儚く散った映画女優・桑野通子

大須健太所蔵
【ダンサーから映画女優へ】
かつて、日本映画の世界では銀幕のスタアが存在した。「スター」とは書かず「スタア」と書いた時代である。その銀幕の世界に一人のスタアがいた。
映画女優の桑野通子である。
1946年4月1日に急逝してから、かれこれ80年近くが経とうとしている現在、時の経過と共にリアルタイムで通子を知る人々も死に絶えて行く中、今では熱心な映画ファンや、あの時代の文化に憧れを抱き、傾倒する者の間でしか知られていない、文字通り伝説の映画女優である。
桑野通子は1915年1月4日、東京市芝区三島町8番地(現・港区芝大門1丁目あたり)で洋食屋「喜楽軒」を営む父・半二郎、母・よしの長女として誕生した。4歳の時、母・よしが若くしてこの世を去るという不幸に見舞われる。後に通子自身も幼い一人娘のみゆきを遺して、若くして世を去ることを思うと、何とも言えない因縁めいたものを感じずにはいられない。
1932年3月、三田高等女学校(現・三田国際学園高等学校)をトップクラスの成績で卒業後、通子は森永製菓が新聞に掲載していたスィートガール、今で言うところのキャンペーンガール募集の記事を目にしてこれに応募。応募者1000人以上の中から見事選ばれ、森永製菓に入社した。
初任給は60円(30円という説もあり)当時の森永の大卒の社員の初任給も60円だったというから、高給だったと言える。この他に諸手当ても付くのであるから、当時、そう多くはなかった他の女性の職業より収入の面ではかなりのものであったと言えるだろう。その代わり、通子たちスィートガールに選ばれた者は2ヶ月間、美容や着付、ダンスといったその分野の専門家から様々な指導を受けなければならなかった。
2ヶ月の研修を終えた通子は、初代スィートガールとして商品の販売促進・営業宣伝のため、各地の百貨店やキャンディーストアを巡る。北は北海道から時には台湾まで回ったという。そんな根なし草的な生活が2年も続くと、通子もスィートガールの仕事に煩わしさを感じるようになり始めた。
その頃、通子は女学校時代の友人・堀越朝子とばったり行き会った。その折、堀越は自身が勤める赤坂溜池のダンスホール「フロリダ」で一緒に働かないかと、通子を誘った。今にして思えば、この通子の友人だった堀越朝子も、当時としては先端を行く女性だったことに気づかされる。
どことなくダンサーという仕事に退廃的なイメージを持っていた通子だったが、それから間もなく森永製菓を退社し1934年春、ダンスホール「フロリダ」でダンサーとして働き始めた。
ダンサーになってからの月給は180円~200円だったというから、スィートガールとして旅から旅へと全国を渡り歩くよりも、3倍の給料を得て地に根を張った生活を送れるダンサーに転職した通子は、心身共にホッと出来たことだろう。このダンサー時代に松竹の助監督や、俳優で後に通子の相手役としてコンビを組むことになる上原謙も、学生時代に通子と踊っている。ダンサーの席順は売り上げによって変わるというが、通子は大抵一番の人気ダンサーの席に座っていたという。そんな人気ダンサーとして「フロリダ」で華やかに踊っていた通子を映画界へと導く一人の男が現れる。松竹のスカウトマン・野口鶴吉である。野口は早速、通子に映画女優にならないかと口説き始めた。しかし、ダンサーという一見派手な世界に見られがちな職業に就きながらも、通子はすぐに首を縦には振らなかった。そこで野口は、通子の実家であるレストラン「喜楽軒」の常連だった松竹宣伝部の岡田実と一緒に店を訪ね、二人がかりで通子の映画界入りをすすめた。
その年の夏、最終的に野口らに口説き落とされる形で、通子は映画界入りを決めたのだった。
女学校を卒業して森永製菓のスィートガールから「フロリダ」のダンサーに転職後、映画女優へと、わずか2年の間に目まぐるしい人生の転換期を迎えた通子は、松竹蒲田へ入社。同年11月1日公開の清水宏監督作品「金環蝕」で早くも準主演として銀幕デビューを果たした。
自分からなりたくてなった映画女優ではなかったが、それでもデビューから3年後の1937年に始まった日中戦争から8年にも及ぶ、長い戦争を挟んで迎えた終戦後の1946年4月1日に急逝するまでの、12年間の短い映画人生の中で出演した映画総本数は80本以上を超えるが、残念なことに現在、その出演作品を観ることが出来るのは、わずか30本程度である。この出演作品の現存本数の少なさについては、後に言及することにして、人気絶頂の頃は、先輩の大女優・田中絹代の人気さえ凌いだと言うのだから、銀幕のスタア女優・桑野通子の人気たるや想像に難くないと言えるだろう。

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