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水たまり|掌編小説 #シロクマ文芸部

「水たまりはね、出てきたら覗き込むの。慌てて避けるとよろけ
ちゃうでしょ。浅かったら入っちゃっていいのよ。靴は洗えるん
だから」
 神社の境内に続く階段で、私の前を歩くご婦人が登山杖をつく。
大学生くらいの男の子と腕を組んでゆっくり上がる。
「おばあちゃん、分かったから足元見てね。」
「自分で歩いてるんだもの。いろんな物と出くわすわよ。毎日飲む
薬みたいに覚えなくていいの。水たまりなんてすぐに乾いて消える
んだから」

 耳に入る会話に気づかされる。下を向いて歩いたら水たまりは
出てくるように見えるんだ。歩くだけのことにそんなにも集中力が
必要だったんだ。

 おばあちゃんそれ何の話と笑ったお孫さんが振り返る。どうぞと
道を譲ってくれた。後輩の合言葉を脳内復唱して…
(40過ぎると普通顔はシリアス!口角上げてスマイル)
ご婦人の幸せそうな笑顔に会釈した。神社の本殿が見えてきた。

 参拝後、街まで出てみようかと階段を降りていく。俯いて立ち
止まる女性が気になって、具合が悪いなら一緒に降りましょうかと
声をかけた。
「参拝してないんです。世の中不公平だってイライラしたままだと
お参りじゃなくて文句になりそうで」
若さが滲む声で小さく笑った。

陽のさす緑の中を歩き出す。ふと思い出したことが口をついた。

「私ね、顔にできた大きな青あざを隠さずに働いてる人を見て
泣きそうになったことがあるんですよ」

 20年ほど前旅行で外国のマーケットに行った。お昼ご飯に並んだ
屋台で、顔立ちの整ったその人は威圧的なシェフの隣で接客していた。
注文しようと正面に立つと、化粧っ気のない白い肌と金髪が左目の
内出血の痛々しさを突きつけた。驚いて固まった私を気にも留めず
彼女は快活に注文を取った。
 落ち込んでいた私にガイドが説明してくれた。
「白人社会でも家庭内暴力の環境はあります。司法や制度だけでは
無くならない。自己主張して殴られた女性が、偏見に負けずに堂々と
生活する。そんな積み重ねが社会の許容範囲を整えていくんです。
大怪我もあります。他人からは干渉できない。だから世間は当人の
覚悟を受け入れて普通に接するしかないんです」
 間近で見た若い女性の青あざは残酷で、自己防衛が必要な環境を
考えるとやりきれなかった。彼女の堂々とした態度は清々しく綺麗
だった。 違う環境で活かせたらと思わずにいられなかった。旅行を
思い出す度に名前も知らないその人の無事を願った。

「他人の理不尽に勝手に傷ついたんです。だから不公平でイライラするの
分かります。そんな時のお参りもきっとありですよ」
私達は名乗りあった。そして私は隣を歩く喜美子さんの話を聞いた。

 喜美子さんと駅前で別れて真っ直ぐ自宅に戻った。放り出していた
引っ越しの荷造りを始める。 

 夫に離婚を切り出した時、理由を説明する言葉が無かった。
子供の居ない私達は友達のように仲良く暮らし、お互いのことを
よく知っている。
「今の生活を続けられない」と言った私に、夫は何も聞かずに
「分かった。暫く別居しよう」と言った。

母を亡くしてから、私は過去のことを思い返しては気に
するようになっていた。

もっと努力していたら子供を授かっていたのか
あの時昇進を受けいれてたら
母と一緒に住んで看病していたら
思い起こすと、どの時も決断した事情や理由がちゃんと
あるのに…

最近は、今まで気にも留めなかった些細な違和感がぷかりぷかりと
目の前に浮かんで消える。服装や食の好み、好きだと思っていた
場所や人は本当に好きだったのか?もっと大事なことがなかったか…

 母の闘病中は繋ぎ止めたい気持ちで張り詰めていた。その矛先を
失って、自分の芯のような曖昧なものが、生き易さで小さく固めた
外側を押し上げる。脱皮しないと息ができない。どんな自分が居る
のかわからない。ちょっとした混乱かも知れない。消えてしまった
水たまりかも知れない。

さっさと一人暮らしをして埋もれている自分を自由にしよう。
揺さぶられていた心が決まった。

早く夫が居る場所に帰って来よう。二人で新しい暮らしを始めよう。

小牧幸助さん主催のシロクマ文芸部さんに参加させて頂きました💐
ありがとうございました。

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