かになった、その先に
ただ、仕事がなくなるといっても、それでみんなが生活できなくなる未来だけを考えているわけではない。
AIやロボットが多くの仕事を担い、そこから生まれる豊かさによって、人々の生活が支えられるようになる。ベーシックインカムなのか、ベーシック・ハイインカムのようなものなのかはわからないけれども、社会の仕組みも、徐々にそういう方向へ変わっていくのではないか。
もちろん、自然にそうなるとは限らない。生まれた豊かさをどう分けるかという、大きな問題はある。それでも僕は、そういう未来を期待している。生活のために働き続けなければならなかった人が、そこから解放されるなら、それはよいことだと思う。
ただ、ここで考えたいのは、その楽観的な未来が、うまく実現したとしてもの話である。
生活の心配をせず、好きなことをして暮らせる。それなら、もう困ることはないだろうか。
それを楽しめる人もいるだろう。僕にも、やってみたいことはいろいろある。けれども、自分はそれだけで満たされるのかと考えると、少し自信がない。
何かを考えたり、つくったりすることは好きだ。しかし、本当に、それをすること自体が楽しいだけなのだろうか。誰かに見てもらいたいし、面白いと思ってもらいたい。「こんなことができるんですね」と言われれば、うれしい。
仕事や成果、周囲からの評価。僕は、思っている以上に、そうしたものによって、自分が価値ある存在であることを確かめてきたのかもしれない。
生活を支える収入は、社会の制度によって保障されるようになるかもしれない。しかし、仕事を通じて得ていた「自分も必要とされている」という感覚まで、それによって置き換わるとは限らない。
AIによって人間の価値がなくなる、ということではない。ただ、自分には価値があると思うために頼っていたものが、失われるかもしれないのである。
暮らしが豊かになることと、その暮らしを生きる自分を受けとめられることは、同じではない。
僕が宗教の役割を考えたいのは、AI社会がうまくいかなかったときのためだけではない。むしろ、うまくいって、働かなくても暮らせるようになった、その先にも残る問いがあると思うからである。
「そのままでよい」は、別の評価ではない
ここに、宗教の役割があるのではないかと思っている。
特に仏教は、「では、何をすればもっと評価されるか」という方向ではなく、評価されないと自分には価値がないと思ってしまう、その自分に目を向ける教えなのだと、僕は受け取っている。
社会に認めてもらえないなら、別のところで認めてもらおう。それも、一時の支えにはなるだろう。けれども、それだけでは、評価してくれる相手が変わっただけである。認められなくなることへの不安も、残り続ける。
僕は浄土真宗なので、ここで「そのまま」ということを考える。
それは、何をしても構わないということではない。また、「社会では評価されなくても、こちらでは高く評価します」ということでもない。
優れた能力を持っていることも、立派な人間になることも、救いの条件にはなっていない。何かを達成し、価値ある自分になってから、ようやく安心してよいという話ではないのである。
しかも、認められたいという思いを捨てられない自分も、そこから除かれていない。
内面に向き合うというと、今度は心を磨いて、よりよい自分になろうという話に聞こえるかもしれない。しかし、それでは、外側の能力を競う代わりに、内側の立派さを競うことになってしまう。
自分の心さえ、思いどおりにはならない。その自分を含めて、見捨てられてはいないと聞く。僕は、そこに、普段の価値観とは違うところにある安心を感じている。
ただ、そう書いている僕も、人に認められればうれしいし、認められなければ気になる。この文章だって、できれば読んでもらいたい。
教えを知っていることと、そのとおりに自分の心が動くことは、違うのである。だからこそ、これは誰かに教えてあげれば済む話ではなく、自分自身が聞き続ける話なのだと思う。
必要な教えが、求められるとは限らない
ここに、もう一つ難しいところがある。
外から評価されることで自分を支えてきた人が、その支えを失ったときに求めるのは、自分のあり方を問い直す教えだろうか。それとも、もう一度、外から評価してくれるものだろうか。
僕自身、「あなたには特別な役割がある」と言われれば、聞いてみたくなると思う。
「そのままでよい」と言われるよりも、「実は、あなたは特別なのです」と言われる方が、求めていた答えに聞こえることもあるだろう。
そうした言葉を与えてくれる新しい宗教や、宗教とは名乗らない何かが、これから生まれてくるかもしれない。AIが、その役割を担うことも考えられる。
新しいものを否定したいわけではない。古い宗教なら安心だというつもりもない。誰かに認められることで、実際に支えられることもある。
ただ、認めてもらうために、その相手から離れられなくなるのなら、苦しみは形を変えて残る。世間での評価を失う不安が、今度は、その集まりの中で評価を失う不安に変わるだけかもしれない。
これは伝統宗教にも起こりうる。信仰の深さや、貢献の大きさで人を測るようになれば、結局、同じことである。
宗教を必要とする人が増えることと、伝統宗教の教えが届くことは、同じではない。
むしろ、外からの評価を失うほど、人は、外からの評価を強く求めるかもしれない。だから、「そのうち、こちらの教えの大切さがわかってもらえる」と待っているだけでは、届かないのだと思う。
宗教の時代を、待っているだけでよいのか
これからは、宗教の時代になるんじゃないか。僕もそう思っている。ただ、それは、伝統宗教にとって都合のよい時代が来るということではない。
今回の変化は、これまでの悩みが少しずつ増えていくという話では済まないかもしれない。普通に努力し、働くことで、社会の中に自分の役割を持てる。その前提が、思っているより短い間に変わる可能性がある。今、お寺に関わってくださっている人も、そうでない人も、その変化を生きていく。
けれども、教えを長く受け継いできたからといって、僕らが、その変化に向き合う準備までできているわけではない。
僕ら自身も、仕事や役割、外からの評価に支えられて、これまでの社会を生きてきた。お寺に人が集まればうれしいし、活動を評価されれば安心する。その自分を支えている前提が揺らぐことを、どこまで自分の問題として考えられているだろうか。少なくとも僕は、十分に考えられているとは言えない。
何かに秀でていなくても、特別な役割を持てなくても、人がその人として、人と関わりながら、生き生きと暮らしていける。社会が大きく変わる中で、そういう生き方を支えることに、宗教は関わっていけるはずだと思う。
問われているのは、お寺に人が戻ってくるかどうかよりも、その社会を一緒に生きる人に対して、僕らが何を担うのかということなのだろう。
何をどうすればよいのか、僕にも簡単な答えはない。ただ、教えがあるというだけで安心し、これまでどおりにしていればよいとは思えない。人が自分の生を支えてきたものが大きく変わるかもしれないのなら、それにどう向き合うのかを、今、考えておかなければならない。
伝統宗教が選ばれるとは限らない。けれども、それを「選ばれなければ仕方がない」で終わらせてよいのだろうか。
人が生きていくために大切なものを受け継いでいると思うなら、「わかってくれる人だけに、わかってもらえればよい」とは、僕は言っていられないと思う。
